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2016年1月21日木曜日

クリムゾン・ピーク

(Crimson Peak)

 ギレルモ・デル・トロが一人で監督・脚本・製作と三役こなしたゴシック・ホラー映画です。実に古風なゴースト・ストーリーでして、一九世紀の怪奇小説をそのまま映像化しているような趣であります。
 ギレルモ・デル・トロによる監督・脚本・製作作品は、『デビルズ・バックボーン』(2001年)、『パンズ・ラビリンス』(2006年)、『パシフィック・リム』(2013年)に続いて四作めです。本作もまた、トロのトロによるトロの為の映画と申せましょう。

 嫁いだ先の屋敷にまつわる血生臭い噂だとか、何かを訴えかけるように夜毎に現れる幽霊だとか、屋敷に隠された秘密だとか、もういちいち題材が古典的でオーソドックスです。
 ネタは古風ですが、それを手の込んだビジュアルで映像化してくれておりまして、本作の美術は『パンズ・ラビリンス』や『ダーク・フェアリー』(2011年)に勝るとも劣らぬ印象的な出来映えです。時代がかった衣装もまた実に煌びやかです。
 『パシフィック・リム』のような豪快なSFも大好きですが、本作のような雰囲気たっぷりの怪奇譚も良いですね。

 本作はもう古色蒼然とした怪奇小説を堂々と映像化した作品でありまして、デル・トロ監督が開き直って楽しみながら制作しているのが観ている側に伝わって参ります。
 出演しているのは、ミア・ワシコウスカ、トム・ヒドルストン、ジェシカ・チャステイン、チャーリー・ハナム、ジム・ビーヴァーといった皆さん。
 アメリカの資産家の娘イーディス(ミア・ワシコウスカ)が父(ジム・ビーヴァー)の事故死により遺産を相続し、英国貴族の末裔シャープ準男爵(トム・ヒドルストン)の元に嫁ぐことになるが、夫となった男の屋敷には秘密が隠されており、発生する怪奇な現象に新婦が悩まされる──と云うのが大筋です。

 劇中で描かれる怪異現象を抜いてしまうと、ヒッチコック監督の『レベッカ』(1940年)を思わせるようなシチュエーションも伺えました(例えが古い?)。
 しかしそこはギレルモ・デル・トロですから、手を抜くことなく怪奇現象を映像化してくれます。いや、それこそが本作の肝。幽霊を描かずしてどうする。

 ミア・ワシコウスカは久しぶりです。パク・チャヌク監督の『イノセント・ガーデン』(2013年)とジム・ジャームッシュ監督の『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』(同年)以来でした。『奇跡の20000マイル』(同年)も、『マップ・トゥ・ザ・スターズ』(2014年)もスルーしてしまいまして。特に後者はデヴィット・クローネンバーグ監督作品だったのに(残念デス)。
 本作では作家志望の気丈な主人公を演じております。幼い頃から霊視能力を身につけており、文芸方面でも才能を発揮しますが、まだまだ時代は女性がすんなり活躍できる世の中ではない(時代は20世紀初頭のようです)。

 トム・ヒドルストンは『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』でミアとも共演しておりましたが、何と申しましてもマーベルのアメコミ映画でロキ神を演じているのが馴染み深いです。次の『アベンジャーズ』にもまた顔を出してもらいたい。
 本作ではミアに求婚する謎めいた貴族の当主の役です。機械工作が得意でエンジニアの才能があるらしく、領地内の地下資源採掘に情熱を燃やしております。貴族の当主とは云え、左団扇で暮らせるようなセレブではないのが哀しい。
 機械いじりの好きな貴族の若き当主と云う、ちょっと変わった役ですが似合っております。
 劇中で、明かりを灯した燭台を持ったままミア・ワシコウスカとワルツを踊るシーンが印象的でした。

 トム・ヒドルストンの姉役を演じているのがジェシカ・チャステインです。トム以上にミステリアスな雰囲気を漂わせており、ぶっちゃけ本作一番の悪党です。ネタバレしておりますが、本作は実にオーソドックスなストーリーを何の衒いも無く堂々とぶちかます構成ですので、ほとんど隠し事はありません。怪しい奴が本当に怪しいのです。
 本作のミステリは「誰が」ではないのがヒッチコック的です。
 劇中でもミア・ワシコウスカにあからさまに怪しげな紅茶を飲ませ、次第にミアが体調を崩していく過程が描かれます。誰がどう見てもジェシカ・チャステインが一服盛っている。
 本作のサスペンス描写は、ミアがいつそれに気付くのか、と云う点に重きが置かれています。観ている側が「そのお茶には毒がッ」と判っているところが、ヒッチコック監督の『断崖』(1941年)を彷彿とします(例えがいちいち古くてすんません)。

 見知らぬ土地で孤立無援なヒロインが危機に瀕している。誰か助けるものはいないのか──と云うところで、駆けつけるのがチャーリー・ハナム。序盤からしてあまり出番のない印象薄い優男でしたが、後半になって急に出番が増えてきます。
 かなり予定調和的でありますが、ミアが謎めいた屋敷で謎解きをしている間に、並行して事件の背景を探る場面が挿入される演出になっています。実に手堅い。
 次第にミアを取り巻く状況が悪化していく中、救出に向かうわけですが、当然のことになかなかすんなり辿り着くことが出来ないと云うのも超お約束のテッパン展開ですね。
 チャーリー・ハナムは『パシフィック・リム』では、イェーガー〈ジプシー・デンジャー〉を駆る主人公でしたが、本作ではガラリと雰囲気を変えております。明朗快活なところはそのままですが。

 まずは冒頭からミアのモノローグで、幽霊は存在するのだと語るところから始まります。何やら背景のハッキリしない雪景色の中で、怪我をしているのかところどころ流血しております。どこに立っているのか、何故そうなったのかと云うのは、観ていけば判るようになっております。
 すべての事件が片付いたあとで、主人公の回想でドラマが進行していくのが古典的です(最近、この手の演出が多くなっているような気がするのは気の所為ですかね)。

 まだ一〇歳の少女だった頃に母をコレラで亡くして以来、母の幽霊が見えるようになったのが発端です。しかし母の幽霊は生前の姿を留めていなかった。
 本作に登場する幽霊の皆さんは、「死後でも見た目が肉体の変化に左右される」らしいです。だから墓の下で肉体が朽ちていけば、当然のことに現れる姿もまたグロいものになる。日本的な儚げな幽霊とはかなり趣きが異なります。
 髑髏が黒衣を纏って現れるようなイメージでありまして、そのあまりの不気味さは子供が泣き出すレベルです。少女もいかに自分の母とはいえ悲鳴を上げてしまう。
 しかし母の幽霊は「クリムゾン・ピークには気をつけなさい」と謎めいた警告だけ残して消え失せる。

 しかしこの導入部以後、再び怪奇現象に遭遇するのは後半に入ってからです。本作の前半はごくフツーのサスペンス・ミステリー仕立てになっております。ドラマをきちんと描こうというデル・トロ監督の丁寧な演出のおかげですが、その所為で「別に幽霊が出てこなくても面白いのでは」なんて感じてしまいました。
 準男爵を名乗るトム・ヒドルストンとジェシカ・チャステインの姉弟がミアの父ジム・ビーヴァーの元を訪れ、自分の領地にある粘土鉱山の採掘機械開発に出資しないかと持ちかけますが、非現実的であるとして断られる。

 出資を断られながらも、トム・ヒドルストンはミアと親しくなり、二人の仲は進展していくわけですが、これを不審に思った父ビーヴァーが探偵に準男爵の身辺を調べさせたところ、何やら不都合な事実が見つかったようです。
 娘との交際を中断し、帰国すれば表沙汰にはしないと裏工作する父ですが、ほどなくして事故死します。観ている側としては、完全に殺人事件であると判っているのですが、擬装された状況を警察は見抜けない。
 そして父の葬儀が行われる際には、ミアの手には婚約指輪が嵌められていた。

 限りなく胡散臭い上に、遺産相続したミアから採掘機械の開発資金を調達しているので、最初から遺産目当てかと疑われて当然なのに、ミア本人だけは幸せの絶頂におります。
 トム・ヒドルストンの方も、ミアを愛しているのは演技ではないようですが、ナニやら隠し事があって姉ジェシカとこそこそ企んでいる様子なのが怪しい。
 ここまでは怪奇現象のつけ込む余地のない展開で、冒頭に母の幽霊さえ出てこなければフツーのサスペンス・ミステリでしたね。
 しかし物語の舞台がトム・ヒドルストンの領地に移ってからが本筋です。

 含有する金属成分のために地面の色が紅く、その上に建つ屋敷がまた廃墟寸前かと思われるほど不気味で印象的です。このビジュアルが実に劇画ぽい。インパクト絶大ですね。
 そして冬になれば赤い土の上に雪が積もって、まるで大地が血を滲ませたような景観になると語られ、付いた名称が「クリムゾン・ピーク」。
 ここで遂に少女時代に見た母の幽霊のことが思い起こされ、意味不明だった警告に不吉な気配を感じ取るミアです。
 観ている側としては、「母の幽霊はどうやって未来の出来事を知ることが出来たのか」とツッコミを入れたくなるのですが、それは野暮でしょうか。きっと霊魂は時空を越えるのですよ。劇中でも最後までその理由については明言されません。予言めいた警告もこれ一回限りですし、ちょっと御都合主義ぽいですね。

 それを別にすれば、霊視能力のある主人公が屋敷の中で、次々に怪しい影に遭遇し、恐怖に怯えるようになると云う展開は実にホラー映画らしいと申せましょう。霊感のないトム・ヒドルストンとジェシカ・チャステインにはさっぱり判ってもらえないと云うのもお約束です。
 あからさまに屋敷の中で迫ってくるゾンビのような幽霊も怖いですが、屋敷の敷地の向こうの方で風にゆらゆら揺れながらある一点を黙って指差している幽霊と云うのも不気味です。
 総じて、幽霊の皆さんはミアに何事かを教えようとしたり、訴えかけようとしております。

 怪異が命を奪おうとしているのではなく、何かを訴えかけようとしていると判ってからはホラー色が急速に薄れていきます。幽霊が登場する時のインパクトにはビックリはしますけど。
 思えば母の幽霊もそうでした。とは云え、愛する娘を抱きしめたいと願うのは無理もないが、ガイコツが両腕を広げて迫ってきたらフツーは怖がられますわな。
 中には自分が生者からどのように見えるのかあまり考慮しないまま、必死に訴えかけようと迫ってくるので悲鳴を上げて逃げられてしまうケースもあります。ミアも逃げずにちゃんと受け止めてあげればハナシはこじれずに済んだのですが、妙齢のご婦人にそれは無理か。

 しかし次第にミアの方も、この屋敷で何が起こったのか感付き始め……と云うところで、本当に怖ろしいのは死者ではなく生者の方であると云う方向に落ち着きます。
 タネを明かせば、トム・ヒドルストンは資産家の令嬢を次々に食い物にして財産を奪う青髯野郎だったわけですが、裏で糸を引いているのがジェシカ・チャステインと云う構図です。
 そしてミア・ワシコウスカを斬り殺そうと大鉈振りかざして襲ってくるジェシカ・チャステインが実に怖ろしい。本作一番の恐怖シーンと申せましょう。

 助けに来たチャーリー・ハナムも返り討ちに遭い、姉を諫めようとしたトム・ヒドルストンもやられてしまい、壮絶な女性同士の対決の末にゴーストの助けもあって、辛くも生き延びるミア・ワシコウスカです。そこでやっと冒頭の場面に繋がって一件落着。

 エンドクレジットの後、一冊の本の表紙が映ります。題名は『クリムゾン・ピーク』。事件の後にミアが一連の顛末を書き残したものとも受け取れますし、そもそもこれは現実に起こった事件ではなく、とある女流作家が一人称で執筆した怪奇小説(の映画化)だったのか、とも受け取れる演出でした。
 後者だとすると、劇中に散見された御都合主義や、劇画紛いの展開も予め計算された演出とも考えられますね。デル・トロ監督はそこまで計算していたのでしょうか。
 ともあれ、雰囲気たっぷりのゴシック・ホラーを堪能いたしました。




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2016年1月18日月曜日

イット・フォローズ

(It Follws)

 デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督・脚本による低予算ホラー映画です。有名俳優もいないし、取り立てて派手なCG特撮もありません。もうB級一直線なホラー映画ですが、アイディアの勝利によって面白いものになりました。確かに本作は「今までありそうでなかった」作品です。
 「クエンティン・タランティーノも絶賛」と云う評価は間違いではありませんね。
 劇場に足を運んだ際に、あまり前評判も聞かなかった──予備知識も仕入れなかったし──のに「当たり」だったことは、それほど多くはありませぬが、これはその希なケースです。
 本作で不満なのは、邦題がヒネリなしであるところくらいでしょうか。原題をカタカナ変換するだけでは、あまりホラー映画ぽく感じられないのですが。

 本作を支えているのは「性交渉によって呪いが伝染する」と云う発想です。ほぼこのワンアイディアで全編押し切っております。
 細かく挙げると、「呪いは人間の姿をしてやって来る」とか、「常に人が歩行するスピードである」とか、「無関係な一般人には見えない」とか、「物理的な制限もちゃんと受ける」といったルールもあります。本作は自らが掲げたルールをきちんと遵守し、「こうだからこうなる」と云う理屈を通しており、それが面白い演出に繋がっているのが巧いですね。

 まぁ、B級ホラーですから、そもそも「何故そんな呪いがあるのか?」なんて疑問には一切、答えるつもりがないのも清々しい。
 大体、ホラー映画には昔から「親の目を盗んでイチャつく不埒な青少年共には殺人鬼が鉄槌を下してくれる」と云う暗黙のルールがありましたしね。「バカップルから死んでいく」と云うのもテッパンすぎるお約束です。
 だからホラー映画で「エッチなことをする」のは「死亡フラグを立てている」のと同義なのです。
 でも、本作の「性交渉によって呪いの対象を移せる(「感染せる」かな)」と云うのは、コロンブスの卵的な発想でした。

 B級ホラーではありますが、何やら「性病の比喩」のようでもあり、「不幸の手紙」との類似も感じます。但し、呪いを相手に押しつけるととりあえずは逃れられるのが、感染症とは異なるところです。
 対策は「他人と性交渉して呪いを移す」ことだけ。根本的な解決策は最後まで提示されません(そんなものがあるのかも判らない)。
 大体、その亡霊というか悪霊というかの正体がさっぱり判らないのもB級映画らしいところですが、取り憑いて殺す対象が移ったことをどうやって察知しているのかも判りません。

 劇中では常に「それ」としか呼ばれません。霊的な存在なのかと思われましたが、物理法則に縛られてもいるようなので、悪霊と呼ぶのも違う気がします。
 飛べないので歩くしかない。目には見えないが壁抜けは出来ない。
 霊魂の類ではなく、透明人間のような描写です。劇中では、「それ」を見ることが出来ない者が見えないナニカに突き飛ばされて転倒するとか、シーツを被せたら空中に人型のような輪郭が視認できたといった演出もありました。
 見えないけれど、実体は備えているらしい。だから窓を割って侵入するとか、ドアを蹴破って入ってくると云う、およそ悪霊らしからぬ振る舞いをします。

 その一方で、「見える者には姿形を変えることが出来る」と云うルールもあります。だから、同じものが追ってくるわけではない。むしろ同じ姿には二度とならないようにしているのではないかとも思えます。
 大抵の場合は、一目見たら怪しさ爆発するような風体で迫ってくるので、割と簡単に察知することが出来ます。そりゃもう、大学のキャンパスを寝間着姿の老婆がうろついていたら人目を惹きそうなものですが、周囲の学生達は誰も不審な素振りを見せないので、「それ」だと判る。
 夜の街を全裸の女が歩いていたらもっと人目を惹くだろうとか、屋根の上に全裸のオヤジが仁王立ちしていれば通報されるだろうとか、「それ」を見分ける方法はそれほど難しくはない。

 どうも「それ」はあまりTPOには頓着しない性格のようです。
 但し、そうやって慢心していると、たまに「自分の見知った姿」で現れてくるのが厄介です。これは「それ」の作戦なのか。
 いつもは一目で判るような怪しい姿で現れておき、ここぞと云う局面では母親の姿で現れて油断したところを襲いかかる。実に怖ろしい。
 だから一瞬たりとも気が抜けない。いつ、友人の姿を装って近づいてくるのか判らないのだ。

 このルールの秀逸なところは、これによって「ごくフツーの通行人の誰も彼もが怪しく見えてくる」と云う演出に繋がるからですね。
 単にエキストラさんを映しているだけで、それが恐怖演出になる。低予算ホラー映画としては素晴らしい費用対効果と申せましょう。「誰かがこちらに向かって歩いてくる」だけで、これほど怖いと思わせるホラー映画は初めてです。
 じわじわと得体の知れないものが近づいてくる恐怖。足音を思わせるような劇伴のビートも効果を上げております。

 半ば実体を備えているので、攻撃方法も物理的な手段に限られるようです。
 「それ」が追われている女性の髪の毛を掴むと、「それ」を見ることが出来ない者にも、女性の髪の毛が空中に持ち上げられているのが見えたりします。やはり一種の透明人間だと考えるのがよいのでしょうか。
 「それ」の標的にされて怯える者の家には、そこいら中に空き缶や空き瓶をつないだ即席の鳴子が仕掛けられていると云う描写もあります。鳴子で接近を感知できるらしいので、いよいよ悪霊とは呼べませんね。

 但し、物理攻撃のみとは云え、腕力は相当なもののようです。手始めに冒頭で血祭りに上げられる女性は、遺体がもはや奇怪なオブジェのように手脚をへし折られてねじ曲げられた無残な姿で発見されたりします(ここが本作で一番のショッキングシーン)。
 物理攻撃しかなくても侮れません。その上、銃で撃っても死なない(倒れますがまた立ち上がる)し。これはゾンビが透明人間になっているようなものか。

 移動速度も徒歩程度なので逃げ出すことも容易いが、油断していると捕まってしまうのもゾンビ映画と共通している点でしょうか。まぁ、近年の「走るゾンビ」には当てはまりませぬが、古典的なロメロ風ゾンビと似ておりますね。
 犠牲者は常に「油断したところを襲われる」のです。油断さえしなければ逃げ切れますが、人間は常に緊張状態を維持できない。いつか油断してしまう時が来る。
 『エルム街の悪夢』の「眠ったら殺されるが、いつかは眠らねばならない」と云う避けがたい状況とも似ております。神経磨り減らして消耗していき、いずれは餌食になってしまう。

 ホラー映画で「何故」を追求すると恐怖感が減じてしまうので、本作では極力「判らないものは判らない」で押し通しています。
 何故こちらの居場所が判るのか、殺してどうするつもりなのか、どこから来たのか等々の基本的な疑問には一切、答えを用意しておりません。判るのは「それ」の振る舞いに関することのみ。
 標的を始末してしまうと成仏する……ワケではなく、その標的と最後に性交渉した者にまた対象が戻ってしまうと云うルールもあります。
 だから自分が狙われないためには、「次の人」がまた別の誰かと性交渉し、その誰かは更にまた別の誰かと……と、標的を順送りにしていく他は無い。列の最後尾にいる者が常に標的。

 ある種のスポーツかゲームのようなルールです。
 だから「それ」が順調に標的を始末していくと、いずれまた自分が最後尾になってしまい狙われることになる。避けるためには新たな標的を生み出し続ける他ないのか。
 劇中では、ヒロイン(マイカ・モンロー)を助けようとする青年(キーア・ギルクリスト)が、街角に立つ娼婦を見つめるシーンがありました。このとき、ふと「商売でヤッてる者を連鎖に組み込むとどうなるのだろう」と疑問が湧きました。
 娼婦は常に新たな標的を生み出してくれて、「それ」からの防波堤になってくれるのでは。
 他者を犠牲にして生き延びるようとする考えなので、あまり良策とは云えませんが、緊急避難的には許され……ないかな。それにタイミングが悪いと、新たな標的が生まれる前に娼婦が殺されて元の木阿弥になりますし。

 では、標的が連鎖の前の方にいる人とヤッちゃうとどうなるのかな。
 この場合はループが形成されて、いずれ自分が殺されてしまうのはやむを得ないとしても、ループを辿りきるとそこで標的が消滅してしまうことになりますまいか。
 「それ」の活動を止めるには、ループを作って、ループの中にいる者全員が(自分を含めて)覚悟を決めて犠牲になる他ないのだろうか。

 例えば、AさんとBさんがエッチする。その後、BさんとCさんがエッチする。「それ」が狙うのは最後尾のCさんになりますが、ここで襲われる前にCさんがもう一度、Bさんとエッチしてしまうとどうなるか。
 Cさんより先にBさんが襲われ、次にCさんが襲われるが、Cさんの最後のエッチの相手はBさんなので「それ」はこれ以上、連鎖を遡ることが出来なくなるのでは。
 するとAさんを助けるために必要な最小限の犠牲者ループは……二人いればいいのか。

 ストーリーとしては、最後に助かるのは主人公のヒロインであってもらいたいところですね。必然的にBさんは男性になりますが、次のCさんが再び女性になってしまう。ヒロインを救うためにまた別の女性が犠牲になるのはよろしくないか。
 犠牲になるなら野郎であってもらいたい。
 と云うことは、ヒロインAさんを救う為には、覚悟を決めたBくんとCくんに決死のBLを敢行してもらう他はない(それも攻守を変えて何度もな)。これはこれでなかなか壮絶な場面になるような気がします。
 ……なんて、どうでもいいようなことを延々と考えてしまいました。アホや。

 当然のことに劇中ではそのような解決策が採られることはなく、もっと緊迫した最終対決の場が用意されます。
 学校の屋内プールに狙われているマイカ・モンローを配置し、友人達がプールサイドに待機する。「それ」が目に見えずとも、実体があるのなら水を押しのけて現れる筈だから、「それ」が見えなくても居場所が判る筈だ。
 透明人間対策としてはいいアイデアだと思いますが、果たして巧くいくのやら。

 結局、銃弾を受けても平気な「それ」でしたが、最後の一発は頭部を貫通したようです。
 「頭を破壊されるとゾンビは停止する」と云うお約束は「それ」にも通用するのか。そもそも「それ」が「透明なゾンビ(のようなもの)」であると云う見立ては正しいのか。
 劇中では、はっきりと明示されないまま、「それ」の襲撃は止むことは止みます。単に一時的に撃退しただけなのか、とどめを刺せたのか。

 もやもやとはっきりしない不安なエンディングもまた低予算B級ホラー映画の王道を行く展開ですね。危機を乗り切ったマイカ・モンローとキーア・ギルクリストのカップルが手をつないで歩いて行くところでエンドです。
 でもピントの合っていない後方から誰かがついて来るようなのですが。
 きっとただ通行人ですよね。気にしすぎ……カモ。




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2016年1月10日日曜日

グリーン・インフェルノ

(The Green Inferno)

 猟奇的な衝撃映像ばかりを売り物にした見世物的映画──いわゆるモンド映画──は、それほど好物でもないのですが、イーラス・ロス監督作品であるので観に行きました。本作には至るところに監督のモンド愛が炸裂しております。
 まぁ、イーライ・ロスは元から『キャビン・フィーバー』(2003年)やら、『ホステル』(2005年)の監督ですしね。近年は監督するよりも、『イングロリアス・バスターズ』(2009年)や『ピラニア 3D』(2010年)への出演の方で目立っておりましたが、また監督業の方に戻ってきてもらえて嬉しいデス。
 と云うか、イーライはいつになったら『グラインドハウス』(2007年)の劇中で予告された『感謝祭』を撮ってくれるのでありましょうか。待ってるンですけど。
 しかしどうやら本作で味を占めたらしく、次回作は本作の続編になるようです。当分、モンド映画から帰ってこないつもりなのかしら。

 モンド映画と云えば、題名には「ヤコペッティの~」と付けた作品が色々と思い浮かぶ年代であります。すると脳内では自動的にリズ・オルトラーニの「モア」のメロディが再生される。
 私は先に映画音楽として「モア」のテーマ曲から入り──アカデミー歌曲賞(第36回・1963年)にもノミネートされた名曲ですよ──、後にTVで放送された『世界残酷物語』(1962年)を観てダマされていたことに気がつきました(題名に「残酷」って付けられているのに気づけよ、俺)。
 以来、モンド映画と云えばヤコペッティ。他にも『グレートハンティング』(1975年)とか、『ジャンク/死と惨劇』(1978年)とか、七〇年代はエゲつないものが多かったですねえ。
 さすがに八〇年代に入って、『食人族』(1981年)あたりになると、免疫ができて(否応なしにな)おりましたし、かなり食傷気味にもなっていたのですが──それでもしばらくは実話だと信じていた時期が私にもありました──、イーライ・ロスはこのあたりから入ったらしいですね。やはり串刺しにされた人体のビジュアルはインパクトありますし。

 本作は『食人族』のルッジェロ・デオダート監督に最大級のリスペクトが捧げられております。
 もうエンドクレジットにデカデカと「ルッジェロ監督に捧ぐ(“Per Ruggero”)」と表示されますし。何故そんなに大きなフォントを使うのかワケが判りませんが、きっとフォントの大きさに愛がこめられているのね。
 それだけではなく、イーライが少年時代に愛好したのであろう数々の猟奇的食人映画のリストまでエンドクレジットに付けてくれる親切ぶりです。この手のものはイタリアが本場ですね。
 『食人族』の他に、本作がどのような作品からインスパイアを受けているのかと云うと、『人喰族』(1981年)、『カニバル/世界最後の人喰い族』(1977年)、『猟奇変態地獄』(1977年)等々……。やはり原題に「カニバル“Cannibal”」と付くのが多いデス。
 このあたりはパンフレットに詳細な解説記事が載っていて便利でした(観てない作品が多いけど、イーライの大好物だということはよく判る)。

 などと云う経緯を踏まえた上で考えると、本作の邦題は『イーライ・ロスの食人族』にした方が正しいのではないか。原題をそのままカタカナでカッコ良く表した『グリーン・インフェルノ』なんて邦題では、それは作品の精神を反映していないのでは(日本語ではね)。もっとB級映画ぽくしないとイカンじゃろー。
 『マッドマックス』最新作の副題に「怒りのデス・ロード」と付けた、あのセンスが欲しい。
 予告編もそれらしく「もうこれ以上はお見せできません!」とか云ってモザイクをかけて。

 さて、本作はルッジェロ・デオダート監督に献辞を付けるくらい『食人族』へのオマージュに溢れていて、ぶっちゃけリメイク作品じゃないのかとさえ思います。
 ストーリーもあって無きが如し。若者達がアマゾン奥地で遭難し、食人の風習が残る原住民に捕らわれて、食べられていく……だけ。
 序盤は色々と現代的なアレンジがされていて、ちょっと風刺的な側面があったりするのが巧いです。また、わざわざアマゾンくんだりまで出かけていく理由付けも考えられています。
 遭難してからは主要な登場人物が一人、また一人と命を落としていく過程もなかなかバラエティに富んでいますし、エロ・グロばかりの残虐映画と云うワケではありません。
 サスペンス的な盛り上がりも計算しているのが伺えます。
 でもきっと撮影中は、ニコニコしながら死んでいくキャラクターに演出を付けていたのでしょうねえ。楽しそうなイーライの顔が背景に透けて見えそうでした。

 冒頭、アマゾンの奥地で原住民らしき風体の老人と少年が、いきなり森林伐採中の工事車両に出くわす場面が社会派ぽい。環境破壊によって熱帯雨林の面積が年々減少していくとか、希少な野生動物が絶滅していくなんてドキュメンタリー映画が思い浮かびます。
 ドラマでもジョン・マクティアナン監督の『ザ・スタンド』(1992年)なんてのがありましたし。
 そして環境保護を訴える学生達の中には、過激な手段で世間の注目を集めて、熱帯雨林破壊の実体を知らしめようと考える一団がいた。

 序盤からして、純粋な若者達の独善というか、自己満足というか、志は立派ですけど現場のことはあまり考えてないよね的な一団が描かれております。目的が崇高なら、どんな手段を使っても許されるのだと考えていそうな連中です。当然、あまり好きにはなれません。
 その連中が目を付けたのが、チリ政府による地下資源採掘のあおりをくらって生存が脅かされているアマゾン奥地の弱小種族。
 押しつけがましく「文明の波から、消えゆく部族を救うのだ」なんて云っておりますが、助けるつもりでノコノコ出かけていき、美味しく戴かれてしまうのであろうと容易く想像が付きますね。

 この、ちょっと社会風刺的な描写や、後半の展開に向けた伏線の仕込みが序盤に入りますので、本作の出だしは少しもたついた印象を受けます。いや、もっとB級グログロな残酷描写が売り物なんだから、すぐにでもアマゾンに出かけて行くのだろうと思っておりました。
 予想以上にイーライの丁寧な演出が巧いです。
 ここで主人公が大学生であることを説明し、文化人類学を専攻しているらしい描写も入れて、現代でもなお未開の風習が世界各地には残っているのだと前振りが入ります。
 講義の場面は短いですが、食人の他にも、女性の陰核切除の風習だとか、大蟻を使った拷問というか処刑方法なんてのもスライド写真で軽く触れられます。メインは「食人」だけだろうと思っていたら、この場面で紹介された事柄は、ほぼその通りに主人公一行の身に降りかかってきていました。

 更に主人公は国連職員の娘であることが語られ、講義で知った野蛮な風習を国連は何とか出来ないのかと父親に訴えますが、一朝一夕には出来ないのだと返される。ごく常識的な回答ですが、若者には受け入れがたい。
 無謀な環境保護活動への肩入れも、大人への反発が背景にあるようです。
 そんなこんなでようやく南米へ出かけていく段になりますが、あまりにも無邪気な人が多い。旅費も活動資金も、自腹切った様子がなく、背後にスポンサーがいるらしいのに誰もそれを不審に思わない。誰か少しは疑えよ。

 観光気分でチリまで出かけていきますが、いよいよ奥地に入る直前になって、ようやく活動にはリスクが伴うとか、実は英語の全く通じない地域だとか、衛星電話以外は使えないとか、不安要素がテンコ盛りだと明かされます。「嫌なら帰れ」とリーダーに突き放されても逆らえない。かなり自業自得です。
 そして次第に背景がワイルドな世界に移行していきます。
 森林伐採の現場に潜り込み、各自のスマホから画像をリアルタイムでネットに流して、企業の暴挙を暴こうという作戦が現代的です。一応、作戦は成功し、ネット上で注目を集めはしますが、自分達はチリの軍隊に身柄を拘束されて小型の飛行機で強制送還。
 そして送還途中のエンジントラブルで密林の奥地に墜落。いや、ここまでが結構、長かった。

 飛行機の墜落描写もダイナミックです。機体がヘシ折れ空中に吸い出されていく者や、不時着時に樹木が機体を貫通して自分も貫かれてしまう者、回転するプロペラにぶった斬られる者と、バラエティに富んだ死にざまを披露してくれます。
 いや、そんなに死んだら食人族に回る人数が足りなくなるんじゃないのかと心配になるくらい、この墜落場面では人死にが出ます。
 さすがイーライ・ロス監督。前半の押さえた展開を吹っ切るかのように殺しまくります。
 そして僅かに残った生存者の前に現れる食人族。捕まる前に逃げだそうとした奴は弓矢でグサリです。どんどん死んでいくので、なんか勿体ない。

 B級映画ですから、見知った俳優さんが一人も登場しません。有名俳優が出演すると助かるのが判ってしまいますからね。
 出演俳優はロレンツァ・イッツォや、アリエル・レビ、ダリル・サバラ、カービー・ブリス・ブラントンといった皆さん。イーライが他作品で関わり合いになった方が何人もいるようです。
 本作の主演女優のロレンツァ・イッツォは監督の嫁であるそうな。自分の嫁だからなのか、容赦なくヒドい目に遭わせていたりします。ポール・W・S・アンダーソン監督が『バイオハザード』シリーズで嫁のミラ・ジョヴォヴィッチをいじっているのと同じようなものでしょうか。

 そして劇中に登場するアマゾン奥地の食人族は、現地ロケハン中に見つけてきたカラナヤク族の皆さんです。とてもフレンドリーな人達で、撮影中もずっと協力的だったそうな。
 しかし本当に文明から隔絶した生活を送っている人達なので、映画とは何なのかよく判らなかったらしい。そこでイーライ・ロス監督は、お手本として『食人族』のビデオを見せて、「我々が撮りたいのはこんなヤツ」と説明したらしい。
 「百聞は一見にしかず」とは云うものの、人生最初の映画体験が『食人族』か。それはそれで問題ではないのか。あんまりだ。

 劇中では全身に赤い塗料を塗りたくり、異様な顔面ペイントや細工物の装飾を身につけた半裸の人達が大人から子供まで大挙して登場してくれますが、それは多分、きっとカラナヤク族本来のスタイルではないのでしょう。
 しかし現地人ならではの「吹き矢を射かける際の姿勢」などは堂に入っております。
 また、和気あいあいと集落の女性たちによる調理の場面や、一族そろってのお食事のシーンが撮影されていますが、劇中では「それは人肉」と定義されているので、なおのこと異常さが際立っております。あどけないお子様も楽しそうに出演しておりました。

 全般的に素人であるカラナヤク族の皆さんですが、中にはチリの俳優さんも混じっております。本作は米智合作映画だそうです。
 食人族の中でも、部族の祈祷師というかシャーマン的な婆さん役と、戦士長役の男性の放つインパクトは絶大です。素人さんには出せない迫力です。ビジュアルの勝利でもありますね。

 集落まで連行されたら、とりあえず最初に一人が食されて、あとは保存用に檻に監禁です。
 そこから脱出の手段を考え、色々と逃げ出す算段を模索するわけですが、なかなか巧くいきません。自分だけ助かろうとする卑劣な奴がいたりするのもお約束ですね。
 そして自分達の環境保護活動は、実は企業の手伝いであったことが明かされる。標的となった企業のライバル社が競争相手の足を引っ張るために仕組んだ活動であり、早晩、また伐採は再開され、別の企業が軍隊の護衛付きでやって来る。それまでの約一週間を生き延びれば、助かるハズだ。
 命がけの環境保護活動も企業に利用されていただけで、その効果もたった一週間とは切ない話です。理想と現実のギャップを味わいますが、それが頼みの綱とは皮肉です。

 監禁中でも伏線にあった陰核切除の儀式とか、全裸にされて得体の知れない塗料塗りたくられるとか、エッチぃ場面があったかと思うと、今度は生きたまま「躍り食い」されてしまうとか、エロとグロなシチュエーションが交互にやって来ます。イーライ・ロスの本領発揮です。
 墜落事故で先に死んだ仲間は、杭に刺されてモズの早贄状態。
 やはりこの「人体串刺し」の再現はイーライ・ロスのコダワリなのでしょうねえ。

 紆余曲折の末、ようやくチリ軍が到着し、食人族を退治してくれるワケですが、これはこれで大量殺戮だし、如何なものか的な描写です。ここには善も悪もないのだという演出に哲学的なものを感じます(考えすぎかな、イーライ・ロスだしな)。
 結局、主人公一人だけが助かり、仲間を犠牲にして生き延びようとした卑劣なリーダーは密林の奥地に置き去りにされてしまうのですが、果たして彼は報いを受けて死んだのか。
 なかなかB級ホラーぽい結末であり、続編が明言されていますので、野生に戻った男が文明社会に帰ってきそうな気配が濃厚に漂うラストでありました。




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2014年11月20日木曜日

ドラキュラ ZERO

(Dracula Untold)

 ブラム・ストーカーの創作した吸血鬼ドラキュラ伯爵はホラー映画ではお馴染みのモンスターですね。伯爵によらず「ヴァンパイアもの」はそれだけでひとつのジャンルを築いております。
 しかし意外と原典『吸血鬼ドラキュラ』は、あまり省みられてこなかったような感があります。個人的にはフランシス・フォード・コッポラ監督による『ドラキュラ』(1992年)が一番原作に近い気がします。
 コッポラ版『ドラキュラ』でも、冒頭部分に「如何にしてヴラド大公は吸血鬼となったか」が語られておりましたが、本作はその部分だけ取り出して一本のストーリーにしております。

 当然、ヴラド大公が主人公ですので、悲劇の主人公になりました。
 敬虔なキリスト教の信者であり、オスマン帝国の侵略から領民を守護しようとする勇敢な領主様が、如何にして悪魔の力を手に入れ、不死の怪物と化したのかと云うストーリー。
 原典は一九世紀が背景でしたが、本作はドラキュラの起源の物語となるので時代を遡り、一五世紀の東欧が舞台となります。
 語られざるドラキュラの物語と云うことで、邦題には判り易く「ZERO」なんぞと付けられております。前日譚にはアリガチですね。シリーズものではありませぬが。
 本作の監督はゲイリー・ショア。本作がデビュー作となる新人監督だそうですが、なかなか頑張ってCG満載の歴史アクションものに仕上げております。

 このヴラド大公=ドラキュラを演じているのが、ルーク・エヴァンスです。『タイタンの戦い』(2010年)以降、メジャーな作品への出演が多くなってきておりますね。今まではライバル役とか悪役で目立っておりましたが、遂に主役を張るまでになりました。
 一方、ルーク・エヴァンスの相手役となるヴラド大公の美しき妻ミレーナを演じているのは、サラ・ガドン。カナダの女優さんで、デヴィッド・クローネンバーグ監督の『危険なメソッド』(2011年)にマイケル・ファスベンダーの奥さん役──つまりユング夫人ね──で出演しておりました。近年のクローネンバーグ作品には『コズモポリス』(2012年)にも出演しているそうですが、そちらはスルーしておりまして未見デス(汗)。

 ルーク・エヴァンスのライバル役となるのが、オスマン帝国の皇帝メフメト二世を演じるドミニク・クーパーです。一番記憶に残るのは『デビルズ・ダブル/ある影武者の物語』(2011年)のウダイ・フセインとその影武者の一人二役でした。今回もアラブ人の役ですが特に不自然ではありません。
 どちらかと云うと、遠征軍の指揮をスルタン自らが執っていると云うストーリー上の都合の方が不自然でしたが、それは仕方ないか。
 メフメト二世もヴラド大公と同じく実在した歴史上の人物でありますので、本作は可能な限り史実の設定も取り込んだ歴史ドラマのような作りになっております。
 とは云え、アクションものでもありますので、史実に忠実な姿勢もテキトーなところで切り上げちゃって、クライマックスでは歴史そっちのけでヴラド大公とメフメト二世が壮絶にチャンバラしたりします。

 また、メフメト二世はヴラド大公と顔見知りでもあると云う設定になっております。少年時代、ヴラドは人質としてオスマン帝国に囚われており(ここも史実であるそうな)、その際にメフメトとも友人であったと云う(こっちはフィクションか)。
 敵はかつての幼馴染みという設定が少年漫画ぽいです。
 残念なのは、ちょっと設定倒れな感じがするところでしょうか。あまり仲が良かったというわけでもなさそうなので、宿命の対決というところまで盛り上がったりはしてくれませんでした。
 まぁ、二人ともいい歳したオヤジですから、感慨に耽るほどではないのか。
 二人の少年時代までも回想シーンで挿入して、友情が破局を迎えて宿敵となる過程まで描かれていれば燃える展開ですが、それではストーリーが別物になってしまいますか。

 更に、単なる人質ではなく、本格的な戦闘訓練も施されたということになっており、敵の兵士を情け容赦なしに串刺しにして晒す行為も、オスマン帝国時代に培われたと云う設定。
 冒頭から、オスマン帝国は東ヨーロッパ諸国から千人の少年少女を奴隷として掠っていき、過酷な戦闘訓練を施して帝国の兵士として鍛え上げた旨が語られます。その中で生き延びて比類無き兵士として成長したのがヴラド少年である。
 なにやらザック・スナイダー監督の『300 スリーハンドレッド』(2007年)を思わせますね。
 劇中ではルーク・エヴァンスが見事な筋肉を披露してくれるサービス・シーンも用意されております。身体中、古傷だらけであるのが過酷な過去を伺わせております。

 まぁ、こうでもしないと〈串刺し公〉を主人公には出来ませんですね。残虐な行為も、好き好んでやっているのでは無いと云いたいようです。
 その後、虜囚の身から解放されて故国ワラキアに帰り着いたヴラドは領主となった。
 ──と、語っているのはヴラドの息子インゲラス少年(アート・パーキンソン)。
 本作ではヴラド大公のミレーナ公妃への愛だけでなく、息子を守ろうとするヴラドの父性愛も描かれるというストーリーになっております。

 さて、ドラキュラを悲劇の主人公にするには、もう一人、悪役が必要になりますね。本人は望んで吸血鬼になる訳では無いので尚のことデス。
 ここで登場するのが「マスター・ヴァンパイア」なる設定。大抵のヴァンパイアものでは、ドラキュラ伯爵こそ吸血鬼の始祖であると云う設定ですが、本作ではドラキュラよりも古い太古のヴァンパイアが登場します。
 こいつがヴラド大公と取引し、悪魔の契約でヴァンパイアの能力を与えると云う流れです。
 このマスター・ヴァンパイア役がチャールズ・ダンス。TVシリーズ『ゲーム・オブ・スローンズ』では悪役のキャスタリーロック公を演じておりますね。本作では特殊メイクばりばりの怪物面ですが、そこはかとなく威厳を漂わせておりまして、陰で糸を引いている一番の悪党です。

 まずは小康状態で平和が続く東欧諸国に、再びオスマン帝国の斥候部隊が出没し始めたという報告を受けて、ヴラド大公と部下の騎士達が領内を探索しております。オスマン帝国との戦が近いことを憂慮するヴラドですが、奇妙なことに発見されたオスマン兵の兜には野獣の爪のような跡が残っていた。
 オスマン兵の痕跡を追って「魔の山」と呼ばれる山岳に足を踏み入れたヴラドと部下達は、とある洞窟の中で正体不明の魔物に遭遇する。部下を惨殺されながら九死に一生を得たヴラドは、オスマン帝国の侵略だけでも頭が痛いのに、この上、魔物のことなどに構っていられるかと関係者一同に箝口令を敷く。
 ここで魔物は、悪魔と取引して怪物化した人間であり、聖書の時代から生きているなどと説明されております。東欧の修道僧達が長年封じてきたのだとも。
 このあたりの事情をもっと詳しく知りたいものですが、とりあえずヴァンパイアの顔見せだけ済ませると、ストーリーはオスマン帝国の侵略の方に比重が移っていきます。

 帝国からの横暴な使節団が現れ、再び千人の少年少女を差し出せと要求してくる。しかもその要求にはヴラドの息子、インゲラスも含まれていた。
 戦を避けて子供達を差し出すか、要求をはねつけて帝国と一戦交えるか。
 苦悩するルーク・エヴァンスですが、その妻サラ・ガドンの方は息子を差し出すなどもっての外と聞く耳持たず。このあたり論理的な説得を受け付けない母性の描き方が強烈です。若干、ヒステリック気味(無理からぬ事ですが)。
 夫の方からすると、会話も成立しない状態というのは如何なものかと思われますねえ。

 結局、人質を差し出すつもりでオスマン帝国の使者と対面するが、土壇場で翻意して斬り伏せてしまう。理性的なようでいて、やはり感情に流されてしまうあたりに人間的なものを感じますが、後先考えない行動に出てしまったことを後悔しても後の祭り。もはや帝国との戦は避けようがない。
 窮余の策として思い出したのが、件の魔物。あの悪魔的な力ならばオスマン帝国の軍隊を滅ぼせる筈だと、大公自らが単独で再び魔の山を訪れます。
 ストーリーが非常に判り易く、サクサク進行していきますね。尺も九二分しかありませんし。

 そして、やってはいけないと判っていてもやらざるを得ない魔物との契約。超常の能力と引き換えに、人間の血を飲みたいという「血の渇望」に責め苛まれるルーク・エヴァンスです。
 当初から完全なヴァンパイアになるわけでなく、三日間渇望に耐えきればヴァンパイア化は免れると説明されますが、無事に三日を乗り切れる筈も無いと観ている側には判っているのが哀しい。
 なので、ストーリー的には「どこで渇望に屈してしまうのか」が焦点になってきます。
 愛する妻に事情を話すことも出来ず、禁断症状に悶々とするルーク・エヴァンス。ちょっと中毒患者ぽいです。
 直射日光が弱点ですが(でも日陰なら大丈夫というのが御都合的)、完全なヴァンパイアでは無いので十字架は怖くない。代わりに「銀に触れられない」と云う制約が付きます。

 また、吸血鬼には下僕が付き従っている設定も踏襲されます。ドラキュラ伯爵にはレンフィールドなる下僕がおりましたが、本作でもレンフィールドぽい下僕が現れます。「早く血を飲んで楽になりなさい」と誘惑してくる不気味な男ですが、いまいち正体がよく判りません。
 何となくマスター・ヴァンパイアが遣わしているらしいと察せられますが、そのあたりの設定は明らかになりません。自分が洞窟に封じられているので、下僕を使って誘惑しているような。
 ちょっと説明不足ですが、ルークが誘惑に屈すれば自分も洞窟から自由になれるらしい。

 禁断症状に苦しみながらも領民を救うためにオスマン軍と戦うルーク。このあたりのアクションはCG全開でダイナミックです。
 走り出すと身体が無数のコウモリの群れに別れ、またコウモリが集結して合体すると元に戻るという映像がなかなか興味深い。敵兵と戦う際にも、斬りつけられると瞬時にコウモリ化して躱し、相手の背後に回り込むや合体して元に戻って斬り伏せるという殺陣が実にスピーディに展開しております(ちょっとズルい戦い方ですが)。
 更にコウモリ軍団を自在に操りオスマン軍を翻弄しますが、敵の圧倒的物量の前に次第に押されていく。夜間の戦いでは優勢でしたが、夜明けと共に能力が衰えてしまうのは如何ともし難い。

 結果、遂に領民と共に立て籠もった修道院は包囲殲滅。息子は人質に掠われ、奥方も断崖から転落してしまう。
 落下するサラ・ガドンを救おうと猛スピードで追いすがるが間に合わず。この場面はティム・バートン監督の『ダーク・シャドウ』(2012年)でも観たような演出ですね。
 息絶える前の奥方の最後の願いが、息子を救ってくれと云う懇願。遂に三日目にして禁を破ってしまうわけですが、ヴァンパイア化が愛妻の血を吸うことで果たされるのが劇的且つ哀しい。

 そこから先は腹を括ったルーク・エヴァンスのリベンジが行われるわけで、ヴラドの名を捨てドラキュラとなり、瀕死の領民や部下の騎士を片っ端から吸血鬼化させて手下にし、オスマン帝国軍の陣営に殴り込む。
 もはや日中であろうと、天候まで操れるようになったので、暗雲で太陽を隠してしまえば怖いものなし。かくして不死のヴァンパイア軍団の前にオスマン帝国軍も瓦解するわけですが、ドミニク・クーパーだけは銀で武装し、最後までしぶとく抵抗してくれました。
 ひょっとしたらメフメト二世が勝ってしまうのでは……と思わせる当たり、敵役としては頑張ってくれましたが、最後は壮絶にやられてしまいます。正しい悪役の姿です(歴史のことは忘れよう)。

 しかし帝国は倒したが、手下にした吸血鬼共は全員、人間性を失い化け物になってしまう。その責任を取るべく、助けた息子を一人の修道士に託して、自ら暗雲を払って手下全員を道連れに、白日の下に自決するドラキュラ。自決するヴァンパイアと云うのも珍しいでしょうか。
 冒頭と同じく、息子インゲラスのモノローグでその後のことなどが語られていきます。父の後を継いで領主となるが、本当に国を救った大公は禁を犯した罪人として讃えられること無く忘れ去られていく。

 ……筈でしたが、吸血鬼ドラキュラがそんなことで滅してしまうわけもないか。
 簡単に甦ってしまう体質というのも難儀なことです。
 そして時は流れて現代ロンドン(あれ、一九世紀をスルーしましたよ)。
 永劫の時を生き続けるルーク・エヴァンスですが、実はマスター・ヴァンパイアとの決着はまだ付いていなかったというところで、何やらホラー映画にはありがちな、続編を匂わせるような幕切れでありました。まさか本当に続編にはならないと思いますが……うーむ。




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2014年7月25日金曜日

エスケイプ・フロム・トゥモロー

(Escape from Tomorrow)

 フロリダのディズニー・ワールド・リゾートを背景に繰り広げられる幻想的なホラー映画と云うか、ダークなファンタジー映画で、昨年(2013年)のサンダンス映画祭で上映されるや問題作として注目を集めた、ちょっとアブない映画です。
 どこがアブないかと云うと、背景がディズニー・ワールド・リゾートであるのがアブない。ほぼ全編、無許可によるゲリラ撮影でロケが敢行された作品で、劇中には有名アトラクションや有名キャラクターが実名でガンガン登場しております。もう、ディズニー社から訴えられても文句の言えないような作りです。
 本作の公式サイトには、それを売りにした「関係者が告訴されずにいる日数カウンタ」が設置されているのも悪趣味ですね。
 奇蹟的に告訴されないまま、公開後も半年以上が経過しているようで、このまま記録更新されていくのか気になるところです。

 この「究極のゲリラムービー」を撮ったのは、本作がデュー作になるランディ・ムーア監督。脚本も監督自身。新人でなければ出来ないような無茶をしております。
 ゲリラ撮影なので本格的な機材は使用できず、基本は隠し撮り。キヤノン製のデジタル一眼レフカメラとオリンパス製の超小型ポケットレコーダーが活躍したそうで、日本製品の技術の高さがこんなところで発揮されるとは、ちょっと嬉しいデス(でも良い子はなるべく真似しない方がいいよね)。
 新人監督のデビュー作なので、低予算なのは当然。出演している俳優さん達も、ほとんど馴染みがありません。主にTVドラマで活躍されているような方達ですし、あまり映画出演には馴染みがないようです(あってもかなりの脇役のようですし)。

 配役とスタッフの中で一番有名なのは、本作の音楽を担当したアベル・コルゼニオフスキーでしょうか。ゴールデングローブ賞に二度ノミネートされている作曲家ですし、携わった作品も、トム・フォード監督の『シングルマン』(2009年)とか、マドンナが監督した『ウォリスとエドワード/英国王冠をかけた恋』(2011年)といった日本公開もされて、それなりに評判になった作品がありますから。本作でもなかなか壮大なスコアを聴かせてくれます。
 しかし起用の理由は、監督の知己だったからだそうな。
 音楽のアベル・コルゼニオフスキーが一番有名だろうと云うあたりで、他はほぼ全員が無名であると云い切って差し支えありますまい。

 本作はモノクロ作品です。モノクロの作品が新人監督のデビュー作であると云うのは、割とよく見かけるスタイルですね。近年でもドイツ映画の『コーヒーをめぐる冒険』(2013年)なんてのを思い起こします。
 また、色彩がない分、陰影が強調され、現実のディズニー・ワールドとは思えない、ちょっと悪夢的な印象も醸し出してくれます。楽しかるべきディズニーランドのキャラクターも、単なるツクリモノである側面が強調され、実に不気味です。人形に陰を付けてモノクロで撮ると、大体は不気味に見えてしまうものですが、それがディズニーのキャラクターであるので、尚更です。

 特に劇中に登場する「くまのプーさん」のキャラクター達や、「イッツ・ア・スモールワールド」の人形がコワイ。しかも後者にはCGによる効果が付け加えられて、人形の表情が瞬間的に邪悪なものに見えたりします。
 もう怖がるより先に、そんなことしてエエんかいな、訴えられないかしらと心配になってしまいました。ナンカ別の意味でドキドキします。

 モノクロで、監督デビュー作で、不気味かつシュールな作品と云うと、デヴィッド・リンチ監督の『イレイザーヘッド』(1977年)を思い出します。本作はあそこまで難解なストーリーではありませんが、カルトな代物であることは間違いないでしょう。いずれランディ・ムーア監督がビッグになった暁には、本作はカルト・ムービーとして名を馳せることになるのではないでしょうか。
 監督が訴えられて公開中止になったり、ビデオ・リリースが差し止めになったりする可能性もあるし、その時には「劇場公開時に本作を観た」と云うのがマニアの間でステータスに……ならんかな。
 まぁ、わざわざ劇場に足を運んで鑑賞したことに、呆れられつつ称賛されるかも知れません。

 ともあれ、夢と希望が売り物のディズニーランドで、シュールかつ悪夢的な内容のストーリーが展開するあたり、絶対にディズニー社の許可なんぞ下りたりしないと確信できるので、ゲリラ撮影もやむを得ないでしょうか。その上、本作にはエロとグロとバイオレンスも含まれておりますので、尚更デスねえ。
 案の定、PG12指定も喰らっております。
 セクシーなお姉さんにティンカーベルのコスプレをさせて、ちょっとエロい妖精にするだけならまだいいが、劇中では女性がトップレスになったり、登場人物がゲロを吐いたり、血を吐いたり、SMプレイしたりと、悪趣味なシーンもありますので仕方ない。

 しかしストーリー自体は、割と「よくあるネタ」と申しますか、人生に煮詰まった中年男が、過剰なストレスから妄想を炸裂させた挙げ句の果てに暴走し、己が身を滅ぼすと云う展開でして、理解できないほど難解ではありません。デヴィッド・リンチ監督作品のように常人がついて行けないほどブッ飛んでいるわけではないです。
 逆に、ムーア監督の理性的かつ論理的な感性が作品の随所に伺われます。
 その最たるものが、徹底的なロケハンでしょう。突撃ゲリラ撮影だけでは決して本作のような映像は撮ることは出来ないと思います。

 何度も何度もディズニー・ワールドを訪れ、撮影ポイントや時間帯を細かくチェックした上で、綿密な計画に則って撮影を敢行していると監督も語っておられますし。きっと制作費のかなりの部分が入園料に消えたことでしょう。ロケハン中のスタッフは熱烈なリピーターも顔負けだったに違いない。
 だから単なる無許可撮影では得られないような興味深い景観も拝めます。
 例えば、園内が突然、無人になるシーンなどは、フツーに入園して盗撮しているだけでは得られない景観でしょう。瞬間的に「誰も通りかからない」場所があると確認するのに、どれほどの手間を掛けたのか。あるいは開園直後に走って一番乗りして撮影したのか(その為の苦労も並大抵では無いでしょう)。

 逆に、そういう場面があるので「実はディズニー社が裏で協力してあげているのではないか」とさえ思えます。まぁ、自社のイメージを著しく損なうような企画に協力する筈も無いか。
 他にも、何度か背景を合成していると思しき場面もあって、ゲリラ撮影だけでは難しい場面も(特に夜間のパレードや花火を背景にしたときには)、何とか乗り切っています。
 モノクロ作品であるので、さほど合成も違和感なく感じられるのが巧いですね。

 さて、家族連れでディズニー・ワールドを訪れることは父親にとっては非常なストレスである、と云うのはよく判ることです。仕事で疲れた身体にむち打って家族サービスに努めるパパは大変なのである(この部分だけでも身につまされます)。
 特に精神的に追い詰められているとあれば尚のこと。
 家族でディズニー・ワールドのオフィシャルホテルに投宿し、朝一番から行楽に出かける予定の早朝、主人公ジム(ロイ・エイブラムソン)は解雇通知を受け取る。
 ケータイの通話一本で解雇を伝えてくると云うのも厳しすぎますが、おかげで楽しかるべき行楽の一日がまったく楽しくない、鬱々と気の晴れない一日になる。今日を楽しみにしていた妻子に伝えるのも憚られるが、黙っていることでストレスはますます強くなっていく。

 こういう時に、イタズラ盛りのお子様がはしゃぎ回って、疲れた父親はますます精神的に煮詰まっていくと云う悪循環。上の空でいると奥さんから文句を云われ、逃避したくて若い女性に視線を注いでいると更に奥さんとの関係が悪化していく。負のスパイラル状態。
 かくして現実逃避の妄想は更に激しくなるが、訪れた場所がディズニー・ワールドであるのも不味かった。何しろここは「夢が叶う場所」である。
 疲れた中年男の妄想もまた叶えられ、虚実交錯する悪夢のような一日が始まるのだった。

 ここで描かれるのがフロリダのディズニー・ワールド・リゾートですが、ここは主に四つのパークで構成されているのだそうな(行ったことないものでよく存じませんでした)。
 曰く、「マジックキングダム」、「アニマルキングダム」、「エプコット」、「ハリウッドスタジオ」の四種類。
 本作で描かれる──盗撮される──背景となるのは、その中のひとつ「エプコット」です。
 エプコットとは「実験未来都市(“Experimental Prototype Community of Tomorrow”)」の略称だそうで、科学的かつ未来的なアトラクションが売り物のパークのようです。特にエプコットのシンボルなのが、「スペースシップ・アース」と呼ばれる建物。
 直径五〇メートルの巨大な銀色の球体で、表面は三角形のアルミパネルで凸凹している幾何学的な建造物(内部はライド系のアトラクションだそうな)。このデザインは実に印象的です。

 本作では、スペースシップ・アース館の地下には怪しげなコントロール・センターがあって、人間の脳内をモニターしていると云われております。主人公が建物の外観を模した奇怪なヘルメットを被せられる場面が気色悪い。本作のキービジュアルの一つにもなっています。
 モノクロである上に、非常にシュールなデザインのビジュアルは、フランスのSF映画のような感じもします。ここは数少ない「セットで撮影」された場面です。低予算なので、ガジェットも簡潔です。
 セットの他に、ミニチュアで撮影された場面もあって、劇中ではこの「悪の巣窟(笑)であるスペースシップ・アース館」が爆発して粉々になるシーンも登場します。もう、好き勝手やってます。怖いもの知らずというか何と云うか。

 しかし妄想が炸裂するといっても、疲れた中年男性の妄想が主にエロであるのは万国共通ですね。
 園内で見かけた若い女性が、妙に自分に気がある素振りを見せたりするのは、そりゃ勝手な思い込みでしょう。同じ日に園内をぐるぐる回っていれば、何度かニアミスするのも偶然の範疇であるように思われますが、主人公はそこに何らかの意図を(勝手に)読み取ってしまう。
 そうやって妄想に耽っているうちに、自分の子供が迷子になりかけたり、それをまた奥さんに責められたりするので、半ば自業自得的な側面もあります。更に、園内で手に入るアルコール飲料を片っ端から飲んでいくので、次第に悪酔いして手が付けられなくなっていく。
 如何にストレスがかかっているとは云え、格好悪いパパでちょっと情けないデス。
 
 そして妄想の行き着く先が「人生のリセット」であると云うのもよく判るハナシですが、本作の主人公の場合はちょっと屈折しております。どこからヒネリ出してきたものか、ディズニー・ワールドでは謎の奇病「猫インフルエンザ」が流行しているのだと云う。
 感染者は瞳がネコ目になって、一晩で毛玉と血を盛大に吐いて死に至る怖ろしい奇病。
 実はディズニー側は感染者をこの世から葬り去り、キャスト総出で証拠隠滅を図っているのだと描かれております。そして主人公も謎の奇病によって命を落とす。

 自分をこの世から葬り去り、その痕跡はディズニー側が総力を挙げて隠滅してくれる。勿論、遺された家族へのフォローも、きちんと怠りなし。
 そうして自分の遺体がホテルから密かに運び出されるのと入れ違いに、新たな自分が妄想の中で出会った美女と一緒に(可愛らしい娘も連れて)、幸せな家族連れとしてホテルにチェックインすると云うラストシーン。
 ディズニー・ワールドでは、どんな夢も、妄想も、叶ってしまうのであると云う、ある意味ではこれ以上ないくらいにディズニーをリスペクトしているようなエンディングです。
 しかし相当に自分勝手な妄想につき合わされた九〇分で、背景がディズニー・ワールドでなければ半分も面白くないストーリーでしょう。これは脚本と云うよりも企画の勝利と云うべきなんでしょうか。




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2014年5月15日木曜日

ゴール・オブ・ザ・デッド

(Goal of the Dead)

 サッカーW杯がブラジルで開催される時流に乗って公開された、「ゾンビ de サッカー」なホラー映画です。この時期を逃せばビデオスルー確定な代物ですね。
 題名だけでお判りの通り、ほとんど出オチ、一発ネタです。
 サッカーの試合中、スタジアムにゾンビが乱入し、瞬く間に観戦者が感染者になって、スタジアムは阿鼻叫喚のるつぼと化す。選手もゾンビ、監督もゾンビ、サポーターもゾンビ。ゾンビのグルーピーに、ゾンビのフーリガン。
 さすがはサッカー大国フランス……なのか(一応、本作はフランス映画であります)。
 でもW杯はストーリーにまったく関係ないし。無理矢理、「Z杯」などとこじつけて宣伝されておりますが、ゾンビとサッカー対決する場面は……最後の方にチラッとあるだけ(看板倒れにならないギリギリな程度)。

 こんなB級ホラーを観に来る客は少ないと思われたのか、劇場側も色々と割引サービスを実施したりしております。
 チケットカウンターで、ゾンビのモノマネをしたら料金が千円になると聞いたので、スタッフのお姉さんの前で「うげえええ」と呻いたら、ちゃんと千円にしてくれました。
 上級者になると、サッカーのユニフォーム上下着用とボールを持参で更に割り引き、加えてゾンビのメイクまでしてくると無料鑑賞になるそうな。さすがにそこまでの強者はお見かけしませんでしたが、実際にやらかした人はいたのかしら。

 たまたま私が鑑賞したときは、上映前に歌舞伎俳優の片岡亀蔵さんのトークショーが行われることになっていて、ちょっと得した気分でした。
 これはシネマ歌舞伎『大江戸りびんぐでっど』(2010年)がリバイバル上映されることに引っ掛けたタイアップ企画だったそうで、歌舞伎俳優の中では「大のゾンビ好き」と云われる片岡亀蔵さんが、色々とゾンビ愛を語っておりました。
 『大江戸りびんぐでっど』の苦労話とかも、なかなか興味深い内容でした。
 しかしトークの中で、色々と本作について触れているところがありまして、「人生、無駄なことも必要である」とか「精神的に鍛えられる映画は自己啓発にも繋がる」と云った旨の発言があり、何となく鑑賞前から内容を察してしまいました。ああ、やっぱりそうなのか。
 いや、バカなB級であると承知の上で観に行ったのですが(汗)。

 本作は何故か、前後編に分けられていて、監督が各々別になっています。
 前半戦の「死霊のキックオフ大乱闘編」と後半戦の「地獄の感染ドリブル編」。もはや配給会社が色々とネタを付け加えて盛り上げようとしているようです。そこまで盛らないとイカンのか。
 前半戦の監督が『ザ・ホード/死霊の大群』(2010年)のバンジャマン・ロシェ監督で、後半戦の監督が『エイリアンVSヴァネッサ・パラディ』(2006年)のティエリー・ポワロー監督。

 この二人で前後編の映画を撮って、B級にならなかったら不思議というものでしょう。本作は尺にして一二一分ですので、大体が各編六〇分ずつといった按配でしょうか。日本ではノーカットで一本の作品としていますが、本来は別々の上映作品だそうな。
 でもこれを分ける意味があるのか甚だ疑問です。どう見ても連続したドラマになっていて、あからさまに前半のラストが「つづく」でブッた切られて後半に雪崩れ込む構成ですし、前半だけ劇場公開しても意味なしのように思えます。無論、後半だけ観てもワケが判らないでしょうし。
 B級映画の二本立てとしても、クエンティン・タランティーノの『グラインドハウス』(2007年)みたいにはなりませんですねえ。
 とりあえず、日本では途中休憩もなしに前後編一挙上映で助かりました。

 主演はアルバン・ルノワール、シャーリー・ブルノー、ティファニー・ダヴィオ、アメッド・シラといった方々ですが、よく存じませんデス(汗)。
 でもB級ホラー映画に有名俳優は必要ありませんですね(むしろ不要でしょう)。
 皆さん前後編を通して、そのまま出演されております。
 実は前後編、別々の監督が撮ることにもあまり差異が感じられなかったので、ますますこの企画がよく判りませんデス。ドラマがシームレスに繋がっているのは、逆に有り難いですが。

 まずはのっけから大混乱のスタジアムの様子がアバンタイトルとして流れます。
 フリーガンがピッチに発煙筒を何本も投げ込んだらしく、試合は中断しておりますが、スモークの向こうで選手達が乱闘しているようでもあります。実際は襲われていたりするワケですが。
 観客席にも混乱が見受けられ、サポーター同士が乱闘しているようにも見えます。どんどん感染が広がっているのですね判ります。暴れるフーリガンとゾンビは紙一重。

 最初にクライマックスのサワリをチラ見せしておき、どうしてこうなった的に時間が巻き戻って数時間前に。
 フランスの田園地帯を、サッカーチームのバスが走って行くオープニングです。実に平和です。フランスのサッカーリーグだから「リーグ・1(アン)」か。
 パリのチームが地方のスタジアムで地元のチームと対戦するようで、取材のためにレポーターが同行しております。ザッとバスの中で登場人物と状況が説明されます。

 主人公はかつてのスター選手で、今は若干落ち目のアルバン・ルノワール。これから行く地方都市キャプロングの出身で、かつて地元チームで将来を嘱望されたものの、期待を裏切ってパリのチームに移籍して地元からは怨まれ続けていると云う設定。
 アルバンの移籍のお陰でキャプロングは優勝を逸してしまい、以来ずっと怨まれ続けている。
 十七年も前の出来事なのに、田舎の人は執念深いのですね。

 地元キャプロングでは、裏切り者アルバンの所属するチームが来るというので、フーリガン共が騒ぐ気満々で待ち受けております。
 そしてかつてのチームメイトも、アルバンに復讐する気満々だった──と云うところで、得体の知れない洋館の地下では、怪しげな医者がひとりの選手──地元チームのエースストライカーらしい──にドーピングを施そうとしていた……。

 何も説明がありませんが、このドーピングのお陰でゾンビが誕生します。一体、どんな薬なのかとか、どこからその薬を入手したのかとか、まったく説明がありません。とりあえず説明抜きにストーリーが進行しても、どこかで事情説明とかあるのかと期待しましたが、そんなものはありませんでした。
 素晴らしく御都合的なB級展開です。
 とにかく、その薬でドーピングすれば憎いアルバンに復讐できるのだと注射を受けて、早速に身体に変調を来し、白目を剥いて口から泡を吹き出しております。そして洋館を飛びだして行く。

 本作に於けるゾンビは、『28日後…』(2002年)や、『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004年)のようなアクティブかつアグレッシブなゾンビです。まぁ、そうでないとサッカーの試合は出来ませんからね。古典的なロメロ風ゾンビではスポーツの試合には甚だ不向きでしょう。
 監督達のコメントによると、本作には『ショーン・オブ・ザ・デッド』(2004年)などのコメディ系ゾンビものに対するオマージュがあるそうですが(確かにそう云う場面もありますが)、どちらかと云えば本作は『28日後…』の系統に属するものでしょう。

 試合前に森の中を駆け巡りながら、手始めに不運な人達を血祭りに上げて感染を拡大させていくゾンビストライカー。静かな田舎町に、少しずつ破局の種が蒔かれていく演出はお約束ですが手堅いです。
 電話線工事中の業者が襲われたりして、街が孤立していく段取りもしっかり描かれております。フーリガン共が騒ぎを起こすことを懸念してパトロール中の憲兵隊が惨殺死体を発見したりするホラー映画にお約束の場面もあります。
 フランスの警察組織に馴染みが薄いので、「憲兵隊」と云われましてもピンと来ないのは、エリック・ヴァレット監督の『プレイ/獲物』(2011年)と同様です。本作ではアメリカの映画と同じく「田舎町の警察署」といった感じです。
 憲兵隊の隊長が、警察署長という理解で概ね正しいようです。

 総じて、事前の状況説明と破局に向かって進んでいく段取りの描写が丁寧です。ゾンビ映画にしては若干長めの二時間と云う尺もやむを得ないでしょうか(一般的には九〇分前後でも充分と思いますが)。
 それにしては、根本的なゾンビ誕生の経緯を省略しまくりなのは御愛敬。そんな説明よりもジワジワ進行していく過程の方が大事ですね。

 街のほとんどの住民がスタジアムに集結し、いよいよキックオフです。
 劇中の時間経過は、主人公達が街に到着する午後から始まり、ナイター試合が開催され、ゾンビで大騒ぎになって、翌朝にはラストを迎えると云う、比較的短い時間の出来事が描かれております。
 試合開始前から、主人公アルバンには観客席から非難囂々、審判までもがアルバンに不利な判定をする始末。アウェーの試合は厳しいと云いますが、これは酷い。
 結果、レッドカードで一発退場を喰らって引っ込んでしまうので、主人公は難を逃れるわけですが。

 計画通り、フーリガン共が発煙筒を投げ込み、ピッチの様子がよく見えなくなった頃に、ゾンビストライカーの入場。煙に巻かれて何がナニやらの間に、チームメイトも対戦相手も襲われて感染していきます。
 のみならず、観客席の最前列にいるサポーターにもゾンビストライカーのゲロが吐きかけられて一発感染。
 本作での感染者は口から泡を吹いたり、ゲロを吐いたりしながら感染を拡大させていきます。飛沫感染で、数十秒後には発症するあたりも『28日後…』や『ワールド・ウォーZ』(2013年)並みのスピード感染です。
 観客席でサポーターがゲロのウェーブをするギャグも見せてくれます。

 退場を喰らって早々にスタジアムを出て、バーで飲んでいた主人公は難を逃れ、やがてスタジアムからあふれ出したゾンビ達が街を破壊していく中、バーに籠城する羽目になる(このあたりが『ショーン・オブ・ザ・デッド』ぽいか)。
 他にも憲兵隊の隊長と逮捕されたフーリガンや、チームメイトの中でも感染を免れた者達が数カ所でサバイバルしていく展開が同時並行的に描かれていきます。
 自分だけ助かろうとして、仲間を見捨てて逃げ出した奴がやられたりするのは当然です。このあたりはもう、お約束テンコ盛りの黄金のパターン。

 街は破壊され、あちこちで出火し、大騒ぎになる中、生き延びた連中が少しずつ集結していく流れで、その過程で主人公アルバンの過去や人間関係が明らかになっていくわけですが、主人公があまり誉められた人間ではないので感情移入はできません。過去に対する反省もないし、怨まれて当然のような。
 発端となるゾンビストライカーが、かつての親友だったりとかするわけですが、その決着の付け方も弱い。

 定番のグロい描写も、手堅いですが標準的でしょうか。銃弾がスローモーションでゾンビの頭部を破壊するCG場面等も挿入されたりするのですけど。
 終盤、生き残った連中が最後にスタジアムに戻ってくると同時に、ゾンビの大群に囲まれて万事休す。
 そこで強引にゾンビ達とサッカー対決する展開です。ゾンビ化してもサッカー大好きな連中だから、ボールがあると無闇に襲ってこないのが笑えます。
 取って付けた御都合主義な場面ですが、サッカー対決はそれなりにカッコ良く撮れておりました。ただ、ゾンビの頭をゴールに蹴り込む場面は、それほど大した場面ではなかったのが残念(ポスターの絵の方が何倍も迫力あります)。

 何とかスタジアムを脱出し、街から逃げ出したところで、軍隊が出動してきて一件落着。そのままエンディングに。
 序盤の仕込みはそれなりでしたが、ラストがなし崩しな感じです。
 エンドクレジットで、その後の様子がエピローグとして紹介されていきますが、ヒドいお笑い落ちで、シリアスコメディ路線が台無しになった感があります。それなりにゾンビ愛は感じられましたが、悪ノリしすぎでしたかねえ(B級だしな)。




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