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2016年6月18日土曜日

マネーモンスター

(Money Monster)

 全米高視聴率財テク番組「マネーモンスター」の生放送中に銃と爆弾を手にした男が乱入し、その司会者を人質にしてスタジオ内に立て籠もる。番組の株式情報を信じて全財産を失った男が求めるのは、自分を陥れたインターネットによるHFT(超高速取引)の不正の全貌。
 籠城中も生放送は続行され、番組占拠の極限状態の中で暴かれる真実とは何か。

 ジョディ・フォスター監督によるサスペンス映画です。専ら女優としての出演作の方が多いので、監督作品は『リトルマン・テイト』(1991年)、『それでも、愛してる』(2011年)に続く三作目になります(他にはTVドラマでも幾つかあるようですが)。
 前二作では出演もしておられましたが、今回は初めて監督業に徹しておられますね。
 『それでも、愛してる』ではメル・ギブソンと共演でしたので、今回もジョージ・クルーニーと共演しても良かったと思うのですが、二足の草鞋は大変ですかね。もし共演していたら、やっぱりジュリア・ロバーツ演じる番組ディレクター役だったのでしょうか。

 昨年も『ミケランジェロ・プロジェクト』(2014年)や、『トゥモローランド』(2015年)と出演作が相次いで──順番が前後しましたけど──公開されたジョージ・クルーニーですが、今年もまた『ヘイル、シーザー!』(2016年)と合わせて、間をおかずに公開されて嬉しいデス。
 共演となるジュリア・ロバーツも──『8月の家族たち』(2013年)からちょっだけ間が開きましたが──、『シークレット・アイズ』(2015年)に続いて、もう次の作品が公開されるとは早いですね(と云うか同日公開じゃないデスか)。
 本作では番組司会者役がジョージ・クルーニー、ディレクター役がジュリア・ロバーツとなります。そして主役となるもう一人が、番組を占拠する犯人役のジャック・オコンネルです。

 ジャック・オコンネルは、『300 スリーハンドレッド/帝国の進撃』(2014年)にアテナイの兵士役で出演していた他はあまり出演作を存じませぬが、有望な若手英国俳優ですね。
 アンジェリーナ・ジョリー監督の『不屈の男/アンブロークン』(2014年)では、日本軍の捕虜になるパイロット役で主演に抜擢されていたのに、諸般の事情でスルーしてしまいました。と云うか、『不屈の男~』は公開館数が少ない上に、気がついたら上映終了していたよ。残念。

 ジョージ、ジュリア、ジャック以外の出演は、ドミニク・ウェスト、カトリーナ・バルフ、クリストファー・デナムといった皆さん。
 ドミニク・ウェストは、『ジョン・カーター』(2012年)と『パレードへようこそ』(2015年)で存じております。本作では、疑惑の株取引でクローズアップされる大企業の最高経営責任者役。
 カトリーナ・バルフはその企業の広報担当役員の役です。『大脱出』(2013年)や『グランド・イリュージョン』(同年)に出演しているものの、あまり記憶に残っておりませぬ。

 本作は尺が九九分と、昨今のハリウッド映画にしてはやや短めですが、サスペンス映画としては程良い長さと申せましょう。むしろ密度の濃い展開で、ダラダラ引っ張ることなく決着が付くので、ジョディ・フォスターの演出力の高さが伺えます。監督としても腕は確かですねえ。
 緊張状態が続くストーリーの展開も、かなりリアルタイムに近いように感じられました。なんせ生番組の占拠ですし。視聴者の反応がリアルタイムでスタジオにフィードバックされるあたりも、巧くドラマの展開に取り込まれております。

 所得格差や金融破綻をネタにした映画としては、近年では『ドリームホーム/99%を操る男たち』(2014年)や、『マネーショート/華麗なる大逆転』(2015年)あたりが思い浮かぶところですが、これらは住宅のサブプライムローンやらリーマンショックを題材にしていて、本作とは少し視点が異なるでしょうか。
 むしろ「爆弾を使ったTV番組の乗っ取りと事件の生放送」と云う点では、韓国映画の『テロ、ライブ』(2013年)に似ているかも(ニュースキャスターも人質になりますし)。まぁ、『テロ、ライブ』は金融とは無関係ですし、謎解きよりも爆弾テロでビルが倒壊するアクションの方が凄かったのですが、本作はミステリ色の方が強いです。

 冒頭、ジョージのモノローグで事件の経緯が語られる趣向です。「少し複雑な話だからな」と前置きしながら、現代の金融市場の説明が入ります。
 今や、カネは光子となってネットワークの中を飛び回っているのだ。そのスピードは、もはや人間が追いつけるものではない。
 ある銘柄の株が突如として下落した。金融取引に係るアルゴリズムのバグによるものだが、その原因は不明のまま。複雑怪奇な取引の詳細は人に理解出来るものでは無いのだ。
 ──などと軽く流してしまうジョージですが、その取引で損をした人間にとっては、そんな「バグ」の一言で片付けられるものでは無かったのだった。

 序盤から、番組オンエア前のスタジオの活気を呈した──かなりゴタゴタした──状況がテンポ良く説明されていきます。TV局を描いた映画では定番のシチュエーションですね。
 そして番組のテーマ曲として流れるラップに乗せて、ジョージ・クルーニーがノリノリで披露するダンスが楽しいです。『ヘイル、シーザー!』のときよりも更に軽薄さに磨きが掛かった演技です。楽しそうだな、ジョージ。
 このラップは本作の主題歌にもなっておりまして、エンドクレジット時にフルコーラスで聴くことが出来ます。「金は正直/俺が好き♪」
 また、モノクロ映像の往年のモンスター映画の場面が番組の中で頻繁に引用されたりしております。この演出が番組名でもある「マネーモンスター」の由来ですね。

 のっけからテンション高く、軽薄トークで調子の良いことばかり並べ立てるジョージの姿に笑ってしまいますが、元からそういう性格ではないらしい。人質になってからは、一転してシリアスな性格を覗かせる落差の演技も巧いです。
 また、ジュリア・ロバーツを始め、スタジオ内のスタッフも事件に直面してパニックに陥ることなく、冷静に放送を継続しております。強制されて放送を継続しているわけですが、すぐに視聴率のソロバンを弾いたりするあたりがしたたかです。
 カメラマンに至っては、もはやヤケクソで実況につき合っております。途中で逃げ出すことも出来たのに、諦観してカメラを担いでジョージ達につき合う姿勢に職業病のようなものも感じますね。

 さて、番組開始早々に銃を持って乱入したジャック・オコンネルは、ジョージ・クルーニーに爆弾付ベストを着せて、放送を継続するよう要求します。
 そしてジョージの甘言に乗って指定された銘柄の株取引に全財産を注ぎ込み、一晩で六万ドルを失ったのだと糾弾する。親から相続した遺産だったのに。
 「あんた、銀行預金よりも安全だと云ったじゃないか!」
 スタジオ内には番組の録画テープも保管されており、まさにその場面を再生されて、言い逃れは出来ない。普段から調子の良いことばかり並べ立てていたツケが回ってきたのだと云えなくも無いです。

 しかし、そんな立て板に水の調子でペラペラ喋る軽薄なトークに乗せられて全財産注ぎ込むなんて、おかしいのではないか。そもそもそんな財テク番組が高視聴率を維持し続けていられるという基本的な設定に疑問を感じたりするのですが、そこにツッ込むと本作が成立しなくなりますか。
 何となくバブル最盛期の日本にこんな番組があったのだと云われると納得してしまいそうですが、現代を舞台にした──つまり、リーマンショック後の──アメリカでもリアルな設定なのですかね。国民性もあるから一概には否定できんか。

 今の日本じゃ、こんな番組はあり得ないでしょうが、アメリカではあり得るのか。
 個人的に「投資はギャンブルである」と思いますので、「博打に全財産ツッ込むなんて」とジャック・オコンネルを小一時間ほど説教してみたくもあります。
 まぁ、普段から赤貧生活に甘んじていた男に、思いもよらず親が遺した遺産が舞い込み、のぼせ上がってしまったところに、タイミング良くジョージのトークが飛び込んでしまったのだと好意的に解釈しましょう。これはある種の事故か。

 予期せず舞い込んだ遺産だったのだから、最初から無かったものと思えば諦めもつこうというものでしょうが、ジャック・オコンネルの思考回路はそうではなかった。一度見てしまった夢は、もう取消不可らしい。
 結果として、誰かに責任を取ってもらわねば気が済まないと考えるワケですが、一応は常識も働いているらしく、事件を起こしたからには後戻りできないことも承知しているようです。全ては覚悟の上か。

 だからジョージの「損した分は弁償しよう」と云う申し出にも飛びつかない。それに、損をしたのは自分だけでは無いはずだ。
 意味不明な「HFTアルゴリズムのバグ」とやらで暴落した株価によって失われた総額は八億ドルである。何故、誰もこの不正を訴えようとしないのか。皆、騙されているのだ。
 もはや損した額を取り戻せるとは思っておらず、不正の存在さえ暴ければそれでいいと考えているようです。人間、死ぬ気になれば何でも出来るものだなあ。

 そんなこんなでスタジオ内でバタバタしているうちに、放送局は警官隊に包囲され、狙撃手が配置についたりして、次第に状況が悪化していきます。
 ジャックの身元も特定され、同棲している恋人が説得のために引っ張り出されて来たりもしましたが、ここで恋人に散々罵倒されて、警察の目論見が水の泡になるのが笑えました。警察も慌てて中断させたりせずに、いっそのこと最後まで気の済むまで恋人に罵詈雑言を吐かせてあげた方が、犯人を意気消沈させて事件が早々に解決したのでは無いかとも思えます。
 あまりに手ひどく罵倒されたので、逆にジョージが気を遣って慰めたりします。まぁ、絶望のあまり爆弾のスイッチを入れられては溜まりませんからね。慰めるのも命がけです。

 一方、公共の電波で言い掛かりを付けられては企業のイメージに傷が付くと、企業側の広報担当役員であるカトリーナ・バルフもまた動き出します。アルゴリズムのバグの真相が知りたいなら、設計者に訊けばいいじゃない。
 劇中では、株の高速取引を行うアルゴリズムを構築したプログラマのことを「金融工学者(クォンツ)」と呼んでいました。「ファイナンシャル・エンジニア」ではないのか。
 と云うか、クォンツってナニ?

 「Quantitative(数量的、定量的)から派生した言葉で、高度な数学的手法を用いてさまざまな市場を分析したり、さまざまな金融商品や投資戦略を分析したりすること、または、その分析をする人を指します」 (SMBC日興証券 『初めてでもわかりやすい用語集』より引用)

 なるほどよく判らん。
 ある種のアナリストのようでもありますが、劇中では単に「腕の良いプログラマ」と同義のように扱われておりました(しかもちょっと怪しげな男として描かれている)。
 だが、やっとのことで連絡の付いたクォンツは、自分のアルゴリズムで八億ドルをフイにするなど不可能だと云う。元々、一度にそんな多額の金額を扱うようには出来ていないのだ。必ず人為的な操作が絡んでいる筈である。

 人は自分に理解出来ないシステムの振る舞いを「バグ」の一言で片付けたがる──とは、劇中でクォンツが口にする台詞です(それについては激しく同意したい)。ここから企業の最高経営責任者の不審な行動に焦点が移っていきます。
 株価暴落の日を境に四日間も行方を眩ませていたのは何故か。どこで何をしていたのか。
 劇中では、カトリーナ・バルフが企業側の良心であるように描かれていて、スタジオ内のジュリア・ロバーツと連絡を取り合い、最高経営責任者ドミニク・ウェストの行動を探っていきます。
 その際に役に立つのが、かつての番組製作で知り合った腕利きハッカーの存在。
 劇中で描かれるハッカーが腕利きすぎるのがちょっと御都合主義であるように思われました。もう、ウィザードどころかテンサイ級かヤバイ級のハッカーですよ。
 ヤバイ級ハッカーのワザマエの前には隠し事など出来ないとはいえ、あまりにも短時間に色々と明らかになっていきます。

 そしてドミニク・ウェストが公会堂で記者会見し、潔白を主張するなら我々も行こうじゃないかと、ジョージ・クルーニーとジャック・オコンネルがスタジオを出て行きます。カメラもヤケクソでついて行く。
 この時点で人質の筈のジョージが主導しているのが笑えます。弱気になる犯人を叱咤激励しながら、協力してあげています。
 「不正を暴きたい」と云うか、「ドミニクの云うことを真に受けて、番組中で嘘をついてしまった」ことに一矢報いなければ気が済まないようです。軽薄なトークであったとしても、発言には責任を取りたいと考える当たりに、ジョージの放送に携わる業界人としての矜恃を感じました。

 そして警官隊を引き連れ、人質の振りもしながら公会堂に向かって歩いて行く二人。
 NYの地理に疎いので、放送局の建物と、ウォール街や公会堂──フェデラル・ホール──との位置関係がよく判りませんでした。Googleマップで探すと、フェデラル・ホールはウォール街のすぐ近くにあるのが判ります(ニューヨーク証券取引所もすぐ近くにある)。
 このあたりは判る人が観ればすぐに聖地巡礼できるのでしようか。

 生中継でジョージ・クルーニーがドミニク・ウェストの不正を暴くところが痛快な見せ場になっております。ジュリア・ロバーツのサポートが阿吽の呼吸で入るあたりが見事でした。
 若干、ビターな結末でもありますし、開き直ったドミニクが「手早く儲けてナニが悪い。お前らだって儲けているうちは文句を言わないくせに、損をした途端に騒ぎ立てやがって!」と叫ぶ捨て台詞に風刺的なものも感じます。やはり投資はギャンブルですねえ。
 一件落着後、ジョージとジュリアが並んで腰掛け、さて来週の番組はどうしようかと思い悩むところでエンドです。仕事上の長い付き合いで友人同士という設定が、実際のジョージ・クルーニーとジュリア・ロバーツの関係に重なって見えるのが巧い配役でした。




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2016年6月14日火曜日

ノック・ノック

(Knock Knock)

 「ノックの音がした」と云うのは星新一のショートショートの有名な書き出しですね。同じ書き出しから始まる一五編のショートショートを収録した『ノックの音が』(新潮文庫)は、SF者なら必読書でありましょう(と云うか星新一は全部読め)。
 ノックの音から始まり、予期せぬ出来事に巻き込まれて行く──と云う点では本作もまた然りでありますが……。うん、まぁ、星新一も泉下でたまげるサスペンス・スリラーとなりました。

 監督はイーライ・ロスです。『キャビン・フィーバー』(2003年)に始まり、『ホステル』(2005年)、『ホステル2』(2007年)、『グリーン・インフェルノ』(2013年)と、監督作品がホラー一辺倒であった方が、今回は趣向を変えてサスペンス映画に挑戦です。
 どうしたイーライ、何があったのだ。いつもより血飛沫が足りないどころか、流血シーン自体を封印しているではないか(血が滲む程度の描写しかありません)。これは如何なる心境の変化なのか。

 実は本作はリメイク作品でありまして、オリジナル版はピーター・S・トレイナー監督の『メイク・アップ』(1977年)なのだそうな。近年のビデオリリースで「狂気の3P」なんて副題が付いていますが、最初の副題は「仮面の天使」でした。そっちの方がまだ内容に合っていそうなものですが、単刀直入な副題の方が売れるんですかね(ゲスいなぁ)。
 シーモア・カッセル演じる中年男性が、道に迷った二人の女性──ソンドラ・ロックとコリーン・キャンプ──を家に招き入れてしまったが為に災難に遭うというサスペンス映画でありまして、本作はオリジナルにほぼ忠実に展開していきます。

 妻子不在の嵐の夜に、道に迷った女性二人を家に招き入れたのが運の尽き。誘惑されて一夜の過ちで弱みを握られ、居座られた挙げ句の果てに、人生破滅の散々な目に遭わされる……清々しいまでにそのまんまですね(いや、オリジナル版は記憶に無いのですが)。
 シンプルな筋立てですが、サスペンス描写は丁寧です。最初は女達の控えめな態度が、フレンドリーになり、その内に馴れ馴れしくなり、次第に図々しくなり、じわじわと異常な行動がエスカレートしながら進行していきます。最終的には狂気そのものに。
 一夜限りの火遊びのつもりがそうではなかった、と云うコンセプトがエイドリアン・ライン監督の『危険な情事』(1987年)も彷彿します。
 この手のサスペンスは、男女の関係のみで成立するシチュエーションなので、時代背景はいつでもOKだし、普遍的なストーリーであるとも云えます。
 本作では、スマホで撮った浮気動画をSNSにアップすると云った脅迫手段が使われているあたりがイマドキの作品らしいです。

 シーモア・カッセルに代わって、本作で酷い目に遭う中年男性を演じているのは、キアヌ・リーブスです。まさかイーライ・ロス監督作品にキアヌ・リーブスが出演するとは思いませんでした。いつもの低予算映画じゃ無いと云いたいのか。
 『47RONIN』(2013年)からしばらく出演作を観ておりませんでした──諸般の事情で『ジョン・ウィック』(2014年)もスルーしてしまい(汗)──が、今年は『砂上の法廷』(2016年)と合わせて本作で二作目です。
 実際には本作の方が二〇一五年製作で、『砂上の法廷』よりも先になるのですが、日本公開では前後しております。
 ひと頃は肉の塊になりかけていたこともありましたが、本作の劇中ではキアヌ・リーブスの筋肉も確認できます。今回はマッチョな役ではありませぬが、充分スリムでありましょう。

 共演となるのがイーライの奥さんロレンツァ・イッツォとアナ・デ・アルマス。
 ロレンツァ・イッツォは、イーライの前監督作『グリーン・インフェルノ』にも出演されております。前作では被害者側でしたが、今度は加害者側です。開き直った図太い悪女演技も堂に入っております。しかもエロい。
 相方のアナの方は、ロレンツァに比べると図太さに欠けるものの、こちらは精神的に不安定なところが見受けられるのが別の意味で怖い。エロカワなお姉さんだと思っていたらヤンデレだ。

 序盤に奥さんや可愛い子供たちが登場したり、中盤では仕事上の友人や、近所のおばちゃんなどが登場して単調なストーリーになりそうなところに変化を付けてくれますが、ストーリーは専らキアヌ、ロレンツァ、アナの三人のみで進行していきます。
 実は中盤でちらりと登場する近所のおばちゃん役が、本作の製作にも名を連ねているコリーン・キャンプでありました。オリジナル版でソンドラ・ロックと一緒にシーモア・カッセルを追い詰める悪女の片割れですね。
 しかし、そうだと云われて観ないと同一人物だと判りませんデスよ。うーむ。昔はセクスィーなお姉さんだった……のだよなぁ(人の良さそうなおばちゃんになっちゃってますねぇ)。

 総じて巧く現代のストーリーにリファインされた作品であり、主要登場人物の性格描写もじっくり描かれたサスペンス映画であるとは思います。
 特に平凡な中年男であったキアヌのラストの怒濤のブチ切れ口上が素晴らしい。さすがキアヌ・リーブスを起用しただけのことはありますね。
 でも本当にキアヌが悪女二人にいたぶられて、人生破滅の憂き目に遭うだけで終わってしまうのが驚きでした。ブラック・ユーモア溢れるオチはちょっと笑えますが、急転直下過ぎてフォローなしか。

 二人の女性に一人の男が散々な目に遭わされ、人生を破壊される。何故、自分がそんな目に遭わねばならなかったのか、その理由は最後まで明かされません。そもそも理由なんて無かったのか。
 この不条理なところが怖いのだと云われると、そうかも知れませぬが、脚本にイマイチ釈然としない部分がありまして、イーライ・ロス監督にしては下手を打ってしまったのではないかとの疑念が拭いきれませんデス。

 標的は誰でも良かったのだ──と云うストーリーであれば、納得も出来るのですが、それにしては劇中でロレンツァとアナが終盤になって口にする台詞が引っかかる。
 彼女達は、序盤のシーンの「家族でないと知り得ない会話」──キアヌがおどけて「モンスターだぞおぅ」と子供たちに迫る場面ですね──を知っていたワケで、キアヌが「盗聴していたのかッ」なんて愕然とする場面があります。
 つまり計画的だったのか。最初から標的はキアヌであり、訪問は偶然を装っていただけなのか。それはそれで怖い話ではありますが、これについては一切の伏線がないので唐突感は否めませんです。それに盗聴器の存在はまったく確認されていませんし。

 本当は盗聴器など無く、全ては奥さんの差し金だったのだと云う流れに繋がるのか、とも思われましたが──キアヌが口にしたフレーズを知っていたのは、妻と子供たちだけなので──、それもなし。
 終盤で「己の所行を奥さんに告白しなさい」と命じられ、スマホで通話する場面があります。ここでキアヌは告白することなく、一か八かで「すぐに通報するんだ!」と叫びますが、叫ぶより先に通話は切られてキアヌは万事休す。
 実はここで、奥さんが全ての黒幕であり、助けを求めたが逆に真相が明かされて、助けはどこからも来ないのだと思い知らされる展開になるかと密かに期待したのですが。

 奥さんが無関係であるのは、帰宅したラストシーンでの様子を見ても明らかです。家の中の惨状に目を丸くしていたのは演技では無いのでしょう。
 それに奥さんが黒幕だったなら、そこまでして夫に復讐したくなるような伏線が敷かれているべきなのに、序盤のシーンのどこにもそのようなものは見受けられませんでした。
 実に幸福そうな一家の日常があるだけで、奥さんが不満を抱えていそうな描写もない。
 するとキアヌが標的にされた理由は何だったのか。

 「どんなに叫んでも無駄よ。隣近所が留守なのは予め調べてあるの」なんて台詞もありまして、行きずりの女性達とのトラブルかと思いきや、そうではなかったのだと明かされるわけですが、それにしてはロレンツァ達の行動があまり知能犯のようには見受けられません。
 何しろ、中盤でキアヌを助けようとした友人ルイス(アーロン・バーンズ)を彼女達は殺しているわけですが──本作で只一人、死んでしまう人です──その死体の始末がぞんざいすぎます。いかにもキアヌが殺したかのように擬装したメールをスマホに残す場面もあるにはありますが、素手でべたべた触ったスマホですから、どこまで証拠として採用されるものやら。
 持ち主でもなく、キアヌのものでもない第三者の指紋が付きまくりのスマホでは、キアヌに罪を着せることは難しいでしょう。
 刹那的で享楽的で、度胸がいいだけの、出たとこ勝負のスリルを楽しんでいる犯罪者だった方が怖かったのに。

 何かの理由でキアヌに目を付け、周到に盗聴器を仕掛けてチャンスを窺い、妻子が留守でなおかつ隣近所も留守になる日が到来したときを狙って、計画を実行に移す。それもこれも「もしキアヌが誘惑に負けて自分達に手を出したら、その人生を破壊するため」に。
 そこまでしてキアヌが怨まれる理由が判りませんです。それが「誰でも良かった」と云うのなら、あまり現実的なストーリーではありませんですねえ。
 それに終盤の「どの男たちも私たちを拒まなかった」と云うロレンツァの台詞から察するに、これまで何人もの男性が同様の犠牲になってきたと判るのですが、標的一人をハメるのにどれほどの手間暇がかかるのか考えただけで、周到な犯罪計画だったとするのは現実的ではない。

 全てが現実ではなかったと云う解釈もあり得る、とは監督自身が語った雑誌のインタビュー記事に書かれておりましたが、これもまた如何なものか。
 人間誰しも、それまで積み上げてきたものを何もかもブチ壊したくなる衝動に駆られることがある、と云う主張は判ります。でも本作の出来事が、すべてキアヌの妄想だったとするのは無理があるのでは。そんな伏線はどこにも無かったし(伏線、伏線とうるさいデスカ?)。

 実はロレンツァ達はキアヌの脳内妄想の産物で、すべてはキアヌの自作自演に過ぎなかったのだ──とは、イーライ・ロス作品にしてはエラくまた大胆な解釈ですね。
 いや、でもそれだとSNSにアップされ、絶賛炎上を博した「キアヌのハメ撮り動画」の説明が付きませんですよ。非実在少女との淫行では炎上する以前に撮影できないし。
 それにロレンツァの姿は、一度は近所のおばちゃんに目撃されているわけで、それすらも妄想だとするには無理がある。
 何もかも妄想だったとする場合は、ラストシーンでは「驚愕の真相」がフラッシュバックする演出が欲しいところですが、それもなし。

 行きずりの偶然による災難だったのか、周到な犯罪計画だったのか、それとも全ては妄想だったのか。どの案を採用しても、どこかに納得できない描写があって、釈然といたしませんデス。
 何とも不条理なサスペンス・スリラー映画です。
 一番、納得できる解釈は「脚本に穴が開いていることに気付かなかった」か、「イーライ・ロスの痛恨の演出ミスである」の二つの一つと云うことになるワケですが、まさかそんな。俺たちのイーライがそんなヘマをしでかすワケないじゃないか。
 ちょっとドンデン返し的な台詞を入れて観客を驚かせてやろうとしたら辻褄が合わなくなってしまった……なんて信じたくないデス。

 いやいや。どこかにきっと納得できる解釈があるに違いない。ええとええと……。
 とにかくどこかにあるのだ。それはきっと本作がDVD化された暁に、自宅で何度も観返すうちに発見できる類のもの……だったらいいなあ。或いは監督のオーディオ・コメンタリーを聞かないと判らないのかも。
 やはり初めてのサスペンス映画だからちょっと失敗してしまったのでしょうか。あるいはオリジナル版に忠実であろうとするあまり、あえて矛盾を残したのか(いや、オリジナル版を観ていないので勝手に推測しているだけですけど)。そうだとしても、そこまで真似る必要は無いと思いマス。
 終盤に至るまでの演出が割とそつなくこなせていただけに惜しいです。

 ところでイーライ・ロス監督には、早いところ『グラインドハウス』(2007年)のフェイク予告編の一篇、『感謝祭』を実現化してもらいたいです。それと『グリーン・インフェルノ』の続編もお願いします。やっぱりイーライにはホラーの方が合っているのでは。




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2016年6月11日土曜日

シークレット・アイズ

(Secret in Their Eyes)

 フアン・ホセ・カンパネラ監督によるアルゼンチン製サスペンス映画『瞳の奥の秘密』(2009年)のハリウッド・リメイク作品です。同作はアカデミー賞外国語映画賞(第82回・2010年)を受賞しております。
 あの年のアカデミー賞はキャサリン・ビグロー監督の『ハート・ロッカー』が最多受賞作品で話題を掠っておりましたですね。他にはジェームズ・キャメロン監督の『アバター』もありました。
 カンパネラ監督が受賞スピーチで「『アバター』が外国語映画に入っていなくて本当に良かった」なんて冗談を飛ばしていたことを思い出します。

 あれから六年経って、『瞳の奥の秘密』が本作『シークレット・アイズ』としてリメイクされたわけですが、たまたま私、『瞳の奥の秘密』も観ておりまして、アレがどうのようにリメイクされたのか気になって観に行った次第デス。
 かなり換骨奪胎された感がありますが、背景をアルゼンチンからアメリカに移し替え、不自然にならないように配慮した結果だろうと思われます。これはこれで巧い移植の仕方ですね。
 オリジナル版のカンパネラ監督は本作の製作総指揮を務めています。

 代わって監督を務めているのがビリー・レイ。『ニュースの天才』(2003年)、『アメリカを売った男』(2007年)に続いて本作で監督作品が三作目になる方ですが、脚本家としてのクレジットされる作品の方が馴染み深いです。
 近年の脚本では『フライトプラン』(2005年)とか、『消されたヘッドライン』(2009年)、『ハンガー・ゲーム』(2012年)、『キャプテン・フィリップス』(2013年)と、なんかサスペンス映画が多いです。割と社会派寄りであるのも特徴でしょうか。
 本作でも、事件の背後に社会情勢や政治情勢が色濃く影を落としているように描かれています。自分で脚本も書いておられるので、余計にそうなるのか。

 その意味では本作がビリー・レイ監督・脚本であるのは正解であると申せましょう。
 オリジナルのアルゼンチン映画の筋立てをアメリカに持ってくるに当たり、脚本にかなり変更が加えられておりますが、それもやむを得ませんですね。アルゼンチンとアメリカでは歴史も風土も異なりますから。そのまま移植は出来ませんデスね。
 革命やらクーデターが繰り返されたアルゼンチンの世相を反映した描写をそのままアメリカに持って来るのは難しいでしょう。

 オリジナル版では、ビデラ将軍による軍事クーデター(1976年)前の一九七四年のブエノスアイレスで起きたとあるレイプ殺人事件の捜査と、四半世紀が経過し民政移管された一九九九年になってからの事件の顛末を交互に描く構成のミステリ・サスペンス映画でありました。
 社会的な背景として、犯人逮捕後に軍事政権が発足してしまい、せっかく逮捕した犯人が恩赦を受けて釈放されてしまうと云う流れが、いかにも動乱の時代を背景にしたミステリ・サスペンスらしかったです。何となく松本清張の推理小説のような感じがします。
 そして、現在と過去の間に経過した二五年という歳月が重たくのしかかってくる結末が、実にやりきれない苦い結末でありました。

 さて、この背景をアメリカに持ってくるのに選ばれたのが、二〇〇二年のLAであるのが興味深い。巧い時代背景であると感心しました。
 二〇〇一年の911同時多発テロから数ヶ月後。アメリカは対テロ捜査に血道を上げ、街角には防犯カメラを設置しまくり、主な政府機関の建物の前には迷彩服を着て武装した兵士が厳重に警戒している様子が背景に描かれております。セキュリティのチェックも実に厳しい。
 警察もFBIも、対テロ捜査であれば多少の人権無視も差し支え無し。「ビンラディン」と「フセイン」と「炭疽菌」に人々がビクビクしていた頃です。
 特に理由が無くてもイスラム教のモスクは監視対象とされ、イスラム系の皆さんが肩身を狭くしていた頃のストーリーとなりました。

 社会が重苦しい雰囲気に包まれていた頃、という条件が見事に再現されております。しかしその所為で、二五年という歳月を隔てることが出来なくなったのがちょっと辛いですね。
 本作の製作が二〇一五年なので、近未来を舞台にでもしない限り、それは出来ない。頑張っても一三年しか経過させられない。
 したがいまして本作では、二〇〇二年のLAで発生したレイプ殺人事件の捜査と、一三年が経過してからの顛末が描かれるという展開になりました。まぁ、一三年でも長いことは長いですけど、二五年の半分か。

 オリジナル版より時間経過が短いので、真相が判明してからのインパクトが若干軽いような気もしますが、それは詳細に比較しようとするからであって、御存知ない方が観ればそれなりに身の毛がよだつのではないか。
 逆にこの設定が良い方向に作用している面もあります。一三年程度の時間経過だと、出演している女優の皆さんにキツい老けメイクは不要であるのが有り難い。
 特に主要な配役がニコール・キッドマンとジュリア・ロバーツですので尚更か。

 もう一人、キウェテル・イジョフォーも出演しております。『それでも夜は明ける』(2013年)でアカデミー主演男優賞を受賞しておりますね。最近では『オデッセイ』(2015年)でNASAの火星探査統括責任者を演じておりました。
 ニコール・キッドマンとジュリア・ロバーツもアカデミー主演女優賞を獲った経歴の持ち主ですし、本作は主要な配役がオスカー俳優で固められた豪華な配役です。

 以下、共演がアルフレッド・モリーナ、マイケル・ケリー、ディーン・ノリスといった味わい深い中年の皆さん。ぶっちゃけニコール・キッドマンとジュリア・ロバーツ以外は野郎ばかりの映画でありますから、何気にオヤジ度の高い映画でもあります。
 何とかオヤジ度を下げようと、レイプ殺人の被害者役にゾーイ・グラハムを配しております。『6才のボクが、大人になるまで。』(2014年)では成長した主人公の恋人役として登場しておりましたね。
 本作ではゾーイはいきなり死体として登場しますが、ジュリア・ロバーツの愛娘という設定ですので、捜査の合間にもジュリアの回想シーンで生前の様子が何度か挿入されております。

 そして印象的なのが、容疑者役としてジョー・コールというイギリスの若手俳優が起用されていることでしょうか。若いのになかなかの存在感を放っております。
 線が細く、長髪で神経質な感じ。本作では更に陰湿で病的なオーラを放っているのが薄気味悪いですが忘れ難い。色々と出演作もあるそうですが、日本未公開が多いようです。

 まずは冒頭、キウェテル・イジョフォーが犯罪者リストらしいものをパソコン画面で閲覧している場面から始まります。膨大な量の顔写真を次から次へ映しながら、誰かを探している。
 流れていく顔写真の合間に、何やら忌まわしい記憶のようなものがチラチラとフラッシュバックしております。ある時点で、遂に目当ての人物を見つけたらしい。
 そしておもむろに資料をまとめてニコール・キッドマンの元を訪れる。劇中の台詞で、これが一三年ぶりの再会であること、ニコール・キッドマンは検事補から出世して検事となっていること、それに反して自分はFBIを辞職して民間の警備会社に転職してしまっていることなどが語られております。

 全ては未解決のまま迷宮入りしてしまった一三年前の事件が原因であるようですが、キウェテル・イジョフォーは執念で容疑者を特定したようです。殺人事件の容疑者ならば、他にも何か余罪がある可能性がある。既に別の犯罪で逮捕され収監されているかも知れない。
 そして六九万六千人分の受刑者の画像を、毎日毎日見ていき、一三年掛かってやっと見つけたのだと説明しております。なにその根気強さ。執念か。
 再捜査を提案しますが、キウェテルの見つけたと云う容疑者が一三年前の事件の容疑者と同一人物なのか、にわかに判定できず躊躇うニコール。
 顔写真を比較してもビミョーに差異があるので、他人の空似である可能性も捨てきれない。

 そして回想を交え、一三年前と現在のドラマが並行して進んでいくと云う趣向です。時系列が行ったり来たりするので、ちょっと判り辛いところもあります。登場人物があまり老けていない所為もありますし。
 一三年前、キウェテルはFBIから派遣された捜査官として、LA警察と合同で対テロ捜査に従事していた。ニコール・キッドマンは新米の検事補、捜査班の同僚にジュリア・ロバーツやディーン・ノリスがおり、アルフレッド・モリーナが上司として捜査の指揮を執っています。
 とあるモスクの内偵を進めているところで、モスクに隣接する区画のゴミ置き場からレイプ殺人の被害者と思われる若い女性の遺体が発見されたと一報が入る。
 駆けつけてみると、それは同僚であるジュリア・ロバーツの一人娘ゾーイ・グラハムだった。

 このあたりの人間関係がオリジナル版よりも整理されて判り易くなっています。特に被害者遺族が同僚であり、自分も被害者とは面識があったという点で──同僚の家族ですし──、かなり感情移入度が高くなっています。その分、あまり冷静ではいられませぬが。
 執念で容疑者を特定するのも主人公自身となりました。リメイクに際して人間関係の整理のされ方が巧いです。登場人物を減らしながら、ストーリーの展開には不足無し。
 ハリウッド作品はリメイクやら続編ばかりでオリジナリティが無いとも批判されますが、改良を加えながら上手にリメイクするテクニックは見事ですね。

 上司のアルフレッド・モリーナは対テロ捜査に専念しろと云うが、現場が内定対象のモスクに隣接しているので、ひょっとしたらモスクの関係者と関わりがあるかも知れない──などとコジツケながら捜査を進めていくキウェテルです。
 手掛かりはジュリア・ロバーツの家で見つけた一枚の写真。職場の同僚同士でピクニックに出かけた際の記念写真であるが、ゾーイもこれに同行しており、同時にゾーイを見つめる謎の男──これがジョー・コール──も映っていた。男の視線に不審なものを感じるが、職場の誰に訊いても、この男が何者なのか知らないという。
 何故、誰も知らない人物が、さも関係者であるようにピクニックに参加していたのか。

 色々ありまして、謎の男は対テロ捜査班で使っている情報提供者であることが判ります。内偵を進めているモスクに出入りしては捜査員に内部の様子を報告しているので、捜査員の一人が職場のピクニックにも招待していたのだった。
 しかし殺人事件の容疑者として逮捕されると、対テロ捜査が行き詰まる。そこで捜査班が組織ぐるみで庇っていたのだった。
 劇中ではアルフレッド・モリーナが繰り返すフレーズ──「対テロ捜査が全てに優先する」──が印象的です。如何に当時のアメリカ人が「第二の911」を怖れていたのかが伺えます。

 それでも容疑者ジョー・コールの身辺調査を止めないキウェテル・イジョフォーとディーン・ノリスのコンビですが、出てくる証拠は怪しいものばかり。もう犯人だろ、こいつ。
 過去と現在が並行して進んでいくドラマなので、容疑者は一度逮捕されても保釈されてしまうのが判っておりますが、それはそれでどのようにして逃げおおせてしまうのかが興味深い。
 本作では主人公の恋愛感情で失敗してしまう流れです。有名女優を二人も配しながら、ラブストーリーになりそうでならないところが渋いですね(あまりハリウッドらしくないか)。

 同時に現在の時系列でも、再びコンビを組んだキウェテル・イジョフォーとディーン・ノリスがもう一度、容疑者の行方を追う展開となり、これが巧く過去とオーバーラップしております。
 相棒のディーン・ノリスが一三年前は五体満足なのに、現在では杖をつきながら足を引きずっているのも意味ありげですねえ。案の定、過去のある時点で負傷してしまうのですが。
 オリジナル版では容疑者逮捕の緊迫した場面が、アルゼンチンらしくサッカー・スタジアムの雑踏で繰り広げられる追跡劇として描かれておりましたが、本作ではサッカーが野球に置き換えられて、ドジャーズ・スタジアムになっているのもお国柄を感じます。
 スタジアムを空撮で映しながら観客席まで一気に寄っていく映像がなかなか印象的ですが、こういうのはドローンを使って撮影しているのでしょうねえ。最近はドローンによる空撮映像らしい場面をよく見かけるようになりました。

 色々とシチュエーションが変わっていますが、ドラマの肝の部分はオリジナル版と同じです。本作に於いては、ジュリア・ロバーツの主張に集約されています。
 劇中では死刑制度が否定されていますが、別に慈悲があるわけではありません。
 愛する者を奪われた遺族は残りの年月を、空虚を抱えたまま生きていかねばならないのに、何故、死刑を執行して楽にしてやらねばならないのか。犯人には出来るだけ虚しい人生を遺族と同様に長く過ごしてもらいたい。
 してみると、最も残酷な刑罰は死刑では無く、終身刑か。中でも、存在そのものを否定され、他人から無視されながら生かされるのが一番空虚で一番残酷か。

 そして本当に執念を燃やし続けていたのはキウェテル・イジョフォーではなく、ジュリア・ロバーツの方だったと判るところが怖い。オリジナル版の半分の年月ですが、そこはジュリア・ロバーツの演技でカバーしております。
 でもアルゼンチンならともかく、現代アメリカのLA郊外で同じ事が出来ると云うのはチト疑問です。ええ、まぁ、『ルーム』(2015年)なんて映画もありましたけど。

 ただ、他人に終身刑を科すとき、それは自分にも同じ刑を執行しているのだという主張は、本作の方が強く伝わったような気がしました。復讐とは根気の要る作業です。
 でも、それならそうと先に云っておいてくれれば、キウェテル・イジョフォーも一三年を棒に振らずに済んだのではないかと思わないでもないデス(云えるわけないか)。
 ほんの少し、オリジナル版よりも救いが感じられるラストではありましたが、失った年月を思えばあまり楽になったとも云えませんかねえ。




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2015年6月7日日曜日

誘拐の掟

(A Walk Among the Tombstones)

 ローレンス・ブロックによるミステリ小説の映画化です。〈酔いどれ探偵マット・スカダー〉シリーズの久々の映画化ですね。
 かつて一度だけ、シリーズ五作目の『八百万の死にざま』が『800万の死にざま』(1986年)として映画化されたのを憶えております。あの時のスカダー役はジェフ・ブリッジスでした。公開時にスルーして、後日ビデオをレンタルして観たのですが、アレはイマイチ(タイトルはカッコ良かったのに)。
 『800万の死にざま』は、監督が『夜の大捜査線』(1967年)のハル・アシュビーで、オリバー・ストーンの脚色だったのですが。
 本作に於いて、マット・スカダーを演じているのはリーアム・ニーソンです。

 もう〈マット・スカダー〉シリーズはリーアム・ニーソン主演で固定にしてもらえないものでしょうか。出来れば本作のスコット・フランク監督とセットで『八百万の死にざま』もリメイクして戴きたい。
 スコット・フランク監督は、本作で監督二作目になる監督ですね。元は脚本家でありまして、「ハリウッドで最高の脚本家のひとり」とも賞されたことのある方です。勿論、本作の脚本もフランク監督自身。
 監督の経歴を眺めると、脚本を書いた作品には『マイノリティ・リポート』(2002年)とか、『フライト・オブ・フェニックス』(2004年)とか、『ザ・インタープリター』(2005年)とか、見知ったものが多いです。『ウルヴァリン : SAMURAI』(2013年)もこの方の脚本でした。

 それにしても今年はリーアム・ニーソン主演のミステリ&アクション映画を多く観ております。
 『96時間/レクイエム』(2014年)に、『ラン・オールナイト』(2015年)と来て、今年だけで三本。その前には『フライト・ゲーム』(2014年)もありましたし、もうめっきりミステリ&アクションが板に付いておりますね。
 本作は制作順だと『ラン・オールナイト』の前なのに、公開は後になってしまいました(ほぼ同時か)。
 近年のリーアム・ニーソン主演映画は皆、外れなしの感がありますが、中でも本作が出色でしょうか(『ラン・オールナイト』も良かったけど)。やっぱり脚本がいいからか(原作もな)。

 本作は〈マット・スカダー〉シリーズの一〇作目である『獣たちの墓』の映画化になります。原作小説の翻訳が先に出ているのに(二見文庫)、なんでまた『誘拐の掟』なんて邦題になってしまったのか。
 確かに、誘拐事件の解決が主に描かれるストーリーですが、別に誘拐犯達が何かの思想信条を守っているなんてストーリーではありません(一応、誘拐犯の犯行にはパターンがありますが)。
 きっと配給会社の担当者が望月三起也の『ワイルド7』のファンだったのでしょう。イマドキ『誘拐の掟』で『ワイルド7』とか云ってると歳がバレますか。

 本作は〈マット・スカダー〉シリーズの中でも、第八作『墓場への切符』、第九作『倒錯の舞踏』に続くもので、三作併せて「倒錯三部作」と呼ばれているそうな。シリーズの中でも猟奇的な犯罪が描かれているからか(三部作ですがストーリーに関連性はありません)。
 出来たら前二作も併せてリーアム・ニーソン主演で観てみたいものです。あるいは『八百万の死にざま』と同じくPWA(アメリカ私立探偵作家クラブ)賞の最優秀長篇賞に輝く『死者との誓い』でもイイです。

 でも実は私、本作を観るまでこれが〈マット・スカダー〉シリーズの映画化であるとは存じませんでした。確かにローレンス・ブロック原作であるとは紹介されていましたが、ローレンス・ブロックは他にも〈泥棒バーニイ〉シリーズとか、〈殺し屋ケラー〉シリーズとか、色々書いてますからね。単発の短編も多いし。
 『マイ・ブルーベリー・ナイツ』(2007年)では、ウォン・カーウァイ監督と一緒に共同脚本も書いているので、過去の小説ではなくてローレンス・ブロックのオリジナル脚本かとも思っておりました。
 だから冒頭で「酔っ払ったリーアム」が登場したときも、『ラン・オールナイト』に続いてまた酔っぱらいのオヤジ役かとは思ったものの、よもやコレが「マット・スカダー」であるとは思い至りませんでした。
 まぁ、すぐにバーに入って、店主から名前を呼ばれるシーンになるので気がつきますが。

 共演は、ダン・スティーヴンス、ボイド・ホルブルック、デヴィッド・ハーバー、セバスチャン・ロッシェといった方々ですが、馴染みのない方が多いです。皆さん色々な作品にバイプレーヤーとして出演しておられるのですが。
 ただ一人、見覚えがあったのがボイド・ホルブルック。と云うか、つい最近もリーアム・ニーソンと一緒の映画に出ておりましたよ。『ラン・オールナイト』では、悪逆の限りを尽くしてリーアムに射殺されちゃうエド・ハリスの息子の役でした。
 今回は事件の依頼人の役でしたので死なないか、と思ってたら……。うーむ。

 シリーズものの映画化ではありますが、本作だけ観てもまったく差し支えはございません。それどころか、そもそもスカダーが「酔いどれ探偵」になる馴れ初めの事件の経緯まで描いてくれるという親切な演出です。
 まぁ、マット・スカダーを「酔いどれ探偵」と呼んでいいのはシリーズの前半までで、自分がアル中であると認識した『八百万の死にざま』以降は「禁酒探偵」となり本作に至りますので、リーアム・ニーソンも回想シーンでは自堕落な酔っぱらいですが、それ以外ではアルコール依存症を脱して自分を律する男として登場します。
 また、事件の捜査と並行して、依存症克服のグループ・セラピーに出席している場面も何度か挿入され、まだ完全に立ち直ってはいない様子も描かれています。

 それから、スカダーの相棒となるTJ少年との出会いも併せて描かれていて、本作一本で一通りまとまっている仕様になっております。原作小説では別々の作品で描かれている様々な場面を、ストーリーに巧く組み込んで設定紹介にしていますね。脚本が巧いと全く不自然に感じられないのが見事です。
 でも代わりに恋人エレインの存在が削られてしまい、本作ではスカダーとTJ少年しか登場しません。そこは仕方ないか。
 アナクロなオヤジ探偵に、ハイテク面をサポートする少年のコンビがイイ感じです。でも、TJ少年もあまり出番が多くならないように配慮されていて、リーアム・ニーソンの単独捜査がメインです。

 さて、アバンタイトル部分でスカダーのトラウマになる過去(1991年)──酒場強盗との銃撃戦──を描いたあと、おもむろに舞台は八年後のニューヨーク(1999年)となります。
 巷で「二〇〇〇年問題」が話題にされていたりするあたり、ちょっと笑ってしまいますね。リーアム・ニーソンも「年が明ければ文明が崩壊するから、先の事なんて心配しても無駄さ」なんて嘯いております。
 アバンタイトル部分では髭を生やした酔っぱらいでしたが、八年後には髭を剃ってこざっぱりしています(それに素面だ)。それだけで過去より現在の方が好感の持てる人物になって見えます。
 既に警察を辞職しており、フリーの探偵稼業の身ですが、許可証がないモグリの営業です。
 あるとき、断酒会での知り合いに「弟を助けてくれ」と頼まれて断り切れず、とりあえず「話だけでも」と引っ張り出されて、そのまま事件に巻き込まれていく流れです。

 知り合いの弟は表向きはビジネスマンのようですが、裏の稼業はドラッグのディーラー。稼ぎが良くて良い暮らしなのも裏稼業のお陰のようですが、そこを悪党につけ込まれたのか、奥さんが誘拐されてしまう。
 その上、四〇万ドルもの身代金は支払ったのに妻は戻らず、惨殺されて発見されたのだった。
 回想シーンで顛末が描写されますが、奥さんの死体を発見する場面が実にエグいです。車のトランクの中に閉じ込めていると告げられ、開けてみると奥さんの姿は無く、麻薬を小分けに詰めたような袋がトランクにぎっしりと並んでいる。

 洋画でよくある場面ですが、ナイフで袋のひとつを刺して中身を確認しようとすると、白い粉では無く、赤い液体が漏れ出す。えー、つまり奥さんはバラバラにされて、麻薬の袋に小分けにされて詰め込まれていたと云うわけで、犯人の猟奇性が伝わりますね。
 惨殺死体を映すことなく、あまりにも残酷な所行が暗示される演出が巧いです。
 だから依頼の内容も「犯人を捕まえて、連れてきてくれ」となる。復讐の手伝いなら断ると云いつつも、その残酷な手口に断り切れず捜査を開始するニーソンです。

 ここから始まるリーアム・ニーソンの捜査が、なかなか地道な上に真っ当で、真面目なミステリーと云う趣です(そりゃ原作がそうだから)。アクション主体のサスペンス映画とは一線を画しております。
 現場周辺での聞き込みや、類似の事件の記録を当たるなどの活動が渋いです。その過程で、身寄り無いTJ少年とも出会います。
 更に、過去にもあった類似する猟奇殺人の記録から、その現場や関係者にも捜査の輪を広げていきつつ、共通する事項を見つけ出していく。
 実に地に足の付いた捜査活動です。まったく飛躍せずに探偵活動が丁寧に描写されていく演出が巧い。渋いハードボイルドですね。背景に描かれるニューヨークの景観も、色彩を押さえた陰鬱な雰囲気であるのがいい感じデス。

 しかしハードボイルド描写はあまり細かい説明をしないので、関係者への聞き込みの過程で、怪しいと目星を付けた奴が、何故怪しかったのかの説明が足りないような気がしました。ニーソン的には、自分の質問に対してあからさまに不自然な回答をしたので目を付けたのだと話していましたが、観ている側としては、先刻の会話のどこにそんな不自然な要素があったのか判りませんデス。
 ベテランの直感と云うのは凄いなぁと、ここは感心するべきなのでしょうか。

 本作は渋いハードボイルドなので、カーチェイスや爆発なんて派手な場面はありません。一応、クライマックス近くで銃撃戦があるにはありますが、アクション・シーンよりもサスペンス描写に重きが置かれています。
 そして本格ミステリでは無いので、誘拐犯も中盤から堂々と顔見せしてストーリーに絡んできます。犯人当てのストーリーではない。この辺りはヒッチコック的な王道サスペンス展開。
 リーアム・ニーソンの捜査活動と並行して、猟奇誘拐犯達が次なる獲物を求めて犠牲者を物色していく過程もスリリングに描かれていきます。

 誘拐の被害に遭う人達の共通点が、麻薬売買に関係した犯罪者であるのでうかつに警察に頼れないところにフリーの探偵が活躍できる余地があるのが巧いです。同時に、誘拐犯らしい怪しい奴等がいる……と思ったら、実は当局の麻薬捜査班だったというミスリードも巧みに使われております。
 しかし例え犯罪者でも家族を養い、妻子を愛するところは普通の人と変わらない──と云うところで、この捜査を最後まで続けて良いものか迷うニーソンの元に、次なる誘拐事件が発生したとの報せが入る。成り行きから誘拐犯とのネゴシエーションを務めることになるニーソンです。

 最大の山場は身代金と人質交換の場面ですが、ここから更に二転、三転とストーリーが続いていくのがスリリングです。人質の救出だけで終わらず、そこから誘拐犯のアジトを突き止め、再び対決するところまでが描かれていきます。
 終わりそうなのになかなか終わらないのがもどかしいですが、緊張を維持したままドラマを引っ張る演出はお見事でした。
 万事メデタシとは云えず、少々ビターな結末になってしまいますが、なんとか事件は解決し、疲れた身体を引き摺って帰還するニーソン。ラストにほんの少しだけ希望の光が見えるのも、ハードボイルドとしては充分な結末であると申せましょう。
 本作は、あまりにもリーアム・ニーソンがハマりすぎで、これ一作で終わりにしてしまうのが勿体ないです。シリーズ化を是非。




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2015年3月19日木曜日

イミテーション・ゲーム
/エニグマと天才数学者の秘密

(The Imitation Game)

 第二次世界大戦時、解読不可能と謳われたドイツの暗号〈エニグマ〉を解き明かした天才数学者アラン・チューリングを描いた伝記ドラマです。コンピューターの基礎となったチューリング・マシーンを考案し、「人工知能の父」とも呼ばれた科学者ですねえ。
 人工知能が自我を獲得しているか否かを判定するテストを考案した人でもありますし、「チューリング・テスト」の名はSF者には馴染み深いデス。
 コンピュータ業界の栄えある賞の名も「チューリング賞」ですし。
 その一方で、同性愛者であったことが災いし、華々しい業績を上げたにもかかわらず、その晩年はあまりにも不遇であったという悲劇の人でもあります。

 そのアラン・チューリング博士を演じるのが、ベネディクト・カンバーバッチ。監督はノルウェー出身のモルテン・ティルドゥムです。
 ベネディクト・カンバーバッチは売れまくっておりますね。『戦火の馬』(2011年)や『裏切りのサーカス』(同年)にも出演していますが、SF者としては『スター・トレック/イントゥ・ダークネス』(2013年)の宇宙の帝王がいい。TVシリーズの『SHERLOCK(シャーロック)』のホームズ役でも有名です。
 個人的には『8月の家族たち』(2013年)の弱々しい草食系男子の役が意外性があって印象深いですが、本作でも若干、そのケが残っております(ゲイであることを隠している役ですから)。

 一方、監督のモルテン・ティルドゥムと云えば、あの『ヘッドハンター』(2011年)の監督です。もうそれだけで本作の品質は個人的に太鼓判を押されたも同然。
 『ヘッドハンター』はノルウェー映画でしたが、本作は初の英語作品であるそうな(英米合作)。この先、どんどんメジャーになって戴きたい監督さんであります。

 当然、この監督にして、この主演俳優を起用し、アカデミー賞にノミネートされないわけが無い。
 今年(2015年・第87回)のアカデミー賞では八部門にノミネートされ(作品賞、監督賞、主演男優賞、助演女優賞、脚色賞、編集賞、作曲賞、美術賞)、とりあえず脚色賞だけは受賞しておりますが、他は全部逸してしまっているのが何とも残念デス。
 まぁ、作品賞も監督賞も、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』に掠われてしまいましたし、主演男優賞も『博士と彼女のセオリー』のエディ・レッドメインでしたからね。

 個人的には、アラン・チューリング博士の伝記映画と、スティーヴン・ホーキング博士の伝記映画の両方がどちらもアカデミー賞にノミネートされ(学者対決かあ)、しかもノミネートがかなりの部門で重複していたので、ちょっと気になっておりました。でも肝心の主演男優賞対決ではホーキング博士の方に軍配が上がってしまったのに、釈然としないものを感じますデス。どちらも甲乙付け難いし。
 どうせなら双方共に受賞を逸して、『バードマン~』のマイケル・キートンが受賞するのが、個人的にはスッキリする結果でしたのですが……。

 それはそれとして、ベネディクト・カンバーバッチ演じるアラン・チューリング博士の人物像には、最初は面食らいました。名前と業績と同性愛者であったことなどは存じておりましたが、まさかあそこまで変人であったとは意表を突かれました。
 その上、かなり傲慢です。自分の能力に絶対の自信を持ち、「エニグマを解読できるのは自分だけだ」などと豪語しております。
 とは云え、いくらコンピュータと縁の深い人物であるからといって、まるで自身がコンピュータであるかのような四角四面の人物に描くのは如何なものか──と思っていましたが、実際のチューリング博士はアスペルガー症候群でもあったらしいです。

 劇中の暗号解読チーム内で発揮する、まったく空気を読まないところなんかは、まさにそれか。してみると、コミュニケーション能力に欠けていたり、暗号解読機の設計に並々ならぬ集中力とコダワリを発揮するといった描写は、かなり正確な人物描写だったのでしょうか。
 本作はアンドルー・ホッジスによるチューリング博士の伝記『エニグマ アラン・チューリング伝』(勁草書房)を基にした正統なもののようです。

 伝記を基にしているので、本作は〈エニグマ〉解読ばかりではなく、チューリング博士の少年時代や、戦後の境遇などについても描かれております。
 そもそもドラマは冒頭からして、一九五二年のマンチェスターから始まります。自宅に泥棒が入ったとの通報を受けて警察がやって来ますが、何やら怪しい素振りに通報した博士自身が取り調べを受ける羽目になる。
 そして事情聴取の過程で、戦時中へ時間が遡って本筋が語られていくと云う趣向。
 更にまた少年時代にまで遡り、数学を志した動機や、同性愛に目覚めた顛末なども語られ、三つの時代を行きつ戻りつしながらドラマは進行していきます。

 その他の出演は、キーラ・ナイトレイ、マシュー・グッド、マーク・ストロング、チャールズ・ダンスといった皆さんです。英国の俳優さんが多いですね。大戦中の英国が舞台のストーリーですし、当然か。
 本作では、チャールズ・ダンスが〈エニグマ〉解読チームを組織するデニストン中佐役、キーラ・ナイトレイとマシュー・グッドがその解読チームのメンバー、マーク・ストロングは英国諜報部員スチュワート・メンジーズの役でした。

 暗号解読チームの紅一点がキーラ・ナイトレイである他は、主な配役は野郎ばかりの渋い映画であるのも個人的には好みです。
 チャールズ・ダンスは『ドラキュラ ZERO』(2014年)のマスター・ヴァンパイア役で憶えておりますし、マシュー・グッドも『イノセント・ガーデン』(2012年)のサイコな殺人鬼が忘れ難い。マーク・ストロングは色々ありすぎですが、近いところでは『記憶探偵と鍵のかかった少女』(2013年)の探偵役がありますね。
 実話に基づくストーリーですので皆さん実在の人物ですが、若干の脚色も施されておるようです。

 中でもスチュワート・メンジーズ役のマーク・ストロングがかなり脚色されているらしい。実話を判り易く整理する過程で、色々な役割を果たした人達を一人の人物に圧縮して体現しているようです。
 劇中でもマーク・ストロングは「絵に描いたような諜報部員」でしたからね。何となく見た目からして、かつてのショーン・コネリーぽい格好ですし、やっぱり英国諜報部員と云えばジェームズ・ボンドなんですかねえ。
 他にも、実際の〈エニグマ〉解読に関しては、イギリスでの解読作業以前に、ポーランドでの関係者達の尽力が大きな助けになっていたそうですが、本作ではそのあたりは省略されてしまっております。

 さて、解読不能の暗号〈エニグマ〉を扱った映画と云えば、他にもありましたね。
 ジョナサン・モストウ監督の『U-571』(2000年)と、マイケル・アプテッド監督の『エニグマ』(2001年)が有名でしょうか。前者はマシュー・マコノヒーや、ビル・パクストン、ハーヴェイ・カイテルといった男臭い俳優がそろった潜水艦ものの戦争映画で、後者はミック・ジャガーが製作したことで話題になったサスペンス映画の趣でした(ケイト・ウィンスレットも出演してましたし)。
 ドイツ軍の潜水艦からエニグマ暗号機を奪取してくるストーリーと、暗号解読チームの中の裏切り者を探すストーリーでしたっけ。

 ともあれ、多分本作が一番史実に近い出来なのではないでしょうか(エニグマ絡みのドラマは他にも色々とありますが、とても全てはカバー出来ませんデス)。
 チューリング博士の生涯についても、本作以前に戯曲『ブレイキング・ザ・コード』があって、後にTVドラマ化もされたそうですが、そちらは未見デス。舞台版、TV版共にチューリング博士役はデレク・ジャコビが演じていたそうなので、一度観てみたいものです。

 本作は、アラン・チューリング博士の為人を描くことにかけてはかなり力を入れていますし、暗号解読そのものを描いているところも興味深い。
 中でも劇中で制作される暗号解読機の威容が圧巻です。まさに「チューリング・マシーン」と呼びたくなる代物です。無数のギアが複雑に絡み合ったコンピュータの御先祖様ですが、これがガシャコンガシャコンと幾つもの円盤を回転させて演算を実行していく様子が素晴らしいデス。SF者はこういう描写に燃える(スチームパンクぽいテイストも感じます)。
 「マシーンに対抗できるのは、別のマシーンだけだ」なんて台詞も、ちょっと熱いですね(何となく日本のアニメでよく聞く台詞のような)。
 でも実際の暗号解読機は、見た目がもう少し地味だったとか、一台だけではなく何台も制作されたとか、まぁ色々と脚色されている部分はあるようです。

 他にも劇中では、当時の記録映像が何度も使用されているところが印象的でした。ロンドン空襲の様子や、四連装主砲の英戦艦や、Uボートなどの映像がリアルです。
 そして空襲後の瓦礫が散乱するロンドン市街のセットも生々しい。美術がいい仕事しています。さすがアカデミー賞にノミネートされるだけのことはある。
 早く暗号を解読しないと、損害は広がる一方であると云うプレッシャーにも繋がる演出でした。

 ところが首尾良く〈エニグマ〉を解読できても、そこでドラマは終わりません。解読不可能な暗号を解読しました。めでたしめでたし、では済まさないのか。
 まぁ、考えてみれば当然ではありますが……。
 敵に解読に成功したことを悟られてはならない。すぐにコードが変更され、また対応に追われることになる。損害の少ない場合は、敢えてスルーしておき、重要な局面でのみドイツの裏を掻くことにすればよい。
 しかしそれはドイツ軍の攻撃に晒される人々を見捨てると云う決断であり、暗号解読チームは日々、助ける人と見捨てる人を選別する血塗られた作業に追われることになったと云うのがやるせない。
 思いも寄らなかったジレンマに直面する解読チームのメンバー達。

 更に解読チーム内にソ連の二重スパイが存在することも明らかになるが、それもまた諜報部の策により泳がせていたことが判明するに及び、題名である『イミテーション・ゲーム』の意味が実感できてきます。
 もはや一介の数学者には手に負えるものでは無い。誰もが誰かを騙し、偽り、欺瞞に満ちたゲームを繰り広げているかのようです。
 このあたりで見せるマーク・ストロングの諜報部員としての貫禄が流石デス。論理と計算に秀でた数学者でも、人間同士の騙し合いには為す術も無い。

 しかしそれを云い出すと、自分もまたゲイであることを隠し、世間を欺いているわけで、あまり他人を責めていると自分にも跳ね返ってきそうなところがもどかしい。
 スパイの存在からキーラ・ナイトレイの身を守ろうと、本心を偽って別れ話を切り出し、誤解を受けたまま唯一理解し合える異性だったキーラに去られる博士。
 やっと終戦を迎え、すべての資料を焼却できたときには、メンバー全員が肩の荷が下りる思いだったことでしょう。
 何となく、そんな証拠隠滅のような事をして、ホントにいいのかと思わないではありませぬが、〈エニグマ〉なんかに関わってしまった一般人としては、さっさと解放されたいと云うのが本音だったような気がします。

 そしてまたドラマは戦後に戻ってきますが、〈エニグマ〉解読は軍の機密事項である為に業績を公表できず、不遇を託つチューリング博士は、逆に同性愛者であることを暴かれ有罪判決を受けるに至る。イギリスでは一九六七年までゲイは犯罪だったというのが、ちょっと信じられません。何たる時代錯誤か。
 更に投獄か薬物治療かの二者択一を迫られ、ホルモン療法を受ける保護観察の身となるわけですが、女性ホルモンの注射で同性愛の性向を矯正するなんて可能なんですかね(性欲を抑えると考えられていたそうですが無茶なことを)。
 薬物投与の副作用は明晰な頭脳の働きを阻害し、かつての天才数学者の面影が見るも無惨な有様です。働かない頭でマシーンの改良に取り組む姿が切ない。

 そして一九五四年、四二歳で死去。警察は自殺と断定したそうですが真相は不明。
 結局、チューリング博士の業績が公表されたのは一九八二年。戯曲『ブレイキング・ザ・コード』の初演が一九八六年。そこから色々ありまして、名誉は回復され、エリザベス女王による正式な恩赦の発効が二〇一三年。遅すぎですねえ。
 英国がゲイにもっと早く理解を示し、チューリング博士が長生きできていたら、どんなことを成し遂げたかと想像すると残念でなりませんデス。きっとスティーブ・ジョブズやビル・ゲイツなんて出る幕なかったのでは。
 今やチューリング・マシーンはコンピュータと名を変え、我々の生活を支えてくれているわけで、こんなブログを書いていられるのもチューリング博士のお陰ですね。「コンピュータのゴッドファーザー」には多大なる感謝を捧げる次第デス。




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2015年1月16日金曜日

PSYCHO-PASS サイコパス

(Psycho-Pass)

 総監督が本広克行、監督が塩谷直義、原案と脚本が虚淵玄であるSFアニメの劇場版です。元は深夜に放送されていたTVシリーズでしたが、第一期(全22話)、第二期(全11話)を経て完全新作劇場版となりました。SF者としては喜ばしい限りデス。
 でも実は、放送開始当初(2012年10月)からつい最近まで、私は本シリーズを全くスルーしておりました。「お前はそれでもSF者か」との誹りは免れないところであります。反省。

 とは云え、TVのアニメ番組(しかも深夜)を毎週追いかけて視聴するのは難しいので、録画を録り溜めておき、あとでまとめて消化するのが、ここ数年の私のスタイルになってしまい、勢い初回を録り逃したりしたりすると、もうそれだけで残りを観る気が失せてしまう。本シリーズの場合、第二期が始まる前に、第一期の新編集版も放送されたのに(2014年7月)、今度は録画機器の不調により、録画した新編集版の大半をロストしてしまう不運に見舞われ、きっとこれは神が『サイコパス』は観るなと云っているのだ、公開予定の劇場版もスルーしちゃおうかなどと不届きなことを考えておりました(第一期を観ないまま第二期だけ観ても仕方ないしな)。
 だから早川書房が、ハヤカワ文庫「紙の本を読みなよ」フェア第二弾に於いて、本シリーズとのコラボを行ったときも、「なんか文庫の帯にアニメのキャラがあしらわれている。ふーん」などと、言語道断な薄い反応しか示すことが出来ませんでした。すいませんすいませんすいません(それにフェアの対象になった小説は全部持ってましたし……)。

 一応、SF者の端くれですので、本シリーズが星雲賞の候補になったとは存じておりましたが、昨年(2014年・第45回)の星雲賞メディア部門の受賞作は、ギレルモ・デル・トロ監督の『パシフィック・リム』(2013年)でしたからねえ。
 同じ年にノミネートされていたのは、『ゼロ・グラビティ』、『宇宙戦艦ヤマト2199』、『翠星のガルガンティア』、『蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-』、『サカサマのパテマ』、『ガールズ&パンツァー』といった諸作品(洋画以外は全部アニメかよ)。うーむ。ガルパンもSFだったのか。

 星雲賞受賞を逸していたので、尚のこと観なくていいやとスルーを決め込んでいると、複数の友人知人から「何故、観ていない」「執行対象者ですね」「騙されたと思って今すぐボックスを買え」「そのマウスを寄こせ。代わりにクリックしてくれる」などと責められ、考えを改めました。
 で、ようやく劇場版公開直前に借りもので全話視聴しました。一度視聴し始めると今度は止まらなくなってしまい、かなり疲れてしまいましたが、満足です。
 はい。俺の色相は濁りきっていました。まったく申し訳ない。執行官にエリミネートされても文句は云えませんデス。いやもう、これはデコンポーズされるレベルかも。

 おかげで本作をちゃんと劇場で鑑賞することが出来ました。危うく今年のSF映画の中でも一、二を争うだろう屈指の作品を見逃すところでしたわ(ホントですよ)。
 今では第一期のブルーレイ・ボックスは「購入対象デス」とドミネーターに教えてもらうまでもありません。悩んでいるのは、第二期も併せて買うべきか否かと云う点でありまして、第二期のボックスが出るまで待とうか、いや第一期と劇場版があれば第二期は必要ないのでは、いやいやそれだと劇場版に於いて常守さんが狡噛と同じ銘柄の煙草を吸っていたりとか、霜月さんや須郷さんといった公安一係の新メンバーの設定が判り辛いじゃないか等々……とグルグルと考えがまとまらずに現在に至っておる次第デス。いっそ廉価な北米ば(げふんげふん)。

 うーむ。これと云うのも、第二期が第一期の半分の長さしかなくて妙に中途半端な感じがするのがイカンのだ。
 それに第二期は本広克行の名前がクレジットされておらず、脚本も虚淵玄から冲方丁と熊谷純になっていますからね。いや、冲方丁が悪いワケではありませぬが、やはり虚淵玄の路線とはちょっとテイストが異なります(若干、新たな設定に難癖付けたくなるところもあるし)。
 今般の劇場版に於いては、再び本広克行が総監督となり、脚本は虚淵玄と深見真と云う、第一期の面子に戻っております。だから第一期と劇場版は非常に親和性がよろしい。
 世間的には本広克行と虚淵玄の名前ばかり強調されて、全シリーズ共通の監督である塩谷直義の名前が霞んでいるのがちょっと可哀想ですが(監督なのにね)。

 それにしても、改めて思うのは、フィリップ・K・ディック(以下、PKD)とは偉大な作家だったと云うことデス。前々から『サイコパス』はPKD的なアニメだとは聞き及んでおりましたが、よもやこれほどとは思っておりませんでした。劇中に於けるPKDリスペクトの高さには感心します。
 近未来の都市風景が『ブレード・ランナー』的であるとか、犯罪者を事前に逮捕拘束(又は抹消)してしまうシステムが『マイノリティ・リポート』ぽいとか、社会を統治する〈シビュラ・システム〉に接続されたドミネーターが別名「シビュラの目」と呼ばれていたりとか、至るところにPKDへのオマージュを感じる設定が感じられます。ある人物と人間そっくりな「にせもの」がこっそり入れ替わっているなんてのも、PKD的ですねえ。

 公安局の建物もドコカデミタようなデザインですし、『トータル・リコール』や『マイノリティ・リポート』を思わせるようなギミックもあったりします。映画由来のネタが多いのが判り易い。
 でも「シビュラの目」は、それっぽいネーミングだけですから、元ネタの短編は読まなくても差し支えないというか、読んでもワケ判らんから若年ファンは古本屋を探し回らずとも宜し(げふんげふん)。

 他にも全身義体のサイボーグとか、施設に隔離された犯罪者にアドバイスを求めたりとか、PKD以外にも色々と過去の作品にオマージュ捧げつつ、きちんとしたSFになっているのは見事です。
 全体としてストーリーの構成が巧く、すべて台詞で説明するような野暮は避けて、絵だけで見せるようにした邦画らしからぬところも巧い演出です。
 「SFで犯罪捜査もの」と云うと、すぐに『攻殻機動隊』あたりが思い浮かぶところですが、本作は類似作品にならぬよう、一線を画して「SFでありながら、人間的な刑事ドラマ」に寄っているのもイイ感じです。

 まぁ、登場人物に学のある人が多くて、犯罪者から捜査官に至るまで、やたらと古典や偉人、学者の名言、格言を引用するのは御愛敬でしょうか。これは本シリーズのパターンでもありますね。劇中ではPKDにまで言及しましたし(第一期で)。
 しかし引用はまだいいとしても、登場人物に珍名・奇名が多いのは如何なものか。これも製作サイドの趣味なのか。
 実在する奇抜な苗字も、一人か二人ならまだ理解出来ますが、何故か本作は一般的な苗字の人の方が少ないような気がします。それとも近未来の日本では奇名がポピュラーなのか。

 主役の常守(つねもり)さんなんて可愛いものでしたねえ。狡噛(こうがみ)、宜野座(ぎのざ)、六合塚(くにづか)、禾生(かせい)……。無いとは云わぬが、どうしてひとつの組織の中にこんな苗字の人が沢山いるのか。不自然だろう。こういうのは、エンドクレジットの配役で役名が読み辛いから止めて戴きたいものです。
 もう、槙島とか雑賀なんて苗字がすごくフツーに感じられます。雑賀先生(山路和弘)はその分、中身が特殊な人ですが(槙島はもっとか)。
 ハードで本格的なSFなのに、キャラのネーミングだけが妙に中二病ぽいのは、誰の趣味なのか知りたいところデス(やっぱり脚本家かしら)。
 でも「山田監視官」とか「田中執行官」なんて人がいたら殉職確定でしょうが。

 先述しましたが、本作は非常に出来の良いSFであります。ミステリとしての伏線の張り方も巧いし、テーマも人物もしっかり描けております。
 ただ、この劇場版一作だけを取り上げると、どうかなとは思います。勿論、事件としては単一のものですし、ちゃんと解決しますし、決着つくので問題ないのでしょうが、やはりTVシリーズの設定を引き継いでいるので、そちらを御覧になっていない方には背景設定に不明なところが多いと思われます。
 特に〈シビュラシステム〉の仕様とか、常守監視官(花澤香菜)と狡噛執行官(関智一)の関係やら、狡噛と槙島の因縁やら、本作のみでは判らないところが多いでしょう。
 例えば、常守さんが狡噛と銃口を突きつけ合って、「お久しぶりです、狡噛さん」と再会の挨拶を交わすシーンのインパクトは、TVシリーズを未視聴の方には伝わりづらいのではないか(そんな人は観に来ないのか)。それに狡噛が槙島(櫻井孝宏)の幻影を見るのも、ファンサービスですし。

 ストーリーの展開に必要な基本的なところは本作だけでも充分、説明されていますけどね。
 生体スキャン技術の発達により、人間の心理状態や性格を計測し、犯罪係数として数値化できるようになった近未来の日本では、社会を管理する〈シビュラシステム〉により平和を謳歌していたが、同時にそれは人間の生活を本人の意思によらず決定してしまう管理社会でもあったと云うところは判りやすく説明されています。
 問題なのはシステムによる支配が強制的でなく、実に快適であることですね。将来の職業の選択や、結婚相手の性格のマッチングさえシステム任せだが、本当に相性ばっちりで幸せになれるところが逆に始末が悪い。

 昔のB級SFのように「人類を奴隷化するシステム」なんて陳腐なものではないので、一概に悪と決めつけられないのがもどかしい。まぁ、〈シビュラシステム〉は隠れたところで外道なこともしているのですが、非人道的でも大局的には人類の利益になると云うのが癪に障りますね。
 主人公である常守さんがシステムに抗い、反抗するものの、結局はシステムが望むように行動してしまい、またシステムの目指す未来を否定しきれずジレンマを抱え込む、と云うのが本シリーズの共通のパターンになっています。しかし微力ながらも、人間として主張するべき事は主張する。
 劇中に「コンピュータに説教する常守さんの図」が入るのも、シリーズのお約束でしょうか(初登場の時と比べると、ホントにタフになりました)。

 今般の劇場版では、今まで語られていなかった海外の様子の一端が明らかになったりします。「東南アジア連合(SEAUn)」なる架空の国家ですが、見たところタイかカンボジアぽい。
 テロリストの密入国事件に端を発して、シビュラシステムの海外輸出にも絡んだ事件へと発展していく流れがテンポよく語られていきます。今回は常守さんが海外出張するので、いつものメンバーはなべて出番が少ないのが残念ですが、その分「常守さんと狡噛」の関係が強調されております。
 ゲスト的なニコラス大佐(神谷浩史)とか、ハン議長(佐々木勝彦)もあまり出番は多くないですね。特にニコラス大佐の小物っぷりが残念。敵キャラの中では傭兵部隊のリーダー(石塚運昇)が一番印象的でしたが、劇場版だけなのがちょっと勿体ない。

 何だかんだと理屈を捏ねながら人類を支配している〈シビュラシステム〉ですが、常守さんの説教を尊重する一面もあったりして、結構ツンデレなシステムです。きっと常守さんは、シビュラの思い描く理想の人類像なのでしょうねえ(倫理的で自分をきちんと律してサイコパスを曇らせない人ですから)。
 世界的な情勢がどうなっているのかとか、大局的なところはほとんど語られないまま(近未来の日本では富士山も噴火しているようですが)、犯罪捜査に関係する部分からだけ世界が垣間見えるスタイルも健在でした(だから観終わると色々と語り合いたくなる)。
 この先もTVシリーズの第三期とか期待したいところですが、「常守さんと狡噛」については本作で決着が付いたように思われますので、これ以上はドラマとしては必要ないでしょうか。それよりも私は「霜月さん(佐倉綾音)がいつ天誅を喰らうのか」が気になって仕方ないのデスガ。

 一応、劇場版用の主題歌としてオープニングには、凛として時雨の新曲「Who What Who What」が流れますが、エンドクレジットでは第一期と同じく、EGOISTの「名前のない怪物」を使用してくれたのが嬉しいデス。そうそう、『サイコパス』と云えばこの曲でしょう。
 この曲を聴くと、また第一期が観たくなってしまいました。やはり第一期だけでも先にボックスを……。




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