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2012年1月31日火曜日

ジョニー・イングリッシュ/気休めの報酬

(Johnny English Reborn)

 ローワン・アトキンソンと云えば昔、NHKで放送していた『Mr.ビーン』をポツポツとしか観ていないので、その劇場版二作品や、前作『ジョニー・イングリッシュ』(2003年)もスルーしておりました。
 よもや八年たって続編が制作されるとは。密かに人気があったのですか。
 そんなわけで、久しぶりにローワン・アトキンソンを観たわけですが、記憶の中の容貌より若干老けている。それは仕方ないか。「もう若くない」というのも、ネタのひとつでありますし。

 MI7の敏腕エージェントだったジョニーも今や過去の人である。モザンビークの大統領警護で大失態を演じて辞職して以降、人里離れたチベットの山奥で修行するという日々。
 しかしMI7の抱えるある重要案件で、情報提供者たっての希望から復職が叶う。
 様変わりしたMI7本部。知らない顔も随分と増え、上司は女性。色々と戸惑うことはあるものの、とにかく任務を帯びて香港へ。
 そこで掴んだ情報は、謎の暗殺集団〈ボルテックス〉が密かに中国首相の命を狙っているというものだった。近日中に開催される英中首脳会談までに、ジョニーは暗殺集団の正体を暴き、陰謀を阻止できるのか。

 予想したとおり、ゆるゆるなギャグが連発される「真面目なコメディ」で、それなりに楽しめました(爆笑するほどではありません)。
 基本は007のパロディですので、秘密兵器ネタもいろいろ。
 紹介されるヘンテコなアイテムの数々も007のノリとほとんど変わりません。特にロジャー・ムーアが007だった頃の雰囲気に似ています(あの頃のノンビリした雰囲気が懐かしい)。

 日本もネタにされていて、MI7本部が「日本の民間企業に運営を委託している」という設定があり、笑う前にちょっとホッとしました。
 あの東芝がMI7本部ビルに看板を出しており、受付嬢も「スパイの東芝でございます」などと応対している。
 よかった。まだ日本企業はネタに使ってもらえるのだ(一発ギャグだけですが)。
 これがあと数年もすれば、サムスンだとか、LGだとかの韓国企業にネタを持っていかれるのでありましょうか。ヘンなところで心配になりました。
 制作者の中に親日家がいるんですかね。ありがたいことです。

 上司が女性になるという設定も007と同じですが、本家Mがジュディー・デンチなのに対して、こちらはジリアン・アンダーソン。おお、『Xファイル』のスカリー捜査官ではないか。御無沙汰しておりました。
 他の共演者は、ドミニク・ウェストや、ロザムンド・パイク。
 ドミニクは『パニッシャー : ウォー・ゾーン』(2008年)で、パニッシャーの敵役となる顔面ツギハギのボスを演じておりましたが、今回は男前のままです。
 ロザムンドは本家の『007/ダイ・アナザーデイ』(2002年)にも出演しておりましたが、近年の『サロゲート』(2009年)でブルース・ウィリスの奥さんの役だった方が印象深い(『ダイ・アナザーデイ』はマドンナの主題歌とハル・ベリーしか記憶に残ってません)。

 香港で掴んだ情報は、〈ボルテックス〉の三人の幹部が持つアイテムを三つ合わせると、とある場所の鍵となり、そこに中国首相暗殺に使用する秘密兵器が納められていると云うものだった。アイテムを三つ揃えない限り、敵は秘密兵器を使用できない。
 早速、そのアイテムのひとつを入手するジョニーだったが、すったもんだの末、結局は敵に奪われてしまう(詰めが甘いというか)。三幹部の一人も口を封じられ、手掛かりは途絶える。
 しかし〈ボルテックス〉は、ジョニーの苦い思い出である(ほとんどトラウマ状態な)モザンビークの大統領暗殺にも関与していたという事実が判明する。手掛かりを求めてジョニーは思い出したくもない記憶を催眠療法で呼び覚まそうとするが……。

 「モザンビークで何があったの?」と訊かれる度に、ローワン・アトキンソンの瞼がピクピク痙攣して身体が硬直するというギャグが数回、挿入されます。顔面を使ったギャグというのも健在なようです。
 ゆるゆるなコメディ映画ですが、香港やスイスにちゃんとロケして、真面目に制作しています。無意味に豪勢と云うか。
 クライマックスでのスイスはともかく、前半の香港ロケにはあまり意味ないのではないかとも思えますが、「イギリス人が中国返還後の香港に行く」と云うのがネタのひとつになっているのでしょうか(あまりそうとは感じられませんけど)。

 ロザムンドの尽力により、次第に明らかになっていくモザンビークでの忌まわしい記憶(その割にジャグジー風呂で美女と戯れるなんぞというロジャー・ムーアへのオマージュみたいな場面もありますが)。
 実はジョニーはそこで〈ボルテックス〉の三人の幹部を目撃していたのだ。二人目の幹部の顔を思い出したジョニーは、今度こそ先手を打つべく急行するが、〈ボルテックス〉の放った刺客は執拗にジョニーを追い続けていた。

 ジョニーの命を狙う凄腕の刺客が、白髪のバアさんである、というのがギャグです。このバアさん、忘れた頃に現れては、襲いかかってくる。まるで『ピンクパンサー』でクルーゾー警部をつけ狙うケイトーの如し。
 バアさんに襲われては反撃に転じ、逃走するバアさんを取り押さえようとして、いつも途中で無関係な老婦人と誤認してしまうというのがパターンなギャグになっています。イマドキ老人虐待をネタにして大丈夫なのか。ローワン・アトキンソン、お婆さんにも容赦無しデス。

 ドタバタの末、二人目の幹部も口を封じられ、更に二個目のアイテムまで奪われて、面目丸つぶれのジョニー。しかし三人目の幹部は、MI7内部にいることが判明する。裏切り者は誰なのか。
 謎の核心に迫るジョニーだったが、敵の罠に嵌められ「ジョニー・イングリッシュこそ裏切り者である」との嫌疑をかけられ、自分が逃走する羽目に。
 英中首脳会談は目前に迫り、ジョニーは追われつつも、会談場所であるスイスへ向かう。

 気に入ったのはクライマックスで登場する英中首脳会談の場所ですね。スイス山中にあり、峻厳な山頂に建つ要塞。登坂不可能な断崖絶壁に囲まれた要塞へのアクセスは、ロープウェイがあるだけ。
 このロケーションを観て『荒鷲の要塞』(1968年)を彷彿といたしましたが、まさかそこまで考えているのでしょうか。
 雪原をスノーモービルで追跡したり、断崖絶壁からパラシュート降下するといった本家007に勝るとも劣らぬアクション場面もあります。当然、ロープウェイのゴンドラの中での大立ち回りも用意されています。
 ゆるゆるなコメディのくせに、なんだこの妙に真摯なアクション演出は。

 〈ボルテックス〉の秘密兵器とは、かつてCIAが開発し廃棄された筈の「洗脳ドラッグ」。モザンビークでもこれを使って大統領の側近を暗殺者に仕立て上げていたのだ。
 要塞に侵入し、裏切り者を暴き、カッコよく決めようとして、ドジを踏むジョニー。逆に自分が洗脳ドラッグを飲まされて暗殺者に仕立て上げられてしまう。
 だが中国首相を撃とうとした瞬間、チベットでの厳しい修行の成果が甦る。
 鍛え抜いた精神は洗脳ドラッグの効果に打ち勝ったのだ──但し、左半身だけ。
 暗殺を遂行しようとする右半身を、左半身が阻止しようとするアホな一人芝居をローワン・アトキンソンが熱く演じてくれます。芸達者ですねえ。

 ドタバタやっている割に、冒頭でのチベット修行がちゃんと伏線になっているあたり、脚本も真面目です。その分、いまいち大笑いできるようなコメディにならないのが辛いところでしょうか。
 様々な小ネタもあちこちに散りばめられていますが、一発ギャグだったり、出オチだったりするので、ストーリーとは深く関係しません。ゆるゆるなコメディが好きな方なら楽しめますが。
 最後の最後で、在位六〇年を迎えようという女王陛下までもギャグのネタにしてしまうあたり、英国人の自虐ネタは素晴らしいデスね。日本じゃ、出来ないよなあ、これは。

 エンドクレジットでオマケのネタまで披露してくれますが、どこで笑えばいいのかよく判りませんでした。芸が達者なのは判るのですが。
 ローワン・アトキンソンがペール・ギュント組曲4番「山の魔王の宮殿にて」のメロディに乗せて料理するという場面なのですが、本編からカットされたけど勿体ないからエンディングに突っ込んだんですかね?


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2012年1月26日木曜日

ダーク・フェアリー

(Don't Be Afraid of the Dark)

 往年のB級ホラー『地下室の魔物』(1973年)をリメイクしたのが本作。長年リメイクの機会を窺っていたというのが、『ヘルボーイ』(2004年)や『パンズ・ラビリンス』(2006年)のギレルモ・デル・トロ。自分で脚本を書いてますが、今回はデル・トロは制作に回り、監督はコミック・アーティスト出身のトロイ・ニクシーに任せています(初監督作品)。
 でもデル・トロが関わっているので安心して観ていられるホラー・ファンタジーです。

 古い洋館の地下に巣くう邪悪な妖精「トゥースフェアリー」が人間を襲うという、実にオーソドックスな物語です。
 新生活を始めようと引っ越してきた家は、実は曰く付きのワケあり物件で、幽霊とか、悪霊とか、魔物とかの巣窟だった──と、云うホラー映画定番な設定が忠実に守られています。一切、ヒネリなしというのが清々しい。
 オリジナル版を尊重し、古典的なイメージが大事にされているのが判ります。ホラーと云うよりも怪奇映画と呼ぶのが正しいのかも。

 本来のトゥースフェアリーは、乳歯が抜けた子供の家にやって来て、抜けた歯とコインを交換してくれる可愛らしい小人さんの筈ですが、デル・トロ的解釈は違うようで。
 『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』(2008年)でも、トゥースフェアリーは群れなす奇怪な昆虫のような描写でしたし。これはデル・トロの趣味なんですかね。
 本作のトゥースフェアリーもまた人間の歯や骨を好んで喰らう生物であると描かれます。特に子供の歯が好み。
 暗闇の中でひそひそと会話しながら、カサコソと移動する得体の知れない生物。直立したネズミのようであり(尻尾はない)、道具を操り、ときには四つん這いで徘徊する。悪意に満ちており、当然ですが、まったく可愛くありません。
 その意味では、フェアリーなんぞと呼ぶよりも、まさに「魔物」と呼ぶに相応しい。

 古典的な演出に則り、前半では彼らは姿を現しません。声だけ、影だけ、痕跡だけといった演出が思わせぶりでいいですね。
 後半になるとチラチラと姿を現し始め、クライマックスではCG全開となり、ワラワラと団体さんで登場します。もう堂々と人間を襲い始めるのが、『グレムリン』を彷彿とさせます。

 本作の主演はガイ・ピアースでも、ケイティ・ホームズでもなく、ベイリー・マディソンちゃん。
 子役の少女が可愛らしいというのが、『パンズ・ラビリンス』と同じく本作の肝でありますね。
 オリジナル版では成人女性が魔物達に狙われる設定でしたが、リメイクに際して小学校低学年の女の子に変更するあたりに、デル・トロの趣味が現れていますね。私も全面的にこれを支持いたします(笑)。

 舞台は米国ロードアイランド州。
 ガイ・ピアースの仕事は、古い家屋を改装して販売するという不動産業。妻とは別居状態で、インテリア・デザイナーであるケイティ・ホームズを公私にわたるパートナーとしている。
 今、手掛けているのは、有名な画家であったブラックウッド卿の館。かつてこの館では、卿の幼い息子が失踪する惨劇が発生し、次いで卿自身も失踪したという経緯がある。以来、買い手のつかないまま長期間放置されていた館を、ガイはリフォームして販売しようという心算。
 そこへ一人娘の少女がやってくる。母親から厄介払い同然に送られてきた様子で、沈んで心を閉ざし、なかなか気難しい。
 父であるガイも娘を愛してはいるけれど、仕事が忙しくてなかなか気が回らず、イマイチ打ち解けない。少女の方は、もう両親の関係がどうなっているのか理解しており、親にたらい回しにされている状況に気がついている。
 なかなか人に馴染めない心理状態であるところを、魔物達につけ込まれてしまうという寸法。

 遊び相手のいないまま、屋敷の敷地を探検するうちに、少女は隠されていた秘密の地下室を見つける。地下室はかつてブラックウッド卿のアトリエとして使用されていた部屋だった。
 アトリエの片隅にある暖炉は厳重に鉄格子で封印されていたが、その奥から聞こえる得体の知れない声に呼ばれ、こっそりと少女は鉄格子のボルトを外し、封印を解いてしまう。
 その日から館の中を「何か」が徘徊し始める……。

 音響設備の良い劇場で鑑賞しましたので、不気味な囁き声や、カサコソと動き回る魔物共の物音が四方から聞こえてきたりして、効果を発揮しておりました。職人芸な音響設計です。

 悪質な悪戯行為が発生し、少女の行動が疑われる。どんなに無実を主張しても信じてもらえない。父親も娘に虚言癖があると思い込んでしまい、ますます少女は孤立していく。
 お約束な展開がキッチリ守られていく安定した演出です。
 お約束と云えば、「祖父の代から屋敷を管理してきた」という館の管理人の老人(ジャック・トンプソン)がいい味出しています。明らかに、何かを知っていながら隠している。もう怪しさが炸裂しまくり(笑)。
 無論、「妖精の仕業よ」という少女の主張が正しいことも老人には判っている──というのが観ている側にはバレバレなのですが、それがいい。
 ガイ・ピアースの頭の固さがいっそう際立ちます。
 本作では父親がなかなか娘を信じようとしません。娘を愛しているなら、半信半疑でも何か手を打ちそうなものだろうに、ガイのボンクラぶりは最後まで貫かれます。

 逆に、愛人であるケイティの方が、何かがおかしいことに先に気が付くとは。パパ、もうちょいしっかりしてくれよ!
 管理人の老人は誰にも気付かれないうちに、一人で地下室の暖炉をまた鉄格子で塞ごうとするが、もはや手遅れ。魔物達の逆襲を喰らって病院送り。このあたりの描写が怖いデス。
 小さな生物でも、ハサミやナイフを持って、物陰から足を切りつけてくる。倒れたらもう最後。群がってくる軍団に為す術も無く切られるわ、刺されるわ、もう血まみれ。

 病院に老人を見舞ったケイティは、街の図書館にある古い記録を探すよう告げられる。
 このあたりの、単刀直入に真相を語らないもどかしい演出が趣深いデス。ズバーッと語れば良さそうなものなのに、そう簡単には明かさない。
 「あの子を屋敷の中に置いておいてはいけない。早く連れ出すのだ」と、警告しながら、はっきり理由を語らない老人(いや、まぁ、重傷を負って息も絶え絶えなんですよ)。かゆいところに手が届きそうで届かないもどかしさが楽しいデスね。
 図書館の司書は、一般公開しないことを条件に、ブラックウッド卿の遺族が寄贈した遺品の数々をケイティに見せてくれる。写実主義で有名だった画家が、失踪前に描いたスケッチの数々には驚くべきものが描かれていた。

 真相に迫ったケイティは、直ちに少女を屋敷から避難させてと主張するが、間の悪いことにその夜にはブラックウッド邸修復完成パーティーが予定されており、ガイは何人ものスポンサー達を迎えて晩餐の準備に余念が無い。
 じきに館には何人もの来賓客がやってきて……。
 このパーティが無事に済む筈が無かろうと云うのは、容易に想像できますね。
 案の定、大騒ぎになって、一気に怒濤のクライマックスへ。

 少女を地底へ引きずり込もうとする魔物共と戦うケイティ。ガイはほとんど助けになりません(もっと頑張れ、パパ)。
 結構、スリリングな攻防戦の末、ようやくガイは娘を助け出すのですが……。
 オリジナル版を踏まえての演出なので、結末はちょっと不思議で後味の悪いラストでしたねえ。うーむ。ケイティ、それでいいのか?




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2012年1月22日日曜日

パーフェクト・センス

(PERFECT SENSE)

 原因不明の五感喪失という感染症のパンデミックを描く近未来サスペンス。ある種の破滅テーマSFですね。
 世界が静かに滅亡していくというシチュエーションというのはイギリス映画ならではです。実際はイギリスを始めとするヨーロッパ四カ国の共同製作だそうですが。この手の映画はやはり米国よりも欧州ですね。
 本作は『トゥモロー・ワールド』(2006年)、『ハプニング』(2008年)、『ブラインドネス』(同年)等の疾病による「静かな破滅SF」の系譜に連なる作品です。『フェーズ6』(2009年)もそうか。
 『感染列島』(2009年)とか『コンテイジョン』(2011年)とはまた少し趣が異なります。

 まぁ、SFと呼ぶには少し寓話ぽいところも感じるのデスが。
 問題の疾病がとにかく原因不明、感染経路も不明というのが恐ろしい。そもそもウィルス感染かどうかも明確ではなく、最後まで明らかにされません。そこがあまりSFらしくない。
 これは疾病により変容していく社会と、そこに暮らす人々の苦闘を描く物語であって、難病と闘うメディカルな物語ではありません。
 ある意味、前述の作品群よりも一番救いが無いとも云える。
 パンデミック終息の気配が見えたり、僅かながら回復の兆しが見えたりとか……しません。最後まで救いなし。
 とは云いながら、かなり力強い物語であり、鬱なまま劇場から出てくるようなこともありませんでした。これはデヴィッド・マッケンジー監督の演出力の賜物と申せましょう。

 主演はユアン・マクレガーとエヴァ・グリーン。
 ユアンは『ゴーストライター』(2010年)に続いて良い作品に出演しています。エヴァの方は『ライラの冒険/黄金の羅針盤』(2007年)以降、あまりお見受けしておりませんでしたが──その後の出演作が日本未公開ばかりだし──、相変わらずお美しい。
 二人の周囲をイギリスやデンマークの俳優さんたちが固めており、日本での知名度は低いながらも演技派ぞろいです。本作はサンダンス映画祭でも注目を集めたそうな。

 ユアンの役は英国グラスゴーの街角で営業するとあるレストランのシェフ。毎度のことながらユアンの役作りは見事です。厨房内での立ち居振る舞いが堂に入っております。
 そのレストランの裏手のアパートに住んでいるのが感染症研究所に勤めているエヴァ。
 知り合った二人はやがて恋に落ちるのですが……。

 ある日、研究所に呼び出されたエヴァは、嗅覚が消失したという男性患者の報告を聞く。そして時を同じくして同様の症状が世界各地で報告され始める。
 それが始まりだった。
 一斉に五感が消失するのではなく、段階的に症状が進行していくという描写が怖いです。しかも発症前に予兆となる症状が現れるという設定が非常に効果的です。
 嗅覚消失に先駆けて、患者は理由のない喪失感の波に見舞われる。過去の記憶が悲しみに包まれ甦り、大泣きしてしまう。
 そしてその後、ぱったりと鼻が利かなくなる。
 嗅覚は記憶の想起と深い関係にあるというが、症状との因果関係はあるのか。研究者たちの努力も虚しく、原因も治療法も判らない。
 やがて街のあちこちで、不意に泣き崩れる人々が大量に発生する。

 世界的な疫病の蔓延を背景に、本作ではユアンの勤めるレストランが一般市民を代表する形でクローズアップされます。
 嗅覚を喪失したお客は、もはや料理の香りを楽しむことが出来ない。鼻づまりの客を想定したピリカラ料理で対応していく。料理を作る側も鼻が利かないので、大甘だったりスパイシーな料理が流行していく。芳香剤業界は大打撃でしょうが。
 このあたりは困難ではありますが、まだ克服は難しくない。香りがなくても思い出を想起する為の工夫もあります。匂いを音で代替する大道芸人のパフォーマンスが巧い。

 しかし疾病は次の段階に。
 猛烈な恐怖と飢餓感に襲われる人が続出。人々は発作的に手当たり次第に、口にものを詰め込み始める。化粧品だろうと、食用油であろうと、花束でも何でもお構いなし。
 理由もなく怯え、理性を無くしてものを貪りまくる人々の描写が強烈です。
 そして味覚を失う。

 感覚の消失は脳の働きと関係あるかのような描写ですが、明確には示されません。脳のある部分が司る衝動が極限まで増幅されたのちに、ひとつの感覚が麻痺してしまうと云うパターンが描かれていきます。
 味覚の消失は、レストラン経営者には致命的。高級ブランデーをガブ飲みしても、何の感動もない。それでも酔っ払うことは出来るみたいですが。
 「もう店はおしまいだ。油と小麦で充分だからな」と嘆くレストランのオーナーを励ますユアン。

 本作はここからが凄い。どんな困難に直面しようと、自暴自棄に陥らず、日常に復帰しようと頑張る人々の姿を描いていきます。
 香りと味がダメでも、音と食感がある。温度差を感じることも出来る。
 この世は油と小麦だけじゃない。シェフ達の努力には涙ぐましいものがあります。
 外食産業は「食感ともてなし」を提供する場となり、再び客が集まり始める。

 ユアンとエヴァの仲も危機を乗り越えて続いていきます。結構、ラブシーンは濃厚で大胆です。「感覚の喪失」というテーマの所為か、映画ではあまり伝わらない嗅覚や触覚に訴えるような官能的な演出が必要なのでしょうか。
 エヴァの大胆ヌードは目の保養です。でもユアンの全裸は見たく無かった(頼むからパンツはあっち向いて穿いてくれ)。

 しかし世界が困難を克服し始めた頃を狙ったかのように、感覚消失の症状は次の段階へ。
 当初、嗅覚と味覚は化学物質への反応であるから、他の感覚は影響を受けないと思われていたのに……。
 猛烈な怒りの衝動が押し寄せ、人々は互いに非難し合い、争い合う。凄まじい怒りの発作。
 そして聴覚を失う。

 もはや全世界的に社会基盤が崩壊しつつある。恐らくこの時点で大量の死傷者が発生したのでしょう。この手の映画にはお馴染みのシチュエーションが現れます。
 公共サービスの麻痺、物流の停滞、略奪と放火。街にはゴミが溢れ、TVは字幕のみの放送となり、防疫服を着た職員がビラを配り、難聴者は外出を控えるよう促していく。
 確かに耳が聞こえないのでは、車の運転も危なくて出来たものではありません。

 だがそれでも人々は生きていく。
 簡単な手話を説明するサインがあちこちに貼られ、手話と筆談で意思疎通を図る。
 楽器の演奏も廃れない。ライブハウスでは演奏者の近くに寄って楽器に触れたり、スピーカーの前に立って空気の振動を感じ取ることで音楽を楽しむ人々の姿があった。
 ユアンの同僚であるシェフ(ユエン・ブレムナー)が作る創作料理も素晴らしい。もはや味も香りも二の次にしたキテレツな盛りつけの料理。見た目はすごく鮮やかで楽しそうなんですけどね。きっと凄い味がするのでしょう。
 どんな困難が押し寄せても、日常を維持しようとする人々はへこたれないのだという描写が感動的です。絶望して自ら命を絶つ人もいるが、それは少数。

 だがそれすらも……。
 最後の感覚消失の予兆が実に残酷です。次第に加速していく発症スピードは、遂に世界同時となる。一斉に押し寄せる多幸感の嵐。
 世界は幸福感に包まれ、光り輝き、あらゆる人々が笑顔になり、互いに赦し許され、恋人達は愛する人と抱き合う。
 そして視覚が失われる。画面も暗転。

 本作はエヴァ・グリーンのナレーションが随所に挿入されて、ドラマが進行していく演出になっています。ドラマの締めくくりもまたエヴァのナレーション。

 互いの息づかいを感じる。頬を伝う涙も感じることが出来る。
 私たちはそれでも生きていく。

 どうやって? もう駄目でしょう? 世界滅亡なんでしょう? ──と、云いたくもなりますが、九〇分かけて困難を次々に克服していく人々の姿を見せられた後なので、妙に確信的なエヴァの言葉に一縷の希望を感じます。
 どうやら大丈夫らしい。どうやってだかは判らぬが、それでも世界は大丈夫らしい。
 人間はへこたれないのだ。
 絶望的状況を描きながら、逆説的に希望を感じさせるというエンディングでした。観終わると、ちょっと元気にさえなれるかも知れません。


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2012年1月21日土曜日

海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン

(GOKAIJYA vs GABAN)

 年末の仮面ライダー映画が終われば、新年はスーパー戦隊映画です。このサイクルはすっかり定着した感がありますね。 本作は海賊戦隊ゴーカイジャーの三本目の劇場版です。
 ところで『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』の際に、ズバットやらキカイダーやらは登場したのに、何故に宇宙刑事は出番がないのかと不満を述べましたが、まさかこのようなクロスオーバーだけで一本制作するとは思いませんでした。
 仮面ライダー誕生四〇周年は、スーパー戦隊誕生三五周年であり、今年はメタルヒーロー誕生三〇周年でもあるそうな。そんなに歳月が流れていましたか。
 すると他のメタルヒーローにも今後は出番が用意されるんですかね(でも出来ればキカイダーとも単独で復活しないものか)。

 毎週、日曜朝のスーパーヒーロータイムを楽しみにしているうちのムスメら(九歳&六歳)が、この映画に関心を持たぬ筈がなく、熱烈コール。はっはっは。ムスメらがどうしてもと云うんじゃ仕方ない。
 しかし気になるのはムスメの言動。

 「ギャバンの〈大いなる力〉はどんなの?」

 いや、ギャバンは〈大いなる力〉は持ってないでしょう。スーパー戦隊じゃないから──と説明しても判ってもらえない。それともドルギランがゴーカイオーと合体でもするのかしら。うーむ、やりかねん。

 「スーパー戦隊じゃないの? じゃあ仮面ライダー?」

 どうやらムスメらの頭の中には、二種類のヒーローしか存在しないらしい。スーパー戦隊でもなく、仮面ライダーでもないヒーローと云うものが想像できないようデス。考えてみれば、今は特撮ヒーロー番組が希少なのか。ウルトラマンも映画だけだし。
 更に質問はつづく。

 「パパ、じょーちゃくって、なぁに?」

 ええと、金属の皮膜をデスね、0.05秒で……どう説明したものか。もう考えても始まらぬ。百聞は一見にしかず。
 シネコンのフロアは案の定、お子様連れで混み合っておりましたが、やはり「お父さん度」の方が高いように見受けられました(笑)。
 しかし何故かスーパー戦隊の映画は仮面ライダーの映画よりも常に尺が短く作られる。本作も六四分なので、非常に展開が早いです。もう立ち止まっている余裕なし。

 冒頭、いきなり超次元高速機ドルギランに追跡されているゴーカイガレオン。都市上空(港区から品川方面の夜景が美しい)での問答無用の砲撃戦という、ど派手なバトルから開幕です。
 次いで早速にギャバン登場。やはり渡部宙明サウンドは燃えるッ。
 夜間撮影で、コンバットスーツがキラキラ輝くという往年の演出が実に懐かしい。
 アッと云う間に海賊行為の容疑でゴーカイジャー一味を逮捕です。圧倒的に強いぞギャバン。しかし今回、特捜戦隊デカレンジャーは言及されども登場せずでした。一緒に登場すればややこしくなりすぎるからか。あれ? 「銀河連邦警察」と「宇宙警察」って同じ組織だったのか。お祭り映画だし、そこはスルー。

 捕縛したゴーカイジャーを連行するギャバンですが、本部は直ちに処刑せよと云う。実はザンギャツクは宇宙警察内部に浸透しており、ゴーカイジャー逮捕は黒幕をあぶり出すギャバンの芝居だったのである。
 尺が短いので黒幕もサクサク正体を現してくれます。
 宇宙警察総裁ウィーバル(佐野史郎)は、実はザンギャックの行動隊長アシュラーダだったのだ。佐野史郎が出番は短いながら楽しそうに演じてくれます。正体を現した後も、声は佐野史郎のままというのがいいですね。
 更にギャバンの能力をコピーしたアンドロイド「最強の宇宙刑事」ギャバンブートレグも登場。あからさまにパチモン臭いがそれなりに強そうではあります。

 壊滅した宇宙犯罪組織マクーの首領ドン・ホラーの末裔を名乗るアシュラーダは、ギャバンを魔空空間に捕らえてしまう。かろうじてゴーカイジャーは脱出したものの、このままギャバンを見捨てることは出来ない。
 実はマーベラスは少年時代(演じているのは濱田龍臣くん)に、一条寺烈に命を救われていたという因縁があったのだった。
 ギャバンは魔空監獄なる施設に収監され、このままでは処刑されてしまう。
 ギャバン救出の為に魔空監獄に乗り込むゴーカイジャー。空間が錯綜し、デタラメにつながりあっている魔空空間から果たして生還できるのか。

 例年の「スーパー戦隊祭」のお約束、次なる新戦隊『特命戦隊ゴーバスターズ』もチラ見せ登場。ゴーカイジャーの留守中にレンジャーキー強奪を企むバスコ(細貝圭)と戦うという趣向。
 ゴーバスターズはエテ公のあしらいが上手で(笑)、毒気を抜かれたバスコは早々に退散。
 やはりこういうサービスは大事なんですかね。ムスメら大喜びですよ。
 劇場内では何人ものお子様達がゴーバスターズ登場と同時に声を上げておりました。

 しかし魔空監獄って、数千年間一人の脱獄者も出したことが無い、生きては帰れぬ地獄のような場所であると云われておりましたが、割と簡単に侵入できましたね。
 ついでに収監されている罪人共の顔触れがギャグです。
 ジェラシットとか、ケガレシア様(と例の大臣二名)とか、幻のゲッコウと風のシズカとか、バンキュリアとか……。近年のスーパー戦隊シリーズで、改心したり組織を抜けた連中が捕らえられている。

 成り行きで全員脱獄させてやるゴーカイジャー。物凄く簡単に牢破り出来るとは、魔空監獄って喧伝されているほど凄い場所ではないぞ。
 ひょっとして今まであまり利用されたことのない施設だったのか。囚人を収監していない期間が長かったので「誰も脱獄したことがない」というだけのハナシなのでは……。
 このあたりはもうお子様達、大笑いのコメディ場面です。オールピンク変身やオールホワイト変身を繰り出すゴーカイジャー。尺は短いが色々とやってくれますねえ。
 そして監獄最上階に捕らえられたギャバンを救い出そうとするマーベラスの為に、仲間達が次々と「ここは任せろ。先に行け」と順番に盾になってあげるというのも、超お約束展開。

 無事に救出したギャバンと共に戦うマーベラス。
 ゴーカイレッド対アシュラーダ、ギャバン対ギャバンブートレグという図式。魔空空間ならではの、次々とロケーションを変えながらのカットのつなぎが懐かしいです。
 「ただのコピーに負けるかッ」とブートレグをレーザーブレードで一刀両断。いや実際、負ける要素が見当たらりませんねえ。
 そしてクライマックスは巨大化したアシュラーダに、ゴーカイオーと電子星獣ドルで迎え撃つ。
 合体はしませんでしたが、これはこれでなかなかに燃える熱血展開でありました。

 一件落着後に、ファン・サービスの極めつけ(主にお父さん向け)が待っています。
 本作では大葉健二が一人三役を演じるという活躍ぶり。一条寺烈が曙四郎や青梅大五郎と並ぶという珍妙な場面。合成技術も違和感なしね。
 ヌケヌケと「俺たちって似てるかな」「まぁ、ちょっとな」と開き直る場面はムスメにもウケていました。
 その上、三人揃っての変身。ポーズを決めるギャバン、バトルケニア、デンジブルー。いやはや凄いもの見せて戴きました(笑)。
 かくしてあっという間にギャバンのファンになるムスメ共。

 「ではそのぷろせすをもういちど見てみよー」

 なんか変なフレーズも覚えてしまいましたが、やはりあのコンバットスーツ装着シーンは印象的だったのね。その後やたらと「よろしく勇気だ!」も連発するし。


海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン THE MOVIE【Blu-ray】
映画「海賊戦隊ゴーカイジャー VS 宇宙刑事ギャバン」オリジナルサウンドトラック

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2012年1月14日土曜日

デビルズ・ダブル/ある影武者の物語

(THE DEVIL'S DOUBLE)

 イラクの独裁者だったサダム・フセインの息子、ウダイ・サダム・フセインの影武者を務めたというラティフ・ヤヒア当人が著した同名の自伝を映画化したのが本作です。ベルギー映画と云うのが珍しい。まぁ、アメリカじゃこんな映画は製作できないか。
 嘘か誠か──いや、多分実話なんでしょうが──存じませぬが、あまり一般受けしそうにない物語を、よくこんな気合い入れまくりで製作できたものデス。その部分は感心いたしました。
 背景描写に手抜きが感じられない上、俳優の演技も素晴らしい。

 監督はリー・タマホリ。『007/ダイ・アナザーデイ』(2002年)とか『NEXT ネクスト』(2007年)の監督で、アクション描写は迫力ありますが、大味な作品が多いというイメージがありました。『トリプルX/ネクスト・レベル』(2005年)も、この監督だし。
 大体、SF者である私にとっては、あのフィリップ・K・ディックの小説を無茶苦茶にしてくれたスカタンな監督という根深い恨みのある監督です。それほどに『NEXT ネクスト』は……あんまりな出来映えでした。
 でも本作でちょっとまた印象が変わりました。

 タマホリ監督はニュージーランド出身だそうですが、監督の腕が悪いのではなく、ハリウッドとの相性が悪かったのでしょうか。ハリウッドに進出してからの作品にはイマイチなものが多い。
 でもニュージーランド時代の作品は高く評価されているみたいだし、ハリウッドから離れてヨーロッパで監督した本作も、なかなかの出来映えでした。
 とは云え、製作スタッフの熱意は買いますが、やっぱり本作は一般受けするのか甚だ疑問な感じデス。

 ラティフ・ヤヒアがウダイの影武者を務めていたという時期は、一九八七年から一九九一年まで。丁度、イラン・イラク戦争(1980-1988)が終わりかけの頃からですね。
 映画の冒頭にも、当時のニュース・フィルムが使用されて時代を思い出させてくれます。もうこの戦争を知らない人も多いのか。
 同時に字幕で、独裁者には常に影武者が用意される旨の説明が入ります。かつてスターリンには十二人もの影武者がいたと云う。サダム・フセイン大統領もまた然り。
 だからその息子であるウダイにも影武者は用意されていた──というところから、イラン・イラク戦争の帰還兵であるラティフが首都バグダットの宮殿に召喚される。
 ラティフはウダイの高校時代の学友でもあり、当時から背格好が似ていると評判だった。
 しかし久しぶりに再会したかつての学友は、学生時代よりも更に常軌を逸していた。
 非道の限りを尽くし、暴力とセックスに明け暮れるウダイの影武者役を強制され、自由を奪われたラティフ。家族には戦死したと通知され、存在を消されてしまった男が目の当たりにする狂気の世界──。

 ここでラティフ・ヤヒアとウダイ・フセインを一人二役で演じるのが、ドミニク・クーパー。瓜二つだが性格的にまるで別人な男を見事に演じ分けておりました。
 しかしドミニク・クーパーって、あまり知名度ありませんよね。『マンマ・ミーア!』(2008年)の、と云われるよりも、私にとっては『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』でハワード・スターク役を演じたことの方が印象深いです。
 ドミニクは監督の「知名度が高すぎず、それでいて役に入り込めるほどの役者を」という要求に見事に応えております。
 ぶっちゃけ、本作はドミニク・クーパーの熱演、怪演「のみ」の映画であると云い切って差し支えないほどです。
 本当にドミニク・クーパー「だけ」は凄かった。一世一代の名演技とはコレでしょう。

 いや、他の俳優の皆さんも良かったんですけどね。ドミニクの演技が凄すぎただけで。
 配役の妙で云うと、親父のフセイン大統領を演じたフィリップ・クァストも似てましたねえ。オーストラリア出身の英国俳優だそうですが、舞台とTVで主に活動されているので存じませんでしたが、この方もなかなかに芸達者。
 本作では、フセイン大統領が独裁者とは云え、かなりマトモな人に見えます。いやもう威厳の漂う統治者であるようにも感じられる。
 それほどに息子のウダイが常軌を逸して異常であるからなのですが、無軌道な息子の振る舞いに頭を痛める悩める父親でもあり、こんな息子を持ってしまった悲哀さえ感じられました。でもそれって自分の子育ての方針が、どこか間違っていたからなのでは……。
 「生まれたときに殺しておくべきだった」って、悔やまれてもねえ。
 フィリップ・クァストもまた、フセイン大統領とその影武者の一人二役を演じております。
 今更ですが、最近の合成技術は見事なものデス。

 ウダイの側近役を演じるラード・ラウィも印象的でした。中近東的な顔立ちから『キングダム/見えざる敵』(2007年)や『グリーン・ゾーン』(2010年)にも出演されていたそうですが、いまいち憶えていない……。
 本作では、職務上ウダイの命令を遂行する為に、ラティフの障害となる手強い男を演じております。根は善人なのに、自分のモラルに反する行為に手を染めねばならない葛藤が押さえた演技から滲み出ておりました。

 ラティフとも恋仲になるウダイの愛人役がリュディヴィーヌ・サニエ。セクシーな上に大胆な演技で、最後までラティフを本心から愛しているのか判らない謎めいた女性を演じております。
 それからラティフの父を演じるナセル・メマジアも、反骨精神に溢れる善良なイラク人を体現しておりました。
 総じて日本では知名度低い人役者さんばかりと云う感じデスが、演技派ぞろい。

 それにしても、ウダイの品のない成金趣味と異常なまでの暴力指向に辟易しました。実話に基づくとは云え、これはかなりフィクションが入っているのではあるまいか。
 ──と思いましたが、ラティフ本人に会って話を聞いた脚本家マイケル・トーマスによると「脚本に書いた以上に酷い事実もあった」というから、まだ映像化されたこれは可愛いものなのか。
 ちょっとでも自分の意に染まない輩は問答無用で射殺してお咎め無しなんですけどね。拷問も平気でするし。未成年者でも拉致してレイプしてポイ捨て。
 極悪非道っぷりが突き抜けており、観ていてゲンナリします。タマホリ監督のバイオレンス描写は凄いデスが、そこまで克明に描かなくても。

 やがて湾岸戦争が勃発し、兵士の士気を鼓舞する為に戦地へ派遣されたのはラティフの方。反体制派の襲撃で重傷を負うのもラティフ。影武者の姿をTVで見ては、自分がそこに行った気になっているウダイ。
 ウダイのナルシズムを満たす為だけの道具にされ、もはや自分の人生は無きに等しい。
 自殺を図り失敗しても、今度は国外逃亡を図る。しかしウダイは執拗なまでに追っ手を差し向けてくる。この粘着質な性格も勘弁してもらいたい。
 人生を奪われたラティフは、果たして自由を取り戻せるのか。

 結局、半ば家族を見捨てるようにして──と云うか、覚悟を決めた父親の意思を無にしない為にも──国外逃亡を果たすラティフ。
 そのまま数年が経過し……。
 一九九六年にバグダット市内でウダイ暗殺未遂事件が発生し、銃撃されたウダイは瀕死の重傷となる。暗殺の実行犯はウダイと瓜二つだった、というところでこの映画は終わります(事件は本当ですが、ラティフが関与していたというのはフィクションでしょう)。
 最後にラティフを追い詰めたウダイの警護官が、ラティフの顔を見て無言で見逃してくれるという描写に、ちょっとだけ救われました。悪魔の手先でも、人として良心は残っていたか。

 史実では、瀕死の重傷を負ったウダイは、それでも生き延びるそうです(しぶとい)。
 そしてウダイは二〇〇三年、イラク戦争下で米軍により殺害される。
 ラティフ・ヤヒアが真に自由を得るまでには随分とかかったものです。だからこの年、自伝が出版されたんですかね。


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2012年1月10日火曜日

私だけのハッピー・エンディング

(A Little Bit of HEAVEN)

 恋愛モノで。恋人達の片方が「癌に冒され余命わずか」ときた。
 またか。またこんな「よくあるパターン」の恋愛モノを。
 何故、観てしまうのだ俺(文句垂れるならスルーすればいいのに)。

 それにケイト・ハドソンはイマイチ私の好みではありませんデス。『NINE』(2009年)での「シネマ・イタリアーノ」の熱唱は素晴らしかったし、『キラー・インサイド・ミー』(2010年)も観たかったのですが……。
 しかし競演する俳優が、私の好みです。
 ガエル・ガルシア・ベルナルに、キャシー・ベイツに、ウーピー・ゴールドバーグですよ。これは気の迷いを起こしても仕方ないよね。

 さて本作の主人公ケイト・ハドソンは、ルイジアナ州ニューオーリンズの広告代理店に勤めるバリバリのキャリア・ウーマン。仕事中毒で恋する暇もない。
 物語の舞台がニューオーリンズというのが、ちょっと興味深い。てっきりもうちょっと大都会が舞台なのかと思っていました。NYとかLAとか。
 一応、ニューオーリンズであることに理由があるのですが、それはおいおい判ってきます。

 三〇代の女性がバリバリ働くのは結構なことですが、最近、体調が思わしくなく、やむなく健康診断にかかる。
 その際に受けた問診で、「血便が出たことは?」と問われて素直に「はい」と答えるシーンにちょっと驚きました。自覚症状が出ていたのに、医者に掛からなかったですと? おいおい。
 結果、もう末期の大腸癌で余命半年と宣告される。なんと云うか、早期発見・早期治療のチャンスをみすみす逃している主人公の生活態度に呆れました。自分の身体のことなのに、そこまで放置できるものなのか。
 主人公が難病に罹るというのが物語の大前提ではありますけどね。必然とは云え、なんか御都合主義を感じます。

 ケイトの担当医になるのが、ガエル・ガルシア・ベルナル。『モーターサイクル・ダイヤリーズ』以来、気に入っております。『ブラインドネス』や『ジュリエットからの手紙』のように、ヒゲ面の方がラテン野郎ぽくて好みなのですが、本作のガエルくんは設定上、生真面目で大人しい優等生的ドクターなので仕方ないか。

 娘の癌告知にオロオロするケイトの母親役が、キャシー・ベイツ。久々にフツーのオバちゃんの役ですねえ。
 介護だ何だと世話を焼きたがって娘から煙たがられるという図は、『50/50 フィフティ・フィフティ』と同じですね。妙に構われて窒息しそうだという患者の気持ちも判りますが。

 そして特別出演がウーピー・ゴールドバーグ。これが実に福々しい。
 なんせ神様の役ですから、尚のこと。
 ケイトの夢の中に現れて、ニコニコと「神様よ」と自己紹介します。この天国のイメージが実にオーソドックスと云うか、ベタな表現。ドライアイス的スモークの中に白いソファを置いて、白いドレス姿のウーピーが微笑みながら座っている。
 しかしこの神様、ニコニコ微笑みながらひどい告知をしてくれます。

 「あのね。貴方、癌でもうじき死ぬから。準備してね」

 ウーピー直々にこんなこと云われちゃ、もう諦める他ないのか。
 目が覚めると病院にいて、ガエル医師の検査が終わったところ。夢かと思いきや、ガエル医師はウーピー神と同じ事を告知する。正夢だったのだ。
 そこから治療と平行して、ガエル医師と次第に親しくなっていくという展開。

 物語は、予期しなかった人生の終わりに直面した主人公が苦悩と葛藤の果てに、悟りの境地に辿り着くというか、諦観と共に運命を受け入れるようになるまでを描こうという趣向。
 いわゆる「苦悩の五段階」というヤツが、脚本上に現れているように思われました。
 即ち「否定」、「怒り」、「交渉」、「絶望」、「肯定」という五段階。これは『オール・ザット・ジャズ』(1979年)を観て初めて知ったのですが。

 主人公の心境の変化が、この五段階を順調に(?)経過していくように描かれています。
 最初は否定し──「私がガンだなんて何かの間違いよ!」
 次に怒り──「なんで私がガンなのよ! 世の中不公平だわ!」

 第三段階がちょっと省略されていたような。小説の方はどうなんですかね。ニコール・カッセル監督自身の名前が作者になっている小説『神様がくれた最後の恋』は翻訳されて書店に並んでおりましたが(メディアワークスのMF文庫)、手に取ってまで確認しておりません。
 原作小説と云うよりも、ノベライズ小説なのか。

 そして絶望。気遣ってくれる友人達にも、両親にも、酷い態度をとる。酔っ払ってバカなことをして、サイテーな振る舞いに及ぶ。嫌われて当然です。
 紆余曲折の末、全てを受け入れて穏やかな境地に達する。友人達とも和解できますが、もはや本人が諦観してしまうと、逆に周囲がオロオロし始めるのがオモシロ哀しい。
 奇を衒った展開でない分、丁寧に演出しているなあという感じがしました。
 ニコール・カッセル監督は将来有望な女性監督でありますね。

 たまにファンタジックな展開が挿入されるのも特徴的か。
 実はケイトは、ウーピー神から「若死にする分、三つの願いを叶えてあげる」と云われていたのです(笑)。
 冗談だと思って「百万ドル」と「空を飛ぶこと」を挙げてみると……。
 職場で掛けた団体保険の適用が認められて保険金が下りちゃったり、ラジオ番組の懸賞で「一日ハングライダー体験飛行」に当選したりする。
 悲劇的な展開より、ユーモラスな展開の方が印象的な作品です。

 小人症の俳優ピーター・ディンクレイジが意外な場面で登場してくれたのも面白い。原題の「小さな幸せ(“A little bit of Heaven”)」と云うのは、彼の異名のことだというのがちょっと笑えました。

 そして神様に願う三番目の願いは、もちろん「運命の人」。乙女チックですね。
 「心を開いて素直になるのが怖かった。本気になって傷つくのが死ぬより怖かった」と告白しますが、もはや怖いものは何もない。
 最後には寝たきりとなったケイトの元に、恋人であるガエル医師や、和解した友人、両親が入れ替わり訪れ、枕元で本を朗読してくれる(もはや自分で読むことが出来ない)と云う図に、感じ入りました。残り少ない僅かな時間を穏やかに過ごせるというのは幸せなことです。

 そして臨終と葬儀。
 遺言により、葬儀は明るく楽しく執り行われる。これは『永遠の僕たち』でも描かれていましたが、本作の方がずっと派手でパーティ感覚です。
 なんせ舞台がニューオーリンズですから。
 葬儀もルイ・アームストロング式のジャズ・フューネラルですよ。
 ラストシーンに限らず、全編にわたって随所に演奏されるジャズもなかなかいい感じです。サントラCDは聴きモノかも。

 公園の一角でにぎやかにジャズバンドが演奏しながらの葬儀を、神様とケイトがふたりして離れたところから眺めているというのもユーモラスで洒落ていました。
 哀しくて、お涙頂戴だけの「難病もの」ではなかったという点は、評価したいです 。




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2012年1月9日月曜日

フライトナイト/恐怖の夜

(Fright Night)

 トム・ホランド監督・脚本による傑作ホラー『フライトナイト』(1985年)のリメイクですね。リメイクするにはまだ早いような気もしますが、八〇年代の映画だし、四半世紀過ぎていればやむを得ないのか。
 個人的にトム・ホランド監督と云えば、『フライトナイト』の他には、『チャイルドプレイ』(1988年)と『痩せゆく男』(1996年)の三作品のみで記憶しております。最近はどうしておられるのか。
 そのうち『チャイルドプレイ』もリメイクされたりするのでありましょうか。

 本作では、『ラースと、その彼女』(2007年)のクレイグ・ギレスピーが監督となり(いきなり作風を変えましたか)、脚本は『バフィー 恋する十字架』のマーティ・ノクソン(バンパイアつながりか)。トム・ホランドは原作(オリジナル脚本)のみでクレジットされています。もはやあまり関係なくなってしまったのか。
 「新年最初の肝試し!」と銘打たれ、3D版でも公開されていますが、2D版で観賞しました(正月早々にホラー映画を観るというのも季節感ないけど、まぁいいか)。3Dなら迫力あったのかなぁ──と思われる箇所が部分的にありましたが、そう多くはなかったな。2Dで充分だと思います。

 それなりに面白くはありましたが、残念ながらやはりオリジナルには及ばない出来映えでありました。CGとか駆使して頑張っているんですけどねえ。かつてのリチャード・エドランドの特殊メイクや視覚効果の方が味があったような気がします。贔屓目でしょうか。
 まぁ、オリジナルの脚本を元にしている分、あの『フライトナイト2/バンパイアの逆襲』(1988年)よりはマシか。

 アメリカ中流層の一般的住宅街に、吸血鬼が引っ越してくる──と云う設定が昔は新鮮だったのですが、今ではそうでもないのか。新鮮さが失われたのは、云うまでもなく、あの〈トワイライト・サーガ〉の所為だ(笑)。
 本作でもちゃんと言及されています。

 「あいつは吸血鬼なんだ!」
 「お前、『トワイライト』の観すぎだ」

 ごく普通の冴えない高校生チャーリーの家の隣に引っ越してきた隣人が、実は吸血鬼であるのに、誰も信じてくれない。吸血鬼に狙われた恋人を守ろうとするチャーリーの助けになるのは、落ちぶれたホラー映画俳優の爺さんのみ。
 昔取った杵柄なホラー映画で得た知識だけを頼りに、若造と老人がおっかなびっくりで吸血鬼に立ち向かう、という構図がなかなか楽しかったのですが。
 特に気弱な吸血鬼ハンターであるピーター・ビンセント役がロディ・マクドウォール。これが素晴らしかった。
 ロディ・マクドウォールが御存命なら、再度出演して戴きたかったが(無理か)、一九九八年に既にお亡くなりになっておられる。残念。

 本作ではロディ・マクドウォールに代わって、ピーター役はデイヴィッド・テナント。イマイチ馴染みがありません。『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』(2005年)に悪役でチラッと登場してましたか。
 ピーターが「落ちぶれた老俳優」ではないという設定に一番、違和感を感じました。本作のピーター・ビンセントは、ラスベガスで超絶的な人気を博するホラー・ショーのホストになっている。若くて、イケメンで(ちょっとアル中気味)、豪華なペントハウスに暮らし、湯水のように金を浪費し、趣味で集めた世界各地のオカルト・グッズを自宅内にコレクションして展示している(このコレクションが最後の対決で役に立つという伏線)。
 うーむ。かつての設定とは真逆を突こうという趣旨は理解できますが……。

 主役の高校生チャーリー役がアントン・イェルチン。こちらはリメイク版の『スタートレック』(2009年)や『ターミネーター4』(同年)でお馴染みです。『ニューヨーク、アイ・ラブ・ユー』(同年)にも出演していました。
 チャーリーの級友エド役にクリストファー・ミンツ=プラッセ。『キック・アス』(2010年)の〈レッド・ミスト〉ですね。今回もまたオタクっぷりを炸裂させてくれています。
 チャーリーの恋人役がイモージェン・プーツ。『28週後…』(2007年)の、あのお姉ちゃんか。
 若手の俳優さんを結構、実力派で揃えているのはいいですね。

 しかし肝心の吸血鬼役が、コリン・ファレル。かつてのオリジナル版でクリス・サランドンが演じた吸血鬼の方が男前だったような気がします。
 クリス・サランドンの場合は、チョイ悪な感じのプレイボーイというイメージでしたが、コリン・ファレルが演じるとなんかチガウような。そもそも〈トワイライト・サーガ〉みたいな色白なメイクをするのがイカンのではないか。
 ここは敢えて〈トワイライト・サーガ〉とは異なる吸血鬼像にすべきでしょう。それともイマドキはああしないと吸血鬼とは認めてもらえないのか。

 オリジナル版よりスピーディに、テンポよく展開させようとした演出意図は良いのですが──確かに八〇年代は展開もノンビリしていましたからね──残念ながら、それが裏目に出ているような気がします。
 オリジナル版は主人公が真っ先に隣人の正体に気付き、誰も信じてくれない状況から級友のエド達に助けを求めていくという、非常にオーソドックスな展開でした。本作ではそれが逆になっている。
 まずエド達の方が先に気が付き、隣人の内偵を進めていたという設定。
 だから最初のうちはチャーリーの方が吸血鬼を信じず、続発する怪事件の背後に隣人がいると疑い始めたときには、もう証拠も何もかもすっかり揃っている。エド達があらかじめ収集した証拠があるので、即座にアクション展開へと雪崩れ込んでいくことが出来るワケです。
 でも、やはり主人公には自分でいろいろと調べて戴きたかった。なんか影が薄くなったような気がします。
 逆に級友エドの方が存在感を増している。これではイカンでしょー。

 おかげでクリストファー・ミンツ=プラッセは大活躍ですよ。オリジナル版と同じく途中から吸血鬼の下僕にされちゃって、敵側に回ってしまうので、尚のこと印象深い。
 しかし本作では、クリーチャーへの変身という場面はありませんでしたねえ。CGなら狼やコウモリへの変身はずっと容易いと思うのですが。監督のポリシーなのでしょうか。

 その分、吸血鬼の暴れっぷりがパワフルになっているのはいいんですけどね。オリジナル版では、あくまでも吸血鬼と高校生の人知れぬ暗闘が展開していくのに(予算がなかった所為か)、本作ではもうあからさまデス。正体が露見するや(いや、しないうちから)、住宅は破壊するわ、車は破壊するわ、目撃者が出たらソッコーで血祭りに上げるわ、派手なアクションが続くのはいいのですが、無茶しすぎでしょう。
 そして夜間、暴れるだけ暴れて、朝になったら元の隣家に戻って、地下室に潜伏する。そんなバレバレなところに居続けていいのか。あまりにも大胆すぎる。絶大な自信があるのか、頭が悪いのか……。

 ちなみにアッと云う間にやられてしまう目撃者のオジさん役が、クリス・サランドンでした。
 えー。そんなカメオ出演だけとは。
 いっそ、クリス・サランドンをピーター役にした方が面白かったと思うのですがねえ。

 とは云え、クライマックスの対決場面は、割と気合いの入ったアクション演出でした。絶体絶命の大ピンチから一発大逆転というのは非常によろしいデスね。吸血鬼の断末魔が気合い入りすぎのCGでしたが、多分3Dの見せ場だったのでしょうか。
 御都合主義的に、襲われて吸血鬼化した人々も正気に返ってめでたしめでたし。

 しかしどうにも『フライトナイト』のリメイク版と云うよりも、〈トワイライト・サーガ〉の二番煎じ的な部分の方が強く感じられて、ちょっと興醒めでしたねえ。
 できればエンドクレジットでは、オリジナル版の主題歌をアレンジするなりして聴かせて戴きたかったデス。


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2012年1月7日土曜日

マジック・ツリーハウス

(Magic Tree House)

 小学生に絶大な人気を誇る児童文学のアニメ化だそうですが、存じませんでした。しかしうちのムスメに聞くと、小学校の図書室にはズラズラと並んでおるそうな。もう三〇巻以上出ているのか(翻訳では一冊につき二話収録しているみたいですが)。
 原作者のメアリー・ポープ・オズボーンがこのシリーズを開始したのが一九九二年と云うから、一年一冊以上のハイペースで二〇年も執筆が続いていることに。
 散々、CMで宣伝するものだから、ムスメらのリクエストに抗えず、観に行きました。
 監督は錦織博、脚本は大河内一楼ですから、それなりの出来ではありますか。

 ある日、幼い二人の兄妹ジャックとアニーが森の中で見つけた樹上に作られた不思議な小屋は、本の世界を旅する魔法のツリーハウスだった──とな。
 小屋の中はちょっとした図書館のようになっており、様々な時代の本が収められている。ひとつの時代の本を取り出し、「ここへ行ってみたい」と唱えると、アラ不思議。
 ジャックとアニーの時空を越える冒険の旅が始まる……。

 昔の海外ドラマで云うと『タイムトンネル』みたいな物語だなあ、などと云うと歳がバレますか。『タイムボカン』みたいと云えばいいのか(それもちょっと)。
 原作では一冊につき、ひとつの時代へ旅するエピソードが描かれておりますが、映画化に当たっては四冊分を一気に消化しております。
 『恐竜の谷の大冒険』、『黒い馬の騎士』、『ポンペイ最後の日』、『海賊の秘宝をさがせ』と初期のエピソードが四本。
 更に、各時代からメダルを一枚ずつ探して集めるというオリジナルの設定が追加されています。メダル集めはオリジナル設定ですが、原作も四話ずつ謎解きや何かのシリーズとしてまとめられているそうなので、それほど著しい改変ではないのか。

 そもそも何故にそんなメダル集めをしなければならんのかと云うと、ツリーハウスの持ち主である魔法使いのモーガンさんがネズミの姿に変えられてしまっており、彼女を元の姿に戻す為には四枚のメダルが必要であるからなのですが……。
 映画ではプロローグとして、いずこかにある魔法の国──実は〈キャメロット〉だった──の図書館で司書をしているモーガンさんが、ネズミに変えられてしまう下りがあります。
 やっぱりアーサー王伝説のモルガンでしたか。えらい美人として描かれておりますが、なんでもかんでも魔法で物事を解決してしまう。
 それが最高位の魔法使いマーリンの気に障ったらしく「モーガン、お前はやりすぎぢゃ。ちょっとは反省せいッ」と魔法を取り上げられて、ネズミにさせられたという次第。
 魔法の国の住民が魔法を使うことのナニがそんなにイカンのか、マーリンの判断基準が不明確だったり、モーガンさんをネズミにすることが本当に反省を促すことに繋がるのか甚だ疑問だったりするのですが、そんなところはスルーしてあげねばならんようです。

 各時代への冒険行の幕間に進行していく小学校での学芸会の準備というドラマもあります。演し物は『ロミオとジュリエット』。これはオリジナルのエピソードなんでしょうか。
 ジャックはロミオ役を引き受けたものの、演じきれる自信がない。
 ツリーハウスでの冒険がひとつ終わる度に、少しずつ進行していく学校でのドラマの方がちょっと面白かったです。多分、冒険を重ねていくにしたがって、ジャックも成長し、ロミオ役を見事に演じることになるのであろう──てのは、容易く推測できるワケですが。

 白亜紀、中世イギリス、ローマ帝国、カリブの海賊と、バラエティに富んだ舞台設定が子供達には楽しいようです。
 うーむ。なんでひとつだけ白亜紀なんぞと云う飛び抜けて過去の時代があるのだ、などと突っ込んではイカンのですね。子供は恐竜が大好きだし。多分、私も小学生だったらきっとワクワクして観たのかな。
 それがもはや純真な心はどこかに失くしてしまったらしい。
 あちこちの時代に行く割に、言葉はちゃんと通じるのか。少なくともローマ帝国はラテン語だろう──なんて、いちいち突っ込む自分が恨めしい。「本の世界」を旅しているんだから、別にいいだろう。そこはスルーしろよ、俺。
 なんか観ていてツッコミたくてツッコミたくて仕方がない。精神衛生上、よろしくない。
 でも原作は「子供達に地理や歴史の知識が身につく展開」であると、教育関係者から支持を得ているそうな。そういうものですか。

 御都合主義な展開も大目に見てあげねばならんと、判ってはいるのですが……。
 各時代でメダルが割と簡単に見つかるのは、いいですよ。最初から「見つけさせる為にバラまいている」と考えれば。
 アニーが動物が大好きなのもいい。容易く動物と仲良くなり、ほとんど超能力と云っていいくらい動物と心を通わせ、意思疎通を図れる。プテラノドンだって手なずけちゃうくらいだ。
 しかし「海賊の世界」でアニーがイルカを助けたら、イルカがジャックに恩返ししてくれるという展開は如何なものか。「イルカがアニーを助ける」なら判るが、その場にいなかったジャックが、アニーのお兄さんであると何故、イルカに判るのだ。
 この展開だけはどうにも釈然としません。

 各エピソードも、背景としてバラエティに富んではいますが、物語としてはどうなんでしょね。基本的にメダルを回収しに行くだけなので、その時代、その場所でなければならない理由がイマイチ、ピンと来ませんでした。軽い謎解きも入りますが、ミステリと云うほどではないし。

 あとは声優の配役ですかね。
 劇場用アニメは、主役に芸能人を起用するという悪しき風習から脱却できないものなのか。
 本作ではメインの三人、ジャック、アニー、モーガンをそれぞれ北川景子、芦田愛菜、真矢みきが演じております。
 北川景子については、それほど悪い配役ではないと……思うが、NHKの教育番組ぽい感じがしました。それは作品の脚本がそうだからか。
 芦田真名ちゃんの起用はビミョーです。リアルに子供の声なのも善し悪しでしょうか。「妹キャラの声」としては、これ以上にリアルなものは無いのでしょうが……。
 歳の割には上手だとは思いますが、長い台詞だとやはり聞いていてツラいものが。
 真矢みきは、さすが宝塚のトップスターだっただけのことはあります。まぁ、モーガンさんは劇中ではほとんどネズミで喋りませんけどね。
 他に山寺宏一と水樹奈々という本職がパパとママで脇を固めていますが、更に出番が無いので印象薄いデス。

 数々の冒険を魔法の助け無しで乗り切った兄妹の姿に、魔法に頼り切っていたモーガンさんは心打たれ、元の姿に戻る……のはいいのですが、〈キャメロット〉に帰還した途端、マーリンににっこり笑ってリベンジですか。反省はしたが、それはそれか(笑)。
 かくして冒険を終えた兄妹の元に、今度はマーリンによく似たネズミが助けを求めてやってくる。
 マジック・ツリーハウスの冒険はまだまだ続く──というところで、続編製作も可能になってはいますが、やるのかな。原作はまだまだ沢山ありますし、観てみたい気もしますが、もうちょいとアカデミックな要素とアドベンチャーな展開を融合させてくれないものかと……。
 でもムスメらは大満足していたみたいだから、これはこれで作品としての目的は達成されているのか。
 文句付けているのはヒネた大人だけね。


映画「マジック・ツリーハウス」オリジナルサウンドトラック

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2012年1月6日金曜日

永遠の僕たち

(Restless)

 ガス・ヴァン・サント監督の作品では、前作ショーン・ペンが主演した『MILK』(2008年)が良かったので、今回もちょっと観てみようかと。
 加瀬亮が出演しているというのも興味ありましたし。

 しかし恋愛モノで、主役の恋人達は片方が「癌に冒され余命わずか」という設定は、如何なものか。あまりにも「よくあるパターン」すぎるのではないか。
 ガス・ヴァン・サント監督ともあろうお方が、なんでまたそんなネタを。
 前作とは異なるタイプのドラマをやってみたかったと云うのは判りますけどねえ。
 製作にロン・ハワードが名を連ねております。
 脚本はこれがデビュー作となるジェイソン・リュウ。この人の脚本を読んだ大学時代の友人であるロンの娘ブライス・ダラス・ハワードが、自分の父親まで製作に引っ張り込んだという図式のようです。

 主役の恋人達のうち、初主演となるヘンリー・ホッパーは「自動車事故で両親を失い、自らも臨死体験した青年」の役。彼はあのデニス・ホッパーの息子でしたか。存じませんでした。オヤジよりイケメンなのでは。
 そして『アリス・イン・ワンダーランド』(2010年)や『キッズ・オールライト』(同年)のミア・ワシコウスカが「末期癌の少女」の役。設定については難癖付けましたが、ミアの中性的な──余計な色気が無いと云うか──透明感のある演技は印象的でした。
 物語はこの二人の淡い恋を切なく描く……筈なのに、何故か全く場違いなキャラがいます。
 それが「神風特攻隊のパイロットの幽霊」という奇妙な役の加瀬亮。彼はヘンリーにしか見えないという設定。幽霊であるので、当然のことながら既に死んでいる。
 つまりこれは、一度死んだ人と、もうすぐ死ぬ人と、もう死んだ人の物語なのです。
 なんというタナトス臭。

 青年は臨死体験して以来、「死を身近に感じる」と云う理由から、葬式に出席するのが趣味になっている。常に喪服を着て葬儀場に出入りしては、見知らぬ誰かの葬儀に顔を出す。年寄りの葬式ともなれば、列席者も多くなって、誰かの親族だろう程度に思われて怪しまれないと云うのは判りますが、あまり誉められた趣味ではありませんね。
 でも頻繁にあちこちの葬儀に列席するので、葬儀屋のスタッフから目を付けられている始末。
 少女の方は末期癌。治療の効果もなく、もはや残された時間はあと僅か。彼女もまた「自分の死後」を想像して、葬儀場に通い、ヘンリーと知り合う。

 最初から二人の出会いは「死」に彩られていると云うか、「死を前提としたおつき合い」なのです。だから期間限定。なんかスゴく後ろ向きなカップルのような気がするが、いいのだろうか。
 物語の季節も、秋が深まる頃から始まって、ハロウィンを経て、冬が到来するあたりまで。背景が寒々とした景色であるのも、ミアにじわじわ迫ってくる死を連想させます。
 ダニー・エルフマンの音楽も、今回は静かに押さえたピアノの旋律。

 そして加瀬亮。日本人の幽霊を日本人が演じるので、不自然さはありません(でも英語を喋りますが)。お辞儀の作法についてヘンリーに教えたりしますが、やはり仕草の一つ一つが自然です。
 ついでに切腹の作法も教えたりします(外人には興味深いのか)。
 加えて、衣装デザイン等のリサーチが徹底していて、本当に特攻隊員の霊のようです。飛行服の縫い目もリアルだし、所持している遺書もちゃんと日本語で墨で書かれている。
 加瀬亮が特攻隊員の遺書を、英訳して聞かせる場面はなかなか印象深い。
 しかしそもそも何故に特攻隊員の霊なのか。

 ヘンリーは交通事故で両親を亡くし、自分も死ぬ筈だったところを、奇跡的に蘇生しているワケで、死に取り憑かれている。実は自分も死にたいと思っているらしいことは判ります。両親に置いて行かれた気になっている。
 自殺願望がある一方で、死にたくないという気持ちもある。そんな葛藤が特攻隊員の霊を呼んだのだと推察されます。
 劇中では明確な説明はありませんが、ヘンリーが加瀬亮に尋ねる台詞で明らかでしょう。

 「カミカゼは死を怖れないんだろ」
 「怖れるな、と教えられるけどね」

 どうやら加瀬亮は本当に日本人の幽霊であるらしい。最初のうちは、ヘンリーの空想上の友達的存在だろうかとも思っていました。なんせ「二人でレーダー作戦ゲームをしたら絶対に勝てない」ので、こりゃもう超自然的な存在と云うより、ヘンリーの生み出した幻想なんだろうと考えていました。でも妙に日本に詳しいし、ヘンリーの知らないことを知っていたりする。
 そのうちヘンリーの行かない場所にも単独で現れるようになって、本物の幽霊だと判るワケですが、恋愛映画にしては奇妙な物語です。

 他人の葬式で出会ったヘンリーとミアの仲は次第に深まっていくワケですが、まともなデートの場面がありません。
 墓地でデートしたり、病院の死体置き場でデートしたり、ロクな場所に行かない。路上に寝転んで白線で輪郭を描くのも如何なものか。ハロウィンの仮装もゾンビっぽいし。
 でも墓地でヘンリーの両親の墓石に向かって、互いに紹介し合ったりする場面はなかなか面白いです。
 病院の死体置き場と云うのは度が過ぎるが、看護士達に叱られても「もうすぐ私もここに来るから」と云われると、誰も二の句が継げない。ちょっとズルいが、それくらいは許されるか。
 ミアは自分で自分の告別式の演出を考えたり、臨終の予行演習をしたりしている。見かけは楽しそうですが、何ともやるせない。

 そんなミアに次第について行けなくなるヘンリー。仲が深まり、愛し合うようになってくれば当然の反応とも云えます。むしろ遅きに失した感がある。
 今更、何とかしようとしても、もはや手遅れだし、最初からどうにもならないことは判っていたろうに。悪足掻きは見苦しい。
 このあたりのヘンリーの態度が、良く云えば純粋ですが、悪く云えば幼稚に思えます。医者に向かって悪態付こうが、懇願しようが、奇跡は起こらないし、都合のいい新薬も開発されないのです。
 医者が「余命三ヶ月」と云ったら、本当に三ヶ月か。

 まぁ最初から達観したようなキャラではハナシにならないので、ヘンリーは散々、逆ギレし、悪態つき、泣いて喚いて、果ては両親の墓石までハンマーでブチ割り、暴走するのですが、最後には現実を受け止める。受け止めざるを得ない。
 非常に難儀な過程を経て、ヘンリーは少し大人になる。

 加瀬亮が臨終のお迎えとなってミアを連れて行った後、告別式が行われる。友人達が故人の思い出を語っている。そしてヘンリーにスピーチの順番が回ってくる。
 思えばタナトス的イメージに溢れていた登場人物の仲で唯一人、死の淵から引き返してきたヘンリーは、愛を知り、亡き人達の分まで再び生きていくことを誓うように、ミアとの思い出を語り始める。
 二人が共に過ごした時間は僅かではあったが、それは「永遠」にも等しいものだった……。
 非常に明るく穏やかな、後味の良いラストでした。悪くないテイストです。

 最後に「デニス・ホッパーの思い出に捧ぐ」と云う献辞が表示されます。
 かつてガス・ヴァン・サント監督は『マイ・プライベート・アイダホ』にボブ役で出演をオファーしたが断られたそうな。惜しい。もし出演していたら、リヴァー・フェニックスとキアヌ・リーブスとデニス・ホッパーを一度に拝めたのに(ウィリアム・リチャートには悪いけど)。
 生前、デニス・ホッパーは既に完成した本作のDVDを観ていたと云いますから(死去したのが二〇一〇年五月だから、本作はそれより前に完成していたのか)、息子が俳優となり主演を張った作品の感想を詳しく聞いてみたかったですねえ。
 息子ヘンリー・ホッパーの今後の活躍が楽しみです。

 親父のデニスは歳食って味わい深くなってきたら、ヘンテコな役でも構わず演じてくれましたが、イケメンのヘンリーくんはどうでしょうね。


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2012年1月4日水曜日

ブリューゲルの動く絵

(The Mill and The Cross)

 一六世紀のネーデルランドが生んだ偉大な画家、ピーテル・ブリューゲルの代表作〈十字架を担うキリスト〉は如何にして誕生したのかを描くポーランドとスウェーデンの合作映画です。
 作曲家や劇作家ばかりではなく、画家もまた映画の題材になることが多いですねえ。

 近年の「画家と名画にまつわる映画」と云うと──
 『真珠の耳飾りの少女』(2003年)とか、『モディリアーニ/真実の愛』(2004年)、『宮廷画家ゴヤは見た』(2006年)、『レンブラントの夜警』(2007年)、『カラヴァッジョ 天才画家の光と影』(2007年)……。
 色々ありますが、どれ一つとして観ておりません。何としたことか。
 アート系なミニシアター向けの映画だと、なかなか観に行く機会も少なくて……。
 過去の記憶を掘り起こしても『赤い風車』(1952年)とか、『炎の人ゴッホ』(1956年)とか、話には聞くが観ておりません。
 ああ、『北斎漫画』(1981年)くらいはTV放映時に観たっけ。でも葛飾北斎の絵より、美女とタコの触手が観たかったという下心で……(汗)。

 しかしこの『ブリューゲルの動く絵』はちゃんと劇場で観たぞ。
 別にフェルメールや、モディリアーニや、ゴヤよりも、ブリューゲルの方が好き……などと云うことは全く無く、主演であるブリューゲル役がルトガー・ハウアーであるという、只それだけの理由なんですけどね。
 つい先日も『ホーボー・ウィズ・ショットガン』も観ましたし。ルトガー・ハウアー主演ならば観に行きましょう。
 でもこの映画は、非常に変わった映画ではありますので(奇妙と云ってもいいか)、万人向けとは云い難いです。独特な映像美を堪能したい方にはお奨めですが。

 監督はレフ・マイェフスキ。ポーランドの映画監督にして舞台演出家であり、詩人でもあるという多彩なアーティスト。本作の製作・監督・脚本・撮影・編集・作曲と一人でこなしています。もうこの映画には、監督個人の作家性が炸裂しまくり。
 マイェフスキ監督はNYのストリート・アーティスト、ジャン=ミシェル・バスキアの伝記映画『バスキア』(1996年)の製作と脚本も手掛けていたり(これも観てないなあ)、アートムービーひと筋な方ですね。

 共同脚本としてマイケル・フランシス・ギブソンという美術評論家の方の名が上がっております。元々はこの人の書いたブリューゲルの〈十字架を担うキリスト〉についての論文に着想を得ておるそうな。
 美術評論家の論文を原作にしていると聞いて納得しました。
 本作には物語らしいところがほとんどありません。まるで教育番組のような美術解説が入るのも、元が論文だからか。
 その意味では、中世美術を専攻している学生にはお奨めか(途中で寝てしまわなければ)。

 ルトガー・ハウアー以外に出演している方というと、マイケル・ヨークとか、シャーロット・ランプリングとか、ベテラン俳優を配しているのですが、全体的な印象は地味です。そもそもあまり重要な役とも云い難いか。
 マイケル・ヨークは、ブリューゲルの友人であるニクラース・ヨンゲリングの役。あまり出番はありませんが、本作はブリューゲルがヨンゲリングに、これから描く新作の構図や、その意図を説明していくという形で進行していくドラマなので、いてもらわねば困ります。
 そもそも〈十字架を担うキリスト〉はヨンゲリングのリクエストにより描かれたそうですから。
 シャーロット・ランプリングの方は、ブリューゲルの妻の役。絵画の中にも登場する「聖母マリア」のモデルにもされています。あまり台詞はありませんが、そこに佇むだけで存在感を示せる女優ですね。

 本作の特徴は、何と云ってもその背景美術でありましょう。元の絵からして、かなりの奇観ですが、よくこんな似た風景を探してきたものだと思います。しかも実在の風景だけではなく、ビミョーにCGと置き替わっていて、遠景はもうブリューゲルの描いた絵になっている。この背景の融合の妙が最大の魅力でしょうか。
 多分、かなりの場面で役者さんたちはブルースクリーンの前で演技されていると思います。
 加えて懲りまくった衣装美術。ブリューゲルの描いた人物通りの衣装の再現度は非常に高いです。〈十字架を担うキリスト〉の絵は、百人以上の人物が描き込まれた大作ですから、これを全部を用意して配置するのは大変でしょう。

 役者さんたちはほぼ全員がエキストラというか、絵の中の人物ですので、台詞なしです。その代わり「絵に描かれた通りのポーズ」をとって静止する必要があるので、そっちの方が大変ですかね。
 皆さん、見事なまでに静止しておられる。まぁ、馬とか子供たちは……やむを得ないとはいえ、逆にほとんどの人物が静止する中で、ビミョーに動物とかが動いている図がなかなか不思議な雰囲気を醸し出しておりました。
 まさに『ブリューゲルの動く絵』という邦題のとおり。
 また、静かな映画ですが、音楽がないわけではなく、これもまた当時の楽器を再現しながら、絵の中の人たちが演奏したりするのも興味深い。

 ルトガー・ハウアーによる説明で、構図の意図やら、各部分の人物配置の意味が語られます。絵の中に様々な人物を配して、ドラマが語られていくという寸法。
 一枚の絵画の中に当時の世相すべてを描き込みたいというのが、ブリューゲルの野望だそうですから、盛り込まれているドラマも様々。
 蜘蛛の巣に朝露が光るところから着想を得たと説明されるように、放射状に様々な人々が配置されていますが、まずは中央で小さく十字架を担っているイエス・キリスト。これが一番大事なのに、かなり小さく描かれています。
 「しばしば大事なものほど見過ごされる」ことの現れだそうで。
 峻厳な岩山の頂上にある風車は天界を表し、下界を見下ろす粉挽きの主人は神だとか。
 他にも「嘆きの聖母マリア」、「捕らえられたシモン」、「パンを売る行商人」、「仔牛売りの若夫婦」、「首を吊るユダ」等のエピソードが紹介されていきます。

 全体としてキリストの受難劇が、一六世紀のフランドル地方の背景の中に再現されているので、キリストを連行していく兵士も、ローマ軍の兵士ではなく、赤い衣の中世の騎士(これは異端審問への皮肉か)。
 絵の中には、ブリューゲルとヨンゲリング自身も描き込まれ、一連の出来事を傍観しているというメタ的な表現もあります。
 構図の左側には都市が描かれ(生命の輪)、右側にはゴルゴダを模した処刑場(死の輪)が描かれるなど、非常に象徴的な絵画であるのが印象的です。

 そして各パート毎に、人々が動き出し、ほぼ無言のままブリューゲルの語りに沿ってドラマを再現していく。当時のフランドル地方の人々の暮らしぶりが一時的に動き出すという趣向。
 見事と云えば見事ですし、一枚の絵の中にこれほどの情報を詰め込んだブリューゲルの才能は素晴らしいと云わざるを得ません。
 そしてそれを映像化した監督の手腕も、高く評価されて然るべきだとも思うのですが……。

 九六分という上映時間がかなり長く感じられます。面白味に欠けるというか、淡々と進行していく絵の解説と、ほぼ無言のまま演じられる再現ドラマは、ぶっちゃけ退屈でもあります。時代考証は精緻を極めているのだろうと、察せられるのですがねえ。
 およそエンタテインメントとはほど遠い。
 アカデミックではありますが。元が論文だし。

 ラストは完成した絵画から、カメラが抜け出してくる。ブリューゲルの絵を展示しているウィーン美術史美術館の館内の様子がちらりと伺えます。
 一枚の絵画をたっぷり九六分かけて鑑賞するという、希有な体験をいたしました。


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宇宙人ポール

(PAUL)

 SF者ならこの映画を見過ごしには出来ぬでしょう。昨年のうちから一部で話題になりながら、公開がこんなに遅れるとは、まったくけしからぬことです。しかも公開規模も小さいッ。
 この映画はもっと大勢の人に観ていただきたいのですがねえ。

 SFヲタクのコンビが、旅の途中で出会った本物の宇宙人と繰り広げる珍道中。
 劇中での宇宙人は完全CGキャラというのも見事です。外見が、まんまグレイと云うのもベタですが笑える。
 声を演じるのはセス・ローゲン。宇宙人の動きや仕草もモーション・キャプチャーでセスの動きを取り込んでいるとか。
 『グリーン・ホーネット』がイマイチだったので、個人的なセスの評価は下方修正されておりましたが、本作と『50/50 フィフティ・フィフティ』の二作で、再び上昇いたしました。
 加えて『ホット・ファズ/俺たちスーパーポリスメン!』のサイモン・ペッグとニック・フロストの凸凹コンビ。もう楽しからぬ筈がない。脚本も自分で書いてますし。
 監督はグレッグ・モットーラ。でも私は『スーパーバッド/童貞ウォーズ』(2007年)も『アドベンチャーランドへようこそ』(2009年)も観ておりません(未公開のままビデオスルーだし)。観ておくべきか。
 字幕監修が町山智浩であるというのもいいですねぇ。判っていらっしゃる。
 この手のSFコメディとしては、『ギャラクシー・クエスト』(1999年)に匹敵する傑作と申せましょう。

 「コミコン」と云うと、日本で云うところのコミケのようなものと云われておりますが、特に同人誌販売に特化したイベントではなく、どちらかというとSF大会に近いような感じがしました。サイモン達もイギリスから来たSFライターとイラストレーターという役ですし(でも招待されたワケではなく、自腹です)。
 会場には『スターウォーズ』関係のコスプレ者がわんさか。スタイルに自信のあるお姉さんは皆、レイア姫のコスするのがお約束なのか(特にSW3の)。
 気合いの入った被りものとしては『指輪物語』のオーク鬼の御一行様とかもいて、なかなか楽しそうです。

 しかし男が二人で旅行すると、ゲイのカップルに間違えられると云うのはお約束か。これはアメリカだけの現象なんですかね。
 コミコン帰りに、SF者には定番の聖地巡礼ツアーを組むあたり、筋金入りです。ヴァスケスロックとか、エリア51とか、ブラック・メールボックスとか。
 『スタートレック』──と云うか『宇宙大作戦』──の古参マニアならば、ヴァスケスロックへ行ったら、アレはしなければならんでしょ。それはもうフィラデルフィアを訪れた『ロッキー』信者が、美術館前の階段を駆け上るのと同じくらい確かなことです。義務と云ってもいい。
 筋金入りなのは、他人に聞かれたくない会話はクリンゴン語で喋るというあたりにも、現れております。現実にそんなことする奴らっているのかしら(アメリカならいるのか)。
 一方、ブラック・メールボックスというのは、私も初耳でした。なんでもここに手紙を出すと、宇宙人から返事が来るという。それは鳥取県境港市にあるという「妖怪ポスト」みたいなものですか(ちょっと違うか)。
 まぁ、コアなSFファンとUFOマニアをゴッチャにしたような描写は、如何なものかと思うところ無きにしも非ずですが、SF者にも色々いると云うことで。

 そこへ偶然、エリア51から逃走してきた宇宙人と遭遇。ポールと名乗ったその宇宙人は、実にナイスで超フレンドリーな、いいヤツだった。
 成り行きから、ポールの母星から来ると云うお迎えとのランデブー地点まで、凸凹コンビが三バカトリオと化しての珍道中。だがエリア51からの追っ手が彼らに迫っていた。

 もうSF者には言わずもがなのパロディ──と云うかオマージュ──がてんこ盛り。
 『スタートレック』、『スターウォーズ』に始まり、『未知との遭遇』やら『E.T.』やら。『エイリアン』も『プレデター』も『Xファイル』も。SFと関係なくてもスピルバーグつながりで『ジョーズ』、『レイダース』等々(スピルバーグ自身も電話の声でカメオ出演しているし)。果ては『ブラインド・フューリー』とか『ロレンツォのオイル』まで。
 外見がベタな宇宙人なので、定番ギャグとして「捕らえた人間の身体にナニかを挿入する(主にケツの穴から)」と皆から云われて、ポールがゲンナリするという場面も笑えます。有名になりすぎた人ってのは辛いね。

 当初、ポールはもっとヒネた性格だったそうですが、セスが声を演じることになって、性格が随分と和らいだそうな。多分、それはいいことだったのでしょう。本作が魅力的なのは、ポール当人のフレンドリーさに負うところが多いと思います。人間よりも人間らしいというのがいい。
 ところで、やはり宇宙人と云えば、特殊な能力を駆使しなければイカンらしく、ポールも超能力を持っています。他者の怪我を癒す治癒能力と、透明になれる偽装能力。E.T.とプレデターか。治癒能力は『スターマン』でジェフ・ブリッジスも披露しておりましたな。
 まぁ、ポールの言い分では、自分こそオリジナルであり、人間の映画制作者らにアイデアを与えたのは自分だということなので、パクリじゃないそうな(笑)。
 その上、タイムトラベルまでやっちゃいますよ(凄くお手軽な)。

 本作はSFコメディでありますが、単なるパロディだけではなく、宗教と科学の対立というテーマも盛り込まれています。進化論もネタにされています。
 アメリカには、進化論を否定するキリスト教右派というか、バイブル原理主義がいまだに大勢いるんですねえ。
 ヒロインのクリステン・ウィグが大真面目に、神の存在を主張する役だったので笑ってしまいました。アメリカって難儀な国やねえ。
 しかしガチガチなキリスト教徒だったヒロインも、ひとたび偏見から解放されるや、抑圧されていたリビドーが全開になる。どうしてアメリカ人てのは、そう極端から極端へ振れてしまうのか。あまりにも自由になりすぎだろう(笑)。

 そしてヒロインに輪を掛けて難儀なのが、その父親(ジョン・キャロル・リンチ)。
 「神を冒涜している!」と勝手に誤解し、勝手に怒って、勝手に難癖付けた挙げ句、「奇跡の力だ!」と勝手に褒め称える(親子だねえ)。
 まぁ、神様も宇宙人もやることはあまり変わりが無さそうなのが皮肉です。

 追いかけてくる政府機関のエージェントが、ジェイソン・ベイトマン。一般市民の役が多かった人ですが、今回は『メン・イン・ブラック』並みにクールなエージェント役なのが新鮮です。でもやっぱり真面目な人だ。
 その上司で、追跡を指揮する黒幕がシガーニー・ウィーヴァーであるというのも笑えました。エイリアンつながりか。結構、シガーニーはこの手のパロディ・ネタにチョイ役で出演するのが好きな人なのでしょうか。
 『WALL・E/ウォーリー』でも、自爆カウントダウンをするコンピュータの声でしたし。

 ポールが「ポール」と名乗る原因となった最初のエピソードと、自分の所為で人生を滅茶苦茶にしてしまった老婦人(ブライス・ダナー)に償いをしたいと云うのは、結構しんみりしたイイ話でした。
 バカ話ばかりで笑うだけの映画ではないのです。

 最後の最後まで、どこかで観たようなSF映画のアングルやら、カットにこだわりまくった演出が素晴らしい。製作スタッフの執念を感じます。
 そしてエピローグ。コミコンに始まり、ネビュラ賞授賞式に終わるワケですが(劇中では「ネビュラン賞」と云っているのでビミョーに違うのか)、SF者としては、そこはヒューゴー賞と云って戴きたかった。

 そうか-。オッパイを三つにすれば、何でもSFになるのかぁ(四つはただの変態ね)。


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2012年1月1日日曜日

サラの鍵

(Sarah's Key)

 このところ柄にもなくミニシアター系文芸映画を沢山観ています。正月早々、『善き人』に続けて、ナチスだユダヤ人だと云う重たい映画を観てしまいました(汗)。

 タチアナ・ド・ロネの同名の小説の映画化で、翻訳も既に出版されています。
 監督・脚本はジル・パケ=ブレネール。第二三回東京国際映画祭で最優秀監督賞を受賞しておりますが、それも納得。原作者自身も絶賛したと云うのも判ります。
 本作は第二次大戦中、ヴィシー政権下のフランス当局がユダヤ人迫害に積極的に関与していたという知られざる歴史に基づく物語です。ナチスドイツの専売特許ではなかったというのが、ショッキング。
 「ヴェルディブ事件」と呼ばれるそうですが、フランス政府がこの事件を認めたのは、一九九五年になってから。シラク大統領が、「歴史の汚点であり、フランスの犯した戦争犯罪である」と公式な謝罪声明を発表するまで、当のフランス人でさえ知る者は少なかったというから驚きです。私もこの映画で初めて知りました。

 一九四二年七月一六日早朝、、ナチス占領下のパリに於いて、フランス警察は一万三千人以上のユダヤ人を一斉検挙し、パリ市内のヴェルディブ(“Vel'd Hiv” 屋内競輪場)に五日間、監禁したという事件。
 五日間、水も食料もなく、トイレもない環境は劣悪を極めたと云う。なんせ一万三千人ですから。さぞかしエゲツないことになったのでありましょう。
 現在、ヴェルディブの建っていた場所は、フランス内務省ビルとなっていて、通りに面して犠牲者追悼の為の記念碑が建っております。
 物語は、そのヴェルディブに家族と共に監禁された一人の少女サラ(メリジューヌ・マヤンス)の生涯を辿っていくという趣向。実は一斉検挙の朝、十歳のサラは幼い弟だけは救おうと、アパートの納戸に隠れさせ、鍵をかけたのだった。「あとで必ず出してあげる」と約束して……。
 当初はすぐに戻れると思っていたのに、家族はそのまま収容所送りとなる。両親とも引き離され、鍵を握りしめたまま、サラの時は非情に過ぎていく。何故、あのとき鍵をかけてしまったのか。幼い弟を救い出すことは出来るのか。

 物語は、サラの身の上と同時並行的に、六〇年余の時を隔てて二〇〇九年のパリに暮らす一人のアメリカ人記者の女性も描いていきます。
 アメリカから夫の生家であるアパートに引っ越してきたジュリア(クリスティン・スコット=トーマス)。このアパートこそ、問題のアパートであるというのは容易く判ります。引越の為にリフォームが進行中で、昔の部屋の間取りとは随分と変わってしまっている。
 しかしリフォームの過程で、「何か」が発見されたと云うことも──最初はここで白骨死体でも見つかるのかとドキドキしました──無さそうで、では一体、サラの幼い弟はどうなってしまったのかというのが気掛かりのまま、ドラマは過去のサラと現在のジュリアの両方を交互に追っていきます。
 たまたま雑誌記事の特集で「ヴェルディブ事件」に関わったことから、自分達のアパートにユダヤ人一家が暮らしていたことを知ったジュリアは、一家の消息を調査し始める。残念ながらサラの両親はアウシュビッツで死亡していた。しかしサラの方は?

 ヴェルディブの劣悪な環境から体調を崩していたサラが回復したのは、相当な月日が経過した後だった。それでも弟を助けたい一心で収容所からの脱走を図るサラ。
 一緒に逃げてくれた友達は、途中で命を落とし、潜伏した農家の老夫婦に匿ってもらいながら、やっとの思いでパリまで帰り着いたサラが見たアパートは、接収されて見知らぬ他人が暮らしていた。

 ジュリアはアパートの過去のことを夫に尋ねるが、夫は何も知らない様子。年老いた義父に尋ね、ようやく真相が明かされる。それは義父がまだ少年だった頃の事件。
 自分達の財産が、(知らなかったとは云え)ユダヤ人から奪ったものだったというので、義父はその父親から厳重に口止めされていたのだ。
 ある日、少年だった義父の元に一人の少女が突然、飛び込んできて……。

 弟の運命が判ってしまうのは、実はドラマの中盤あたり。思っていたより早い段階でした。
 まぁ、「ヴェルディブ事件」から何ヶ月も経過しておりますし、あとから来た一家は「開かない納戸」を無理にこじ開けることもしなかったのだから、どうなっているかは推して知るべしでしょう。
 「悪臭が消えないことは不審に思っていた」って、よく我慢できたものです。怖ろしい。

 弟の運命も明らかになり、調査も一段落し、物語はどうなるのかと思いましたが、ジュリアはそれだけでは満足できない。ジャーナリスト魂に火が付いちゃったのですね。
 サラはその後、どうなったのか。今でもどこかで生存しているのか(生きていれば七七歳)。
 自分達が暮らすアパートは、本当はその女性の財産ではないのか。消息を尋ねて返還すべきなのか。しかし今更、そんな話を蒸し返してどうする。
 「真相を知って誰かが幸せになるのか」と問われても、ジュリアには答えられない。多分、誰にとっても益の少ない結果になるのは予想できるのですが。
 このあたりまで来ると、ジャーナリズムの本質を問うような展開になってきます。
 何故、知りたいのか。
 知ってどうするのか。
 答えの出ないまま、ジュリアの調査は続いていきます。

 天涯孤独となったサラを引き取ったのは、匿ってくれた農家の老夫婦だった。そこで別姓を名乗り、その家族として暮らし始めたサラ。
 ジュリアの義父の父親は、ユダヤ人から財産を奪ったことの後ろめたさからか、かなりの期間、その老夫婦に宛てて金銭を仕送り続けていたと云う、夫ですら知らなかった事実まで明らかになる。
 ジュリアはその送金先からサラを引き取った老夫婦の連絡先まで突き止める。しかし既に老夫婦は他界しており、その息子の、そのまた娘から、祖父達がサラについて語っていたことを教えてもらう。
 実は戦争が終わった一九五三年、サラは出奔していた。あまり笑わない物静かな少女となったサラはいつも遠くを見つめていたというから、老夫婦もいずれ彼女が出て行くことは覚悟していたらしい。年月が流れ、アメリカから「結婚しました」という一枚の絵はがきが届いたのが、サラの最後の消息だった……。

 もうこの物語はどこまで行ってしまうのか、観ている側としても非常に気になります。
 調査の過程でジュリアと夫の関係も悪化し(そりゃ自分の一族の後ろめたい過去を暴くような調査を快く思うわけがないか)、妊娠したことも喜んでくれない夫は中国へ単身赴任。別居同然となったジュリアはアメリカに帰国してしまうワケで、サラの身の上も気になりますが、ジュリアのことも気になる。
 絵はがきの差出人を頼りに、ジュリアは地道な聞き込みを続けていく。執念というか何と云うか。何がそこまでそうさせるのか。

 結局、突き止めはしたものの、サラは既に亡くなっていたという苦い事実が判っただけ。
 しかし息子をひとり産んでおり、その息子はイタリアに渡って料理人となっていた。けれどもイタリアにまで飛んだジュリアに、当の息子の態度は非常につれないものだった。
 いきなり「貴方の母はユダヤ人でした」と告げられても、信じる人は少ないわな。そもそもユダヤ人迫害の過去を持つ少女は、自分のルーツを決して口外しなかったのだから。
 ショックを受けた息子が怒り始めるのも尤もな話です。
 「それで貴方はどうしたい? 私の知りたくもなかったルーツを暴いて満足か?」

 調査の過程で、ジュリアがサラに対して共感を寄せるようになっていったと云うのは理解できますが、確かにここまで追跡しなくても良かったのではとも思えます。
 過去と向き合うことが、未来を生きる糧となる──と云うのは判りますが。
 情け容赦なく全てが暴かれ、サラの遺品からは「あの鍵」までもが出てくる。過去と現在が完全につながり、一人の女性の辿った過酷で幸薄い生涯も明らかとなる。人は皆、先人の遺した積み重ねの上にいるとは云え、誰も幸せにしない真実というのも苦すぎる。
 人はそれでも「知る」べきなのか。

 昨年末に観た『灼熱の魂』もそうですが、「知る」ことの怖ろしさを味わいました。
 ジュリアが出産した赤ん坊が女の子で、名前はサラであると云うのが僅かな希望の光か。
 このサラちゃんの行く末が、幸多いものであらんことをと願わずにはおられません。

 正月早々、この映画はキツかった……。


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善き人

(GOOD)

 二〇〇八年製作の英独合作映画です。なんか公開までに間が空いていますねえ。もっと早く公開できぬものか。それとも公開してくれるだけ有り難いと云うべきなんでしょうか。
 舞台はヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が台頭著しいドイツ。不穏な社会情勢において、善人であろうと苦悩する平凡な男を描いた物語です。背景設定が特殊な状況ではありますが、普遍的なテーマである重厚な作品です。
 元はイギリスの劇作家C・P・テイラーの遺作となった戯曲であるとか。初演は一九八一年。映画化までに二〇年以上が経過しているワケですが、やはり名作なんですかね。米国の権威ある総合誌ナショナル・レビューが選ぶ「二〇世紀ベストの舞台劇一〇〇本」のひとつにカウントされているそうですから。
 監督はこれが長編二作目となるヴィンセンテ・アモリン監督。

 主演はヴィゴ・モーテンセン。ベルリンで教鞭を執る文学教授であり、善き人であろうとする平凡な男。
 病身の母(ジェマ・ジョーンズ)と、精神不安定な妻(アナスタシア・ヒル)と、子供二人を抱えて、家事と介護と講義に追われる忙しい身です。冒頭の家の中の様子が、てんてこ舞いで笑ってしまいました。こりゃ平時であっても大変だろう。
 しかし本人は何となくそれを楽しんでいるかのようでもあります。どちらかというと、一番煩わしいのは義父が勧める「ナチスへの入党」を断り続けることか。

 時期的にヴィゴは『イースタン・プロミス』(2007年)と『ザ・ロード』(2009年)の間に本作に出演していたワケですか(間には『アパルーサの決闘』もありました)。
 他の共演はジェイソン・アイザックスや、マーク・ストロング。
 ジェイソン・アイザックスと云えば、『ハリポタ』のルシウス・マルフォイ役が一番、印象的ですが、本作ではユダヤ人の精神科医という役であり、別人のような面持ちです。ルシウス役のメイクに見慣れてしまった所為だ。ルシウスの格好がデフォルトになっているので、『グリーン・ゾーン』を観ても別人に思えてしまいます。こりゃイカン(汗)。
 『ハリポタ』と云えば、もう一人。
 母役のジェマ・ジョーンズは、ホグワーツの校医マダム・ポンフリーだった方ですね。

 さて、一九三七年のベルリン。大学で文学の講義をするヴィゴですが、学問の世界に対するナチスの介入は日に日に激しくなっていく。非ドイツ的とされる好ましからざる書籍が、キャンパスに積み上げられていく。
 『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』でも観たとおりに焚書になるんだろうなあ。
 更にヴィゴの講義では、プルーストを取り上げているが、これにも講義中断命令が。
 プルーストと云えば『失われた時を求めて』が有名な、二〇世紀を代表する作家ですが、フランス人の筈なのに母親がユダヤ人だというので「非ドイツ的」な著作にされている。
 まったくバカげたことですが、抗議も許されない雰囲気。そのうちナチスに入党していない講師は解雇されるだろうとも警告される。

 あとにして思えば、一時的に大学から解雇されても信念を貫くべきだったのでしょうが、扶養家族と母の介護という現実を抱えていては、それも難しい。
 加えてある日突然、総統官邸から呼び出しがかかる。
 ヴィゴを呼び出したのはナチスの検閲委員長(これが強面のマーク・ストロング)。
 どうやらヴィゴの著作が総統閣下に気に入られてしまったらしい。

 問題となる著作とは、不治の病を抱えた患者に対する「人道的な死」は容認されるべきという内容の小説。現代で云うところの尊厳死とか安楽死というものでしょうか。何となく母の介護をモデルにしたような小説であることが察せられます。ストレス発散の為の余技に書いたようなフィクションに、ナチスが関心を寄せるとは。
 検閲委員長は、これを小説ではなく、骨子だけ抜き出した論文に仕立てあげろと云う。
 その後のナチスの所業を知っている側としては、「人道的な死」が何に利用されようとしているのか、容易く推測できてしまいます。いずれ実行に移す政策に理論武装したかったのか。
 総統官邸ではゲッベルスにも紹介され、ヴィゴの小説の映画化まで約束される。

 金銭的な理由から承諾するヴィゴですが、悪魔に魂を売る瞬間てのは、自覚できないものなんですかねえ。何となくヤバいことに足を突っ込んでいると判っていても、抜き差しならない。
 もう自動的にナチス入党まで決定してしまう。
 このあたりからヴィゴの生活環境が変わり始めます。一見、好転しているようですが……。
 大学の講義で知り合った教え子(ジョディ・ウィッテカー)に言い寄られ、そのまま愛人にしてしまい、とうとう奥さんとは別居。母親の介護は人に任せ、自分は愛人と同棲。大学では学部長への就任も決まる。
 今まで苦労してきたんだから、多少の楽は許されるだろう的なヴィゴの態度からは、以前のような善良な印象が消えていきます。堕落が始まっているのだ。
 親友だったユダヤ人精神科医からは軽蔑されても、大して痛痒を感じない。

 なんとなく「ゆでガエル理論」というのを連想してしまいました。
 最初から熱いお湯に入れると驚いて飛び跳ねるカエルも、常温の水に入れて徐々に熱していくとその水温に慣れていく。そして熱湯になったときには、もはや跳躍する力を失い飛び上がることができずにゆで上がってしまうと云う理論(実際は疑似科学的作り話ですが)。

 翌年の一九三八年、ヴィゴは遂に奥さんとは離婚し、愛人と再婚。ナチス党内ではコンサルタントとして出世し、親衛隊大尉となっていた。
 堕落した社会で成功を望めば、自分も堕落するしかないのか。
 いい気になって暮らしているうちに、世間ではユダヤ人への弾圧はますます厳しくなっていくのに気が付かない。友人はもはや精神科医を開業することが出来なくなっていると云うのに。
 とうとう友人は国外脱出を目論むものの、既に旅券の取得は不可能に近い。もっと早い段階で亡命すれば良かったのにと悔やんでも後の祭り。
 実は物語の序盤で一度、ユダヤ人は国を出るべきかという話題になったが「俺はドイツ人だ」とヴィゴの提案を突っぱねる場面があります。
 ここでもまた「ゆでガエル理論」を思い出しました。
 結局、ヴィゴもジェイソンも、どちらも愚かなゆでガエルなのか。人間は皆そうか。

 恥を忍んでヴィゴにすがるジェイソンに対して、何もしてやれないヴィゴ。
 今更、無力であることを謝ってもどうしようもない。
 加えて、人任せにしていたヴィゴの母親が、孤独な闘病生活に疲れて自殺を図り、そのまま他界してしまう。自分の生活を満喫し、母の介護を顧みなかった報いですね。母の最後の生活がどれほど酷いものだったのか知って激しく後悔しても、これも後の祭り。
 「すべてを捨てて、人生の新たなスタートを切る」ことの意味がこれか。
 妻と子供を捨て、母を亡くし、友人も助けてやれない。
 そうこうするうちにパリで、ドイツ大使館員がユダヤ人青年に暗殺される事件が起きる。そして始まる反ユダヤ主義大暴動。かの有名な「水晶の夜(クリスタルナハト)」。
 それでも暴動の夜、友を救う為に決死の覚悟で旅券を手に入れるあたり、「やれば出来るじゃないか」とヴィゴを誉めてあげたいが、すべては手遅れだった……。

 そして四年が経過した一九四二年。親衛隊幹部にまでなったヴィゴは、ユダヤ人収容所の視察を命じられる。その命令を利用して、ジェイソンの消息を突き止めようとするヴィゴ。
 こういうときには几帳面なドイツ人の資質が役に立ちますね。何もかも記録しているゲシュタポのデータ保管庫と、検索装置の性能の高さにちょっと感心してしまいました。さすがドイツ。
 ドイツのデータ検索能力は世界一ィィィ!(マジで一九四二年当時にこのシステムは凄い)
 ついでに四年前の夜に本当は何があったのかまで全部判ってしまう。ヴィゴにとってはますます悔やまれる結果に……。

 やっとジェイソンの居所を突き止めたヴィゴは、急いで目的の収容所に飛ぶが、そこで目にする悲惨な光景。自分の書いた「人道的な死」の論文の行き着く果てがこんな収容所とは、あまりにも惨い。あまりにも非人道的。
 なんとか親友を見つけ出すものの、もはやかつての面影はない。やせ衰え、目は虚ろで、過酷な環境に人格は破壊されてしまったかに見える。ヴィゴが駆け寄ってもまったくの無反応。
 呆然とするヴィゴ。自責の念から、現実的な感覚が失われていく。聞こえてくる音楽は幻聴なのか……。
 劇中ではマーラーの交響曲が効果的に使われておりました(マーラーもまたユダヤ人)。

 目を逸らして、何もしないこと自体が罪になると云うのも厳しい。善人であろうとしても、ついつい長いものに巻かれてしまう人間の弱さが描かれておりました。うーむ。救いがない。


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