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2015年1月16日金曜日

PSYCHO-PASS サイコパス

(Psycho-Pass)

 総監督が本広克行、監督が塩谷直義、原案と脚本が虚淵玄であるSFアニメの劇場版です。元は深夜に放送されていたTVシリーズでしたが、第一期(全22話)、第二期(全11話)を経て完全新作劇場版となりました。SF者としては喜ばしい限りデス。
 でも実は、放送開始当初(2012年10月)からつい最近まで、私は本シリーズを全くスルーしておりました。「お前はそれでもSF者か」との誹りは免れないところであります。反省。

 とは云え、TVのアニメ番組(しかも深夜)を毎週追いかけて視聴するのは難しいので、録画を録り溜めておき、あとでまとめて消化するのが、ここ数年の私のスタイルになってしまい、勢い初回を録り逃したりしたりすると、もうそれだけで残りを観る気が失せてしまう。本シリーズの場合、第二期が始まる前に、第一期の新編集版も放送されたのに(2014年7月)、今度は録画機器の不調により、録画した新編集版の大半をロストしてしまう不運に見舞われ、きっとこれは神が『サイコパス』は観るなと云っているのだ、公開予定の劇場版もスルーしちゃおうかなどと不届きなことを考えておりました(第一期を観ないまま第二期だけ観ても仕方ないしな)。
 だから早川書房が、ハヤカワ文庫「紙の本を読みなよ」フェア第二弾に於いて、本シリーズとのコラボを行ったときも、「なんか文庫の帯にアニメのキャラがあしらわれている。ふーん」などと、言語道断な薄い反応しか示すことが出来ませんでした。すいませんすいませんすいません(それにフェアの対象になった小説は全部持ってましたし……)。

 一応、SF者の端くれですので、本シリーズが星雲賞の候補になったとは存じておりましたが、昨年(2014年・第45回)の星雲賞メディア部門の受賞作は、ギレルモ・デル・トロ監督の『パシフィック・リム』(2013年)でしたからねえ。
 同じ年にノミネートされていたのは、『ゼロ・グラビティ』、『宇宙戦艦ヤマト2199』、『翠星のガルガンティア』、『蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-』、『サカサマのパテマ』、『ガールズ&パンツァー』といった諸作品(洋画以外は全部アニメかよ)。うーむ。ガルパンもSFだったのか。

 星雲賞受賞を逸していたので、尚のこと観なくていいやとスルーを決め込んでいると、複数の友人知人から「何故、観ていない」「執行対象者ですね」「騙されたと思って今すぐボックスを買え」「そのマウスを寄こせ。代わりにクリックしてくれる」などと責められ、考えを改めました。
 で、ようやく劇場版公開直前に借りもので全話視聴しました。一度視聴し始めると今度は止まらなくなってしまい、かなり疲れてしまいましたが、満足です。
 はい。俺の色相は濁りきっていました。まったく申し訳ない。執行官にエリミネートされても文句は云えませんデス。いやもう、これはデコンポーズされるレベルかも。

 おかげで本作をちゃんと劇場で鑑賞することが出来ました。危うく今年のSF映画の中でも一、二を争うだろう屈指の作品を見逃すところでしたわ(ホントですよ)。
 今では第一期のブルーレイ・ボックスは「購入対象デス」とドミネーターに教えてもらうまでもありません。悩んでいるのは、第二期も併せて買うべきか否かと云う点でありまして、第二期のボックスが出るまで待とうか、いや第一期と劇場版があれば第二期は必要ないのでは、いやいやそれだと劇場版に於いて常守さんが狡噛と同じ銘柄の煙草を吸っていたりとか、霜月さんや須郷さんといった公安一係の新メンバーの設定が判り辛いじゃないか等々……とグルグルと考えがまとまらずに現在に至っておる次第デス。いっそ廉価な北米ば(げふんげふん)。

 うーむ。これと云うのも、第二期が第一期の半分の長さしかなくて妙に中途半端な感じがするのがイカンのだ。
 それに第二期は本広克行の名前がクレジットされておらず、脚本も虚淵玄から冲方丁と熊谷純になっていますからね。いや、冲方丁が悪いワケではありませぬが、やはり虚淵玄の路線とはちょっとテイストが異なります(若干、新たな設定に難癖付けたくなるところもあるし)。
 今般の劇場版に於いては、再び本広克行が総監督となり、脚本は虚淵玄と深見真と云う、第一期の面子に戻っております。だから第一期と劇場版は非常に親和性がよろしい。
 世間的には本広克行と虚淵玄の名前ばかり強調されて、全シリーズ共通の監督である塩谷直義の名前が霞んでいるのがちょっと可哀想ですが(監督なのにね)。

 それにしても、改めて思うのは、フィリップ・K・ディック(以下、PKD)とは偉大な作家だったと云うことデス。前々から『サイコパス』はPKD的なアニメだとは聞き及んでおりましたが、よもやこれほどとは思っておりませんでした。劇中に於けるPKDリスペクトの高さには感心します。
 近未来の都市風景が『ブレード・ランナー』的であるとか、犯罪者を事前に逮捕拘束(又は抹消)してしまうシステムが『マイノリティ・リポート』ぽいとか、社会を統治する〈シビュラ・システム〉に接続されたドミネーターが別名「シビュラの目」と呼ばれていたりとか、至るところにPKDへのオマージュを感じる設定が感じられます。ある人物と人間そっくりな「にせもの」がこっそり入れ替わっているなんてのも、PKD的ですねえ。

 公安局の建物もドコカデミタようなデザインですし、『トータル・リコール』や『マイノリティ・リポート』を思わせるようなギミックもあったりします。映画由来のネタが多いのが判り易い。
 でも「シビュラの目」は、それっぽいネーミングだけですから、元ネタの短編は読まなくても差し支えないというか、読んでもワケ判らんから若年ファンは古本屋を探し回らずとも宜し(げふんげふん)。

 他にも全身義体のサイボーグとか、施設に隔離された犯罪者にアドバイスを求めたりとか、PKD以外にも色々と過去の作品にオマージュ捧げつつ、きちんとしたSFになっているのは見事です。
 全体としてストーリーの構成が巧く、すべて台詞で説明するような野暮は避けて、絵だけで見せるようにした邦画らしからぬところも巧い演出です。
 「SFで犯罪捜査もの」と云うと、すぐに『攻殻機動隊』あたりが思い浮かぶところですが、本作は類似作品にならぬよう、一線を画して「SFでありながら、人間的な刑事ドラマ」に寄っているのもイイ感じです。

 まぁ、登場人物に学のある人が多くて、犯罪者から捜査官に至るまで、やたらと古典や偉人、学者の名言、格言を引用するのは御愛敬でしょうか。これは本シリーズのパターンでもありますね。劇中ではPKDにまで言及しましたし(第一期で)。
 しかし引用はまだいいとしても、登場人物に珍名・奇名が多いのは如何なものか。これも製作サイドの趣味なのか。
 実在する奇抜な苗字も、一人か二人ならまだ理解出来ますが、何故か本作は一般的な苗字の人の方が少ないような気がします。それとも近未来の日本では奇名がポピュラーなのか。

 主役の常守(つねもり)さんなんて可愛いものでしたねえ。狡噛(こうがみ)、宜野座(ぎのざ)、六合塚(くにづか)、禾生(かせい)……。無いとは云わぬが、どうしてひとつの組織の中にこんな苗字の人が沢山いるのか。不自然だろう。こういうのは、エンドクレジットの配役で役名が読み辛いから止めて戴きたいものです。
 もう、槙島とか雑賀なんて苗字がすごくフツーに感じられます。雑賀先生(山路和弘)はその分、中身が特殊な人ですが(槙島はもっとか)。
 ハードで本格的なSFなのに、キャラのネーミングだけが妙に中二病ぽいのは、誰の趣味なのか知りたいところデス(やっぱり脚本家かしら)。
 でも「山田監視官」とか「田中執行官」なんて人がいたら殉職確定でしょうが。

 先述しましたが、本作は非常に出来の良いSFであります。ミステリとしての伏線の張り方も巧いし、テーマも人物もしっかり描けております。
 ただ、この劇場版一作だけを取り上げると、どうかなとは思います。勿論、事件としては単一のものですし、ちゃんと解決しますし、決着つくので問題ないのでしょうが、やはりTVシリーズの設定を引き継いでいるので、そちらを御覧になっていない方には背景設定に不明なところが多いと思われます。
 特に〈シビュラシステム〉の仕様とか、常守監視官(花澤香菜)と狡噛執行官(関智一)の関係やら、狡噛と槙島の因縁やら、本作のみでは判らないところが多いでしょう。
 例えば、常守さんが狡噛と銃口を突きつけ合って、「お久しぶりです、狡噛さん」と再会の挨拶を交わすシーンのインパクトは、TVシリーズを未視聴の方には伝わりづらいのではないか(そんな人は観に来ないのか)。それに狡噛が槙島(櫻井孝宏)の幻影を見るのも、ファンサービスですし。

 ストーリーの展開に必要な基本的なところは本作だけでも充分、説明されていますけどね。
 生体スキャン技術の発達により、人間の心理状態や性格を計測し、犯罪係数として数値化できるようになった近未来の日本では、社会を管理する〈シビュラシステム〉により平和を謳歌していたが、同時にそれは人間の生活を本人の意思によらず決定してしまう管理社会でもあったと云うところは判りやすく説明されています。
 問題なのはシステムによる支配が強制的でなく、実に快適であることですね。将来の職業の選択や、結婚相手の性格のマッチングさえシステム任せだが、本当に相性ばっちりで幸せになれるところが逆に始末が悪い。

 昔のB級SFのように「人類を奴隷化するシステム」なんて陳腐なものではないので、一概に悪と決めつけられないのがもどかしい。まぁ、〈シビュラシステム〉は隠れたところで外道なこともしているのですが、非人道的でも大局的には人類の利益になると云うのが癪に障りますね。
 主人公である常守さんがシステムに抗い、反抗するものの、結局はシステムが望むように行動してしまい、またシステムの目指す未来を否定しきれずジレンマを抱え込む、と云うのが本シリーズの共通のパターンになっています。しかし微力ながらも、人間として主張するべき事は主張する。
 劇中に「コンピュータに説教する常守さんの図」が入るのも、シリーズのお約束でしょうか(初登場の時と比べると、ホントにタフになりました)。

 今般の劇場版では、今まで語られていなかった海外の様子の一端が明らかになったりします。「東南アジア連合(SEAUn)」なる架空の国家ですが、見たところタイかカンボジアぽい。
 テロリストの密入国事件に端を発して、シビュラシステムの海外輸出にも絡んだ事件へと発展していく流れがテンポよく語られていきます。今回は常守さんが海外出張するので、いつものメンバーはなべて出番が少ないのが残念ですが、その分「常守さんと狡噛」の関係が強調されております。
 ゲスト的なニコラス大佐(神谷浩史)とか、ハン議長(佐々木勝彦)もあまり出番は多くないですね。特にニコラス大佐の小物っぷりが残念。敵キャラの中では傭兵部隊のリーダー(石塚運昇)が一番印象的でしたが、劇場版だけなのがちょっと勿体ない。

 何だかんだと理屈を捏ねながら人類を支配している〈シビュラシステム〉ですが、常守さんの説教を尊重する一面もあったりして、結構ツンデレなシステムです。きっと常守さんは、シビュラの思い描く理想の人類像なのでしょうねえ(倫理的で自分をきちんと律してサイコパスを曇らせない人ですから)。
 世界的な情勢がどうなっているのかとか、大局的なところはほとんど語られないまま(近未来の日本では富士山も噴火しているようですが)、犯罪捜査に関係する部分からだけ世界が垣間見えるスタイルも健在でした(だから観終わると色々と語り合いたくなる)。
 この先もTVシリーズの第三期とか期待したいところですが、「常守さんと狡噛」については本作で決着が付いたように思われますので、これ以上はドラマとしては必要ないでしょうか。それよりも私は「霜月さん(佐倉綾音)がいつ天誅を喰らうのか」が気になって仕方ないのデスガ。

 一応、劇場版用の主題歌としてオープニングには、凛として時雨の新曲「Who What Who What」が流れますが、エンドクレジットでは第一期と同じく、EGOISTの「名前のない怪物」を使用してくれたのが嬉しいデス。そうそう、『サイコパス』と云えばこの曲でしょう。
 この曲を聴くと、また第一期が観たくなってしまいました。やはり第一期だけでも先にボックスを……。




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