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2016年1月22日金曜日

フランス組曲

(Suite francaise)

 ドイツ占領下のフランスを背景にした、ドイツ軍将校とフランスの人妻のラブストーリーです。同名のベストセラー小説の映画化ですが、原作者であるイレーヌ・ネミロフスキー自身はアウシュビッツの強制収容所でお亡くなりになっており(39歳没)、未完の遺稿を娘が発見して二〇〇四年になって出版し、それが映画化されたと云う曰く付きの作品です。
 イレーヌ・ネミロフスキーの著作は日本語訳が既に数作あって、本作『フランス組曲』も出版されておりますね(白水社)。ちょっと読んでみましたが、物語よりも巻末に収められた著者のメモや書簡といった資料の方が興味深かったです。

 本作は、イギリス/フランス/ベルギーの合作映画でありまして、監督と脚本はソウル・ディブです。この監督さんはキーラ・ナイトレイ主演の『ある公爵夫人の生涯』(2008年)でも監督と脚本を務めておりました。元はドキュメンタリ映画の監督であったそうな。
 主演はミシェル・ウィリアムズとマティアス・スーナールツ。ミシェルがフランス人の人妻役で、マティアスがドイツ軍将校の役です。
 以下、共演はクリスティン・スコット・トーマス、サム・ライリー、ランベール・ウィルソン、トム・シリングといった皆さん。フランスを舞台にしている物語なのに、ミシェル・ウィリアムズ(米)、クリスティン・スコット・トーマス(英)、サム・ライリー(英)といった英語圏の俳優さんが半数とはどうしたことか。

 中でもクリスティン・スコット・トーマスはつい最近も『パリ3区の遺産相続人』(2014年)に出演しているのを観ましたぞ。あちらもフランスが舞台になっていたので、ついつい「クリスティンはフランスの女優さんである」と勘違いしてしまったこともありました。仏語も流暢だし。
 本作では人妻ミシェル・ウィリアムズの義母役で、強面の厳しい婦人役です。元から嫁と姑の関係がギクシャクしているので尚のこと、息子の嫁がドイツ人と親密になるなど以ての外であると、ミシェルに厳しく当たります。

 ミシェルの相手役となるマティアス・スーナールツはベルギーの俳優さん。個人的に馴染み深いベルギー人俳優はジャン・クロード・ヴァン・ダムだけでしたが(俺的ベルギーの人間国宝だし)、マティアス・スーナールツも憶えましょう。
 この方はジャック・オーディアール監督の『君と歩く世界』(2012年)でマリオン・コティヤールと共演していたあの人でしたか。ヒゲ剃ってるから判りませんでした(云い訳)。
 本作では音楽家を志していた若きドイツ軍中尉の役です。イケメンの上に紳士です。近年はもはや戦争映画であろうと、ドイツ人を非人間的な敵役として描くことは出来ませんね。

 物語の舞台となるフランスの小さな町の町長にして近隣一帯の大地主役がランベール・ウィルソンです。進駐してきたドイツ軍への対応に苦慮しております。
 ランベール・ウィルソンはフランス出身の俳優さんですが、私が一番よく知っている出演作が『マトリックス リローデッド』(2003年)とはどうしたことか。最古のプログラム、メロヴィンジアン役な。他に知っているのは『タイムライン』(同年)とか『サハラ/死の砂漠を脱出せよ』(2005年)とか、ハリウッドものばかりです。『キャットウーマン』(2004年)でゴールデンラズベリー賞(最低助演男優賞)にノミネートされたことは忘れてあげたいが忘れられません。

 トム・シリングはドイツ軍将校役。この人だけ国籍と役柄が一致していますね。
 『コーヒーをめぐる冒険』(2012年)のニコ青年役が忘れ難い。『ピエロがお前を嘲笑う』(2014年)にも出演されていましたが、こちらはスルーしてしまっております(観たかったのに)。
 マティアス・スーナールツと同じ階級の中尉となりますが、こちらはあまり人格的に感心しない性格の男です。紳士であるマティアス中尉に対して、ドイツ軍人の中のゲス野郎担当。

 総じて本作では、善人か悪党かは国籍に拠らないと云う公平な描かれ方をしております。
 また、占領下でドイツ軍に協力的な人がいても、その是非を問うような描かれ方もしておりません。やむを得ない場合もありますし、礼儀正しいドイツ人に邪険に振る舞うことも出来ないからと云って売国奴呼ばわりする方が狭量であるような演出に見受けられました。
 だから男達が出征して女子供ばかりの町に、若くて逞しいドイツの青年達──しかも妙にイケメンが多いぞ──がやって来れば、若い娘たちとしては親しくなってしまうのもやむを得ないのです。苦い顔をしているのは年寄りだけね。

 フランスにしてみるとかなり不都合なタブーとされてきた描写のようですが、本作は堂々とそれを描いております。原作者のフランスに対する冷めた視線を感じます。
 本作におけるドイツ軍は、かなり規律正しく、抑制の効いた集団であると描かれています。フランス人の視点からそのように描かれているというのが興味深い。まぁ、中にはトム・シリングみたいな奴もいますけどね。

 さて、本作は音楽を通じて親しくなる男女のドラマでありますが、背景が戦時であり互いに敵国人同士の関係ですから、悲恋ものになるのはやむを得ないでしょう。そもそも片方が人妻な時点でアウトですわな。
 まぁ、本作ではミシェルの不倫と云うことにはなりますが、率先して夫を裏切るのではなく、堪え忍んでいたのに夫の裏切りを知らされて……と云う展開になりますので、多分に同情的な描かれ方です。

 また恋愛ドラマと並行して、フランス社会の階級闘争的な描写もありました。貴族の大地主に抑圧されていた小作人達が、ドイツ軍の進駐によって解放されたようになる。今まで逆らうことの出来なかった地主に対して、反抗し始める様子が描かれています。
 小作人達からするとドイツ軍様々と云うか、地主の屋敷が接収されて部隊が駐屯する様子を見て溜飲を下げているようです。またドイツ軍に対して、町民同士が互いの恨みを晴らすべく誹謗中傷の密告を繰り返すというのも、「ドイツ軍=悪」の図式には当てはまりませんね。
 逆に無関係のドイツ軍が、地元のドロドロした人間関係に悩まされると云う、ちょっと気の毒な描写です。

 したがって、どちらかと云うとミシェル・ウィリアムズとマティアス・スーナールツが親しくなっていく本筋よりも、サム・ライリーを軸に展開していくサイドストーリーの方が面白かったりします。まぁ、ロマンスが目当ての観客もおられましょうが。
 サム・ライリーは足が不自由なために出征せず農場に残った小作人の役ですが、自分の妻にドイツ軍の将校が言い寄っているのが気にくわない。勿論、このゲスいドイツ軍将校がトム・シリングね。

 そんな中で、地主(ランベール・ウィルソン)の農場から盗みを働いたサム・ライリーがドイツ軍に追われる羽目になるわけですが、些細なことから事件が二転三転して大きくなっていく過程の方が面白い上に、こっちの方が本筋のようにも見受けられました。
 盗みの現場を見咎めた地主の奥さんは、思いもよらず小作人風情から大きな態度に出られて、すっかり根に持ってしまう。夫である町長に「銃で脅された」などとデタラメを言いつけたので、旦那さんも捨て置くことができず、些細な盗みだったのにドイツ軍に通報し、かくしてドイツ軍による捜索が開始されることになる。

 この捜索隊の指揮を執っていたのがトム・シリングであったので余計にハナシがややこしくなります。発見時にゲスい中尉が挑発した一言に逆上したサム・ライリーが、ふとしたはずみで相手を殺してしまう。如何にゲス野郎だったとは云え、ドイツ軍将校が殺害されたとあっては只では済まされない。
 軍の上層部からは「ドイツ兵が一人殺されたのなら、見せしめにフランス人を十人殺せ」などと無茶な命令が出そうになるのを、部隊の司令官が「見せしめは町長一人だけで」と何とか穏便に済ませようとするのが可笑しいです。
 が、銃殺に処せられる町長にとっては笑い事ではない。

 狭量な奥さんの告げ口が回り回って旦那さんの命を奪う羽目になると云う、因縁話めいたサイドストーリーでありました。
 ここで銃殺隊の指揮を命じられるのがマティアス中尉であり、このことでミシェルとの仲も破局してしまいます。これもまた戦争によって引き裂かれる愛なのか(まぁ、戦争がなければ出会いも無かったですけど)。
 その後、逃亡中のサムをミシェルと義母クリスティンが匿い、何とかパリへ脱出させる手筈を整えようとします。必要な通行証の発行のために一度は破局したマティアス中尉に請願するミシェルです。どうも「人の良いドイツ人がフランス人に騙されている」ようにしか見えません。

 終盤は駐屯していたドイツ軍に移動命令が下って別れの時が来るのと、サム・ライリーの脱出行が平行して描かれるサスペンスです。ここはそれなりにスリリングでした。
 劇中では、滞在中に中尉が趣味で作曲している図が何回か挿入されますが、別れに際して完成させた楽譜に付ける曲名が「フランス組曲」。言葉では語らず、全てを音楽に託すのがロマンチックですね(イケメンだから尚更か)。
 一方で、愛を込めて楽譜を贈ってくれた中尉を裏切らねばならないミシェルの心情が辛いところですが、最後には発覚した裏切りを飲み込んで黙ってミシェルを見送るマティアス中尉でした(イケメンすぎるわ!)。
 しかし、このあたりは映画のオリジナル展開のようです。原作は単にドイツ軍が去る場面で幕となり、それっきり未完ですから。

 ところで「フランス組曲」とは割とよくある曲名のようです。ネットで検索しますと、同名の楽曲が幾つもヒットします。ヨハン・セバスティアン・バッハも「フランス組曲」を作曲していますし、他にもダリウス・ミヨー、フランシス・プーランク、ヴェルナー・エックといった作曲家による異なる「フランス組曲」があるようです(聴いたことはありませんが)。ジャンルも管弦楽だったり、吹奏楽だったり色々か。
 特にバッハの場合は「イギリス組曲」なんて題名の楽曲も作曲しているそうで、楽聖は題名には頓着しなかったもののようですね。
 「幾つかの楽曲を連続して演奏するように組み合わせて並べたもの」は全部、組曲か。

 原作者イレーヌ・ネミロフスキーの当初の構想としては、その「組曲」の題名に相応しく、様々な登場人物達が織りなす群像劇と云うか、オムニバス長編ぽい構成を考えておられたそうですが、ユダヤ系フランス人として強制収容所送りとなり、遺稿は最初の二章分のみ。
 しかも映画化された本作は、そのうちの第二章の方です。第一章の方はほぼスルー。せめて続編を製作して二部作にしても良いのでは。

 原作巻末の創作メモによると、『フランス組曲』は全五章が想定されていたそうです。各章毎の独立したエピソードに、少しずつ登場人物が重なり合って「組曲」となる予定だったそうな。
 第一章と第二章だけでも、サム・ライリーが演じていた小作人ブノワが共通して登場しております。このキャラクターは続く第三章でも登場予定だったので、完成した小説がシリーズとして映画化されていればサム・ライリーが皆勤賞になっていたのかも……知れません。
 まぁ、予定は未定であり、作者自身も始めのうちは全五章とぶち上げながら、途中で「四章でいいかも」なんて書き残しておりますし(笑)。

 先のストーリーは概要だけだったり、未定のままだったりするのですが、第一章も映画化し、作者の構想に則った第三章も制作すれば併せて三部作になる……のですが、どうでしょね。
 どうもトルストイの『戦争と平和』を意識しているようなメモもあったりするので、『フランス組曲』とはイレーヌ・ネミロフスキー版『戦争と平和』になる……筈だったのかも知れません。
 完成すれば原著で一〇〇〇ページを軽く越えそうなところも『戦争と平和』ぽいか。

 第三章以降は、サム・ライリーもパリでレジスタンスに加わり壮絶な死を遂げる予定だったり、「ロシアに於ける例のドイツ人の死」なんて気になるメモもありました。よもやマティアス中尉はあのあと東部戦線送りになって戦死してしまうのか。
 ミシェル・ウィリアムズについても、気になるその後の展開が示唆されていたりしますが、すべては闇の中ですねえ。
 エンドクレジット後には、原作の出版過程について字幕で説明が入ります。作者の娘から「これは母の芸術の勝利である」旨のコメントが付けられておりました。
 『フランス組曲』が完成していれば、トルストイに匹敵したかも知れないと思うと惜しいことです(でも長すぎて寝てしまいそうですが)。




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2015年5月24日日曜日

トレヴィの泉で二度目の恋を

(Elsa & Fred)

 シャーリー・マクレーンとクリストファー・プラマーによる高齢者ラブロマンス映画です。高齢者の恋は情熱的に後先見ずに突っ走るようなものでは無く、どこか飄々としてユーモア溢れる感じになりますね。恋愛映画と云うよりも、ヒューマンドラマの趣です。
 監督及び脚本はマイケル・ラドフォード。イタリア映画『イル・ポスティーノ』(1994年)の監督ですが、御本人はイギリスの方です。ついでに、本作は米国製。

 しかし元を辿ると、本作はスペイン・アルゼンチン合作の『Elsa y Fred』(2005年)のリメイクなのだそうな。元の映画を全く存じませんのですが(多分、日本未公開ね)、原題がそのまんまですね。
 タイトルは二人の高齢者の名前でして、エルサ役がシャーリー・マクレーンで、フレッド役がクリストファー・プラマーです。まぁ、日本語でそのまま『エルサとフレッド』にしてはよく判りませんから、邦題がガラッと変わっているのはよろしいのでは。内容をよく表した邦題であると思います。

 とは云え、専らストーリーの舞台となるのはアメリカのニューオーリンズでして、イタリアのローマではありません。題名の「トレヴィの泉」は、シャーリー・マクレーンが「いつか訪れてみたい憧れの場所」として劇中で語られています。
 しかし最近じゃ「トレヴィ」なのか。「トレビ」じゃイカンのか。
 云わずと知れたローマ観光の名所でありまして、ローマを舞台にした映画ではよくお目に掛かりますね。有名なところだと、やはりオードリー・ヘップバーン主演の『ローマの休日』(1953年)でしょうか。
 もうひとつ、古典的な作品でトレヴィの泉が登場しているのが、フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』(1960年)。しかしイマドキは『甘い生活』と云うと、フェリーニより先に弓月光のコミックスなのか(全く無関係デスガ)。

 フェリーニ監督の『甘い生活』は、主演がマルチェロ・マストロヤンニとアニタ・エクバーグでした。うーむ。懐かしすぎる。
 マルチェロ・マストロヤンニは随分と前にお亡くなりですが(1996年12月19日逝去)、アニタ・エクバーグがつい最近、お亡くなりになっていたとは存じませんでした(2015年1月11日逝去)。
 個人的にアニタ・エクバーグの出演作品としては、『甘い生活』よりも『火曜日ならベルギーよ』(1969年)の方が好きなのですが、それは関係ないデスカ。

 実は本作では、このフェリーニ監督作品が重要なモチーフとして使用されています。劇中に於いて『甘い生活』の場面は何度も引用されたりしておりますし、本作のオープニングからしてタイトルバックには、水の流れに『甘い生活』の場面がプロジェクターで映し出されております(泉に映しているようなイメージですね)。
 流れる水にモノクロ映像のアニタ・エクバーグの横顔が映し出される、なかなかファンタスティックな演出でした。

 さて、ドラマはニューオーリンズのとあるマンションに住まう未亡人シャーリー・マクレーンの隣の部屋に、新たな入居者としてクリストファー・プラマーが引っ越してくるところから始まります。
 シャーリー・マクレーンはベン・スティラー監督・主演の『LIFE!』(2013年)でもお元気な様子が伺えましたが、本作でも元気なお婆ちゃんを演じております。成人した息子が様子を見に来たりしておりますが、特に同居することも無く、割とお気楽な老後を過ごしております。
 それと正反対なのがクリストファー・プラマー。長年連れ添った奥さんを亡くしたばかりと云う設定で、常に苦虫をかみつぶしたような表情の、無愛想極まりなしな頑固ジジイを演じております。『人生はビギナーズ』(2010年)の和やかなお爺ちゃんとは一転しておりますね。

 性格も対照的、水と油な二人の男女が隣人同士になり、互いに袖振り合う内に親しくなり、やがて恋愛関係に発展していくという、誠にベタなロマンス映画の王道のような展開であります。あまり意外な展開にはなりませんが、そこは双方共にオスカー俳優ですから、ありきたりのようでいてしっかりと笑いも取りつつドラマを引っ張ってくれます。
 加えて、高齢者ならではの、余生、余命と云った問題も描かれていて、決してハッピー一辺倒ではありませんが、ビターな味わいもまた余韻があってよろしいかと。

 主演の二人の他には、スコット・バクラ、マーシャ・ゲイ・ハーデン、ジョージ・シーガルといった方々が共演しております。
 シャーリー・マクレーンの息子役で、お堅いビジネスマンなのがスコット・バクラ。TVシリーズ『スタートレック : エンタープライズ』のジョナサン・アーチャー船長としてSF者には馴染み深い。
 クリストファー・プラマーの娘役がマーシャ・ゲイ・ハーデン。この人は、フランク・ダラボン監督の『ミスト』(2007年)での狂信的なおばちゃん役が忘れ難いデス(SF者ですから……)。
 クリストファー・プラマーの旧友のドクター役は、ジョージ・シーガル。まだまだお元気そうで何よりデス。
 あと出番は短いですが、ウェス・アンダーソン監督の『ムーンライズ・キングダム』(2012年)に出ていたジャレッド・ギルマンくんがクリストファーの孫の少年役で顔を見せておりました。

 最初は無愛想で取っつきにくい隣人だったクリストファーですが、些細なことがきっかけになり、次第にシャーリーと親しくなっていく。ろくに外出もせずに「私は生きる屍なんだ」と引き籠もりなクリストファーに、あれこれとお節介を焼き「あなたに生きる意味を教えてあげる」などと引っ張り出すシャーリー。
 一方的にクリストファー・プラマーの方が振り回されておりますが、やがて塞ぎ込んでいた爺さんにも変化が訪れ、明るくなっていくのはいいことです。その過程で互いの趣味も判ってくる。

 恋愛映画で、過去の名作を引用する演出は、トム・ハンクスとメグ・ライアン主演の『めぐり逢えたら』(1993年)などでもやっておりましたね(割とよくある演出なのか)。あちらでは、ケーリー・グラントとデボラ・カー主演の『めぐり逢い』(1957年)が盛んに引用されておりました。
 本作では、それが『甘い生活』になっている。何故、『甘い生活』なのかは不明です。そりゃ、アニタ・エクバーグは超絶に美人でしたけどね。だったら『火曜日ならベルギーよ』でもエエやん(いや、そっちにはマストロヤンニいないし)。
 
 シャーリー・マクレーンは「いつか自分もトレヴィの泉を訪れ、アニタ・エクバーグのように泉の中に入って、ずぶ濡れになりながらマルチェロ・マストロヤンニとラブシーンを演じてみたい」なんて願望を口にしております。
 それを聞いてクリストファー・プラマーとジョージ・シーガルが、じいさん二人で『甘い生活』をビデオで鑑賞し、「これのどこが面白いんだ」なんて云い合っている図が笑えました。まぁ、フェリーニ監督の代表作ではありますが……。

 しかし、かなりミーハーな願望ではあります。
 題材に『甘い生活』なんて古典的名作を引用しているので、それなりに納得してしまいますが、つまるところシャーリー・マクレーンは聖地巡礼がしたいワケで、これはイマドキのアニメファンでもやっていることでしょう。
 すると将来、五人の婆さんが「滋賀県犬上郡豊郷町の旧豊郷小学校で軽音楽のライブがしたい」なんてストーリーをやっても許されるのか。あるいは六人の高齢者が「埼玉県秩父市の札所一七番定林寺で……」とか、「死ぬまでに一度は、石川県金沢市の湯涌温泉に……」とかいうのもアリなのか。でも「茨城県大洗町で戦車に乗って旅館に突撃する」のは犯罪デス(解説は不要ですよね)。

 しかし明るく剽軽なシャーリー・マクレーンには、隠していることが幾つかあったのだ……と云うところで、二人の間に危機が訪れる。これまた定番の展開。
 まず、お調子者で話し好きなシャーリー・マクレーンの語ったことには、かなりの割合で事実では無いことが含まれているのが判る。序盤の小さな交通事故について、口から出任せ式にあること無いこと並べ立てて喋っている場面があり、その程度ならコメディ・タッチの演出として許容できたのですが……。
 色々なことに嘘が含まれている。その最たるものは「実は未亡人ですらなかった」ことでしょう。

 互いに連れ合いを無くした独り身同士と思っていたら、随分と前に亡くなった筈の旦那さんが現れ、単に別居していただけだと判明する。夫の浮気が原因で離婚したというのも事実ではない。
 この突然、出現する亭主の役はジェームズ・ブローリンが演じております。何となくジョシュ・ブローリンに似ている……って、親父さんだから当たり前か。
 「あの女は幻想に生きているんだ。私と同じ間違いを犯すな」と忠告されるクリストファー。

 今まで話してくれたことが全部信じられなくなるのはやむを得ないことです。しかし問い詰められても全く悪びれないシャーリー。
 「事実と多少ずれていてもいいじゃない」と逆に開き直られる。うーむ。真面目な人にはちょっと許せない態度ですね。「多少」の範囲が一般よりもアバウトすぎる。
 しかし「辛い現実に直面するよりも、ファンタジーの方を選ぶ」と云うのは理解出来なくもないし、一概に虚言癖だと決めつけるのも如何なものか。
 とは云え、「若い頃には画家のパブロ・ピカソその人のモデルも務めたことがある」なんて昔話に、全く信憑性がなくなってしまうのも無理からぬ事ではあります。
 「証拠が無くては信じられない」か、「証拠が無くても信じるのが愛ではないのか」と云う議論はどちらが正しいのでしょう。

 そしてダメ押しで隠していた事実が、お決まりの健康状態。
 実はシャーリーは定期的に透析治療を受けている。詳しくは明かされませんが「あの年齢での透析治療は望みが薄い」との見立てに愕然とするクリストファー。
 そして遂に「愛の前には事実か事実でないかなど些細なことだ」との境地に至ります。何より、残された時間がどれくらいなのか判らないので、後悔したくないと云う気持ちの方が勝ったのか。昔のことよりも今の方が大事なのだと、全てを水に流して航空チケットを手配します。行く先は勿論、ローマですね。

 和解し、人生最後になるかも知れないイタリア旅行を敢行する二人です。ローマの名所旧跡を次々に訪れますが、トレヴィの泉には「夜に行かなくてはならない」と主張するシャーリー。あくまでも『甘い生活』の再現にこだわっていますね。
 下準備に「白い子猫」も必要ですし、同じ衣装も用意しなければならない。
 これは単なる聖地巡礼ではないのだと、気合い入れまくり。

 クライマックスが、シャーリー・マクレーンとクリストファー・プラマーがトレヴィの泉を訪れる場面になるわけですが、突然、画面がモノクロになります。そりゃ勿論、『甘い生活』はモノクロ映画ですから、モノクロでなければなりません。
 シャーリー・マクレーンとアニタ・エクバーグ、クリストファー・プラマーとマルチェロ・マストロヤンニが交錯するカット割りがお見事でした。再現度の非常に高い場面です。もはやクリストファー・プラマーが見ているのはアニタ・エクバーグであり、シャーリー・マクレーンとマルチェロ・マストロヤンニが見つめ合っているようにも見えます。

 それにしても、あの御高齢で「当時のアニタ・エクバーグと同じドレス」を着こなすシャーリー・マクレーンの女優根性はお見事と云う他ありません。いや、かなり容色の衰えた年齢で着るには覚悟のいるドレスですよ。堂々と肌を露出しております。見事だけど、あまり見たくなかったお姿でした。イタいし……(汗)。
 そして泉の中でずぶ濡れになって抱き合う二人。長年の夢が成就する、美しいファンタジーでした(もはや現実空間ではないよな)。

 その後のことはもはや意味なしとばかりに時間が飛んでしまう演出も巧いですね。何も云わずに墓地を映すだけで判ってしまう。
 葬儀を終えたクリストファーの元に、シャーリーの息子が現れ、遺言で形見の品として指定されたものを手渡します。全てが虚言だと思いきや、実は真実も含まれていたのだと判明するラストシーン。
 苦笑するクリストファー・プラマーの表情がビターで味わい深いです。
 いや、でもソレは大変な値打ちものでしょう。美術史上の大発見とも云えそうですが、二人の愛の前には些細なことですね。




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2015年4月16日木曜日

はじまりのうた

(Begin Again)

 ジョン・カーニー監督及び脚本による音楽ドラマです。本作の主題歌「ロスト・スターズ」が今年(2015年・第87回)のアカデミー賞歌曲賞にノミネートされておりましたが、残念ながら受賞は逸しております。
 歌曲賞は『グローリー/明日への行進』の主題歌「Glory」でしたが未見なので何とも云えませんデス(但し、アカデミー賞授賞式典での演奏を聴く限りでは、こちらもなかなか良さげではありました)。

 個人的には本作から「ロスト・スターズ」をチョイスしたので歌曲賞受賞を逸したのではないかとの疑念が拭いきれませぬ。本作の劇中歌はどれもこれも素晴らしい曲ばかりなのですが、キーラ・ナイトレイが歌う「テル・ミー・イフ・ユー・ワナ・ゴー・ホーム」がノミネートされていたなら、あるいは……。
 まぁ、ジョン・カーニー監督作品では既に『ONCE ダブリンの街角で』(2013年)がアカデミー歌曲賞を受賞しておりますけどね(こっちも未見なのでカーニー監督作品は本作が初めてデス)。

 落ち目の音楽プロデューサーと失恋したアマチュア・シンガーが出会い、人生の再起を目指して独創的なアルバム製作に挑む。舞台となるニューヨークの随所でストリート・ミュージシャン達が演奏するライブ活動が実に興味深く、「音楽で人生は変わる」を地で行くというストーリーでありました。
 劇中では「音楽の魔法は平凡な景色を特別なものにする」と語られていて、確かにごく普通の街を行き交う人々の画に歌曲を付けると、何やら意味ありげなものに見えてくると云った演出が面白かったです。

 本作の主演はキーラ・ナイトレイとマーク・ラファロでありまして、落ち目の音楽プロデューサーをマーク・ラファロが、失恋したシンガーをキーラ・ナイトレイが演じております。
 ミュージャンを描く映画ですので、劇中では登場人物達が何曲も歌い、また演奏し、本作のサントラCDはかなり聴きものであります。特にキーラ・ナイトレイ自身がギターを演奏しながら歌っております。これはお見事でした(だから余計に「テル・ミー・イフ・ユー・ワナ・ゴー・ホーム」の方が印象的なのですが)。
 また、オリジナルの歌曲以外にも、過去のヒットソングが使用されていたり、本物のミュージシャンも配役に起用されております。
 音楽映画としてはかなり出来のいい作品と申せましょう。

 キーラ・ナイトレイは『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』(2014年)にも出演しておりました。あちらでは暗号解読チームの紅一点として頭の切れる女性を演じておりましたが、本作ではナイーブなストリート・ミュージシャンを演じていて、ぐっと若返っているような印象を受けました。『アンナ・カレーニナ』(2012年)と比べても、本作の方がずっと若く思えます。女優の力量ですね。
 マーク・ラファロは『ブラインドネス』(2008年)や『キッズ・オールライト』(2010年)の頃から記憶に残っておりますが、最近ではやはり『アベンジャーズ』(2012年)のシリーズで超人ハルクことブルース・バナー博士を演じているのが一番有名でしょうか。
 この人もヒゲの有無で年齢がガラッと変わって見えますね。

 キーラの元恋人役で、人気バンド〈マルーン5〉のボーカル・ギターを務めるアダム・レヴィーンが出演しております。劇中でのコンサートの様子はさすがに本職。実は演技の方もなかなか堂に入ったものでした。これが映画初出演とは思えません。
 その上で主題歌「ロスト・スターズ」を歌うので、やっぱりこっちがノミネートされてしまうのでしょうか。劇中ではキーラ・ナイトレイが歌うバージョンも披露されていたのですが。

 本職のミュージシャンとしてはもう一人、有名ラッパーの役としてシーロー・グリーンが顔見せしてくれておりましたが、こちらはあまり出番なし。
 他にも、ジェームズ・コーデンやモス・デフといった俳優が共演しております(モス・デフはミュージシャンの方が本職か)。
 ジェームズ・コーデンは『ワン チャンス』(2013年)で実在のオペラ歌手、ポール・ポッツを演じていたのが忘れ難いですね。本作でもちょっとユーモラスなストリート・ミュージシャンの役です。
 一方、モス・デフはマーク・ラファロと同じ音楽プロデューサーの役でしたので、劇中でラップを披露してくれる場面はありませんでした。残念。

 また、マークの妻子の役でキャサリン・キーナーとヘイリー・スタインフェルドが出演しておりました。
 キャサリン・キーナーは『マルコヴィッチの穴』(1999年)の頃から存じておりますが、最近では『キャプテン・フィリップス』(2013年)でトム・ハンクスの妻役を演じておりました。『25年目の弦楽四重奏』(2012年)では御自身でも楽器を演奏しておられましたが、本作では全くの門外漢の役です。
 ヘイリーちゃんはコーエン兄弟の西部劇『トゥルー・グリット』(2010年)で、アカデミー賞助演女優賞にもノミネートされた、あの少女ですね。たった数年で随分と成長しております。『エンダーのゲーム』(2013年)にも出ておりましたが、出番が短かったのでイマチイ憶えておりませんでした(面目ない)。

 冒頭、とあるクラブで飛び込み的に演奏する女性シンガーの歌を、たまたま客として飲んでいた音楽プロデューサーが耳にすると云う出会いの場面から幕を開けますが、一旦出会いのシーンを描いておいて、そこから双方の過去を説明していくドラマの構成が秀逸です。
 ライブ演奏、そしてタイトルが表示されるオープニング。そこから時間が巻き戻って、まずはプロデューサーであるマーク・ラファロの方から物語が始まります。

 マークは妻子ある身ですが、離婚寸前で別居しているようです。独り身の自堕落な生活を送っており、ティーンエイジの娘からも軽蔑されているのがイタい。
 とあるレコード会社の設立メンバーであるのに、今や会社の経営は相棒(これがモス・デフ)が一人で切り盛りし、マークは疎外されまくりでありますが、これは自業自得ぽい。アーティストとしての閃きはあるようですが、堅実な会社経営に向いてはいないらしい。
 アマチュア・ミュージシャン達が日々、送ってくるデモテープを聴いては「ゴミ」だの「クソ」だの云いたい放題。人の演奏をそこまで貶すお前は何様のつもりかと云いたくなるくらい傲慢で、そのくせ冴えない人生を送っているので、正直ちょっとムカつく野郎です。

 この序盤におけるマーク・ラファロのダメっぷりが実に痛々しい。こんな負け犬人生の冴えない男が主人公で本当に大丈夫なのかと心配になります。
 かつては自身もミュージシャンであり、コンビを組んだ相棒と会社を設立して成功したと説明されていますが、見た目が冴えないのでとてもそうは思えませぬ。
 年頃の娘とも巧くいかず、そのことで別居中の奥さんともまた諍いを起こす。
 踏んだり蹴ったりの日常を紛らわせようと、一杯飲みに立ち寄ったクラブで、たまたまキーラが歌う場面に居合わせると云う趣向で、冒頭に繋がる流れです。

 しかし素人的には、昼間にマークが貶しまくっていたデモテープのミュージシャン達の音楽と、キーラ・ナイトレイがギターを弾きながら歌う歌に、それほど差異があるようには思えなかったのですが。何か根本的に違うところがあったのでしょうか。
 ギターをつま弾きながら歌うキーラを見ていると、マークの脳内でピアノやバイオリンの伴奏が追加されて演奏が補完されていく演出が興味深かったです。
 玄人の耳にはそのように聞こえるみたいですが、観ている側は素人ですのでよく判りませんデス。

 かなり強引に名刺を渡してスカウトしようとするマークですが、最初はなかなか信じてもらえません。そりゃ風采の上がらぬオヤジがプロデューサーを名乗ったところで、胡散臭く思われるのがオチでしょう。
 最近はスマホですぐにネットにアクセスできるので、マークの云ったことの裏付けがその場で確認できるのがイマドキな演出ですね。信じられないことに目の前の胡散臭いオヤジは、かつて二度もグラミー賞を受賞した大物プロデューサーだったのだ。ホンマかいな。
 それでもまだ半信半疑なキーラでしたが、とりあえず連絡先だけ聞いて、その場は別れます。そして帰宅後、スマホをいじってマークの云ったことを検証しながら、スマホの中に記録されている動画を目に留めて再生しているうちに、今度はキーラ・ナイトレイの側の過去が回想で語られていくと云う流れです。

 恋人(アダム・レヴィーン)と二人で組んだユニットの歌曲が、ある映画の挿入歌に使用され、それが評判となってNYにやって来るも、レコード会社は男の方にだけ用があったと判る扱いが哀しい。
 会社から新たな住まいを提供されてもキーラの方は留守番ばかり。その内、恋人の方が仕事で知り合った女性と浮気し始めると云う定番展開です。
 驚くべきは、恋人の歌う歌曲のテープを聴いていてキーラが浮気に気が付く展開ですね。曲を聴き始めて、しばらくすると泣きながら恋人をひっぱたきます。
 ミュージシャンの鋭い耳には、その曲が自分ではない別の女性を想いながら歌っているのが明確に判ってしまうものらしい。問い詰められた恋人の方も隠しておけずにあっさり白状。言葉で言い繕わない、音楽は正直であると云うミュージシャンの態度は潔いと云うべきでしょうか(素人にはよく判らないデス)。

 破局を迎えて飛び出したキーラは、たまたまNYのストリートで歌う学生時代の友人と出会い、そのアパートに居候することになる。当初は友人宅で塞ぎ込むだけの毎日でしたが、見かねた友人が自分のバイト先であるクラブのライブ演奏にキーラを引っ張り出すと云う流れで冒頭のシーンに再び回帰してきます。

 双方の過去を語りながら、何度も冒頭のシーンに戻ってくるワケで、お互いの事情をきちんと説明しつつ、この出会いが僅かなタイミングの差ですれ違っていたかも知れないと感じさせてくれます。運命の出会いだったのか。
 翌日、意を決してマークに連絡を取るキーラですが、連れて行かれたマークのレコード会社では思ったような扱いを受けられません。
 まぁ、堅実な会社経営を続ける相棒(モス・デフ)からすれば、マークがイキナリ田舎出の姉ちゃんを連れてきて、その場でギターを弾かせて「な、凄いだろ?」と云われましても同意しかねるというのは尤もです。
 「ちゃんとしたデモテープを持ってきてくれ」と云われて門前払い。

 これで御破算になるかと思いきや、ここからマークの天才的閃きでストーリーが進行していきます。
 デモテープを通り越し、いきなりアルバム製作に着手するわけですが、予算も何もないのでスタジオなど借りられない。全てをストリートでライブ演奏した楽曲を収録すると云う計画。
 機材、伴奏、すべてを有志によって賄う超低予算企画。基本的にミュージシャンは自分の歌や演奏を聴いてもらえるなら、収入など二の次であると云うアマチュア精神が好ましく描かれております。

 音楽学校の学生や、ストリート・ミュージシャンの友人達を巻き込み、NYの至るところでゲリラ的にライブ演奏を敢行していきます。この過程が実に興味深く、またユーモラスです。
 公園、地下鉄構内、下町の路地裏、アパートの屋上といった場所で、時にはその場に居合わせた子供達にも手伝わせて収録していきます。街角の喧噪すらも音楽の一部として取り込んでいく。どんな音でも音楽になると云う描写が素晴らしいです。ちょっとしたNY観光の気分も味わえます。
 そして出来上がったアルバムが大評判になるのは、もはや云うまでもない。

 当初はどん底のダメ男だったマーク・ラファロが、活動し始めた途端に生き生きと輝いて見えてくるのがお見事でしたが、むしろ序盤のどん底演技はヤリスギだったようにも思えます。
 そしてマークの年頃の娘の悩みにキーラが相談に乗ってやると云った場面もあって、父娘の関係も修復され、更に夫婦仲までもが円満になっていく。
 一方、キーラ・ナイトレイの方も元カレとの関係が修復されるのかとも思われましたが、もはやミュージシャンとして別々の方向に歩み始めた二人は元の鞘に戻ることはない。苦い経験ではありましたが、アダム・レヴィーンの方も無理強いすることなくキーラの決断を尊重する姿勢を見せたので、それほど悪い男ではないか。
 不安が全て払拭されたわけでもないが、誰もが新たな人生に向けて一歩踏み出すと云うエンディングは後味爽やかでありました。

 ところで劇中では「携帯音楽プレーヤーに入れたプレイリストで、そいつがどんな奴だか判る」とマークが語っておりましたが、そうなのか。「本棚の書籍で為人が判る」のと同じことですかね。
 私のウォークマンにはアニソンばかりが入っているのですが、これはどうなんでしょ。




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2015年3月20日金曜日

博士と彼女のセオリー

(The Theory of Everything)

 誰もが知る世界的理論物理学者、スティーヴン・ホーキング博士の伝記映画です。今年(2015年・第87回)のアカデミー賞では五部門(作品賞、主演男優賞、主演女優賞、脚色賞、作曲賞)にノミネートされ、エディ・レッドメインが主演男優賞を受賞しました。それ以外は……残念でしたが。
 主演のエディ・レッドメインがスティーヴン・ホーキング博士の役なのですが、確かに劇中で見せる演技力には並々ならぬものを感じました。
 難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し、段階的に病状が進行していく様子と患者が感じる葛藤を、見事に演じきっておりました。確かにあれは主演男優賞ものでありましょう。

 アカデミー賞の対抗馬の中には、ベネディクト・カンバーバッチ主演の『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』もありまして、こちらは数学者にしてコンピュータの父、アラン・チューリング博士を主役にしており、学者の伝記映画対決と云う意味では、チューリング博士の方を応援していたのですが(カンバーバッチさんだし)。
 受賞結果を知った時点では公開前と云うこともあって、ホーキング博士の方がネームバリューもあるし、難病患者や身障者を演じる場合は採点も甘くなるのでは……なんて邪推もしておったのですが、本作を観てそのような疑念は払拭されました。
 ちなみにカンバーバッチさんも、かつてはホーキング博士役を演じたこともあったそうです(TVドラマですが)。両方、見比べてみたいですね。

 本作の監督はジェームズ・マーシュ。ドキュメンタリー映画『マン・オン・ワイヤー』(2008年)でアカデミー長編ドキュメンタリ映画賞を受賞した監督さんですが、他の監督作品をよく知りませんです。
 ドキュメンタリ作品が多い監督のようですが、『シャドー・ダンサー』(2012年)なんてスパイ映画も撮ってますね(未見デス)。

 『イミテーション・ゲーム』とのアカデミー賞の競合では、作品賞、主演男優賞の他に、作曲賞でも競っておりましたね。
 本作の劇伴は、アイスランド出身の作曲家、ヨハン・ヨハンソン。馴染みのない方でしたが、本作中で聴けるピアノの劇伴は実に美しく、印象的でありました。さすが作曲賞にノミネートされるだけのことはあります。受賞の方は『グランド・ブダペスト・ホテル』でしたが。
 でもゴールデングローブ賞(2015年・第72回)の作曲賞では本作が受賞しました。

 それにしてもエディ・レッドメインがこれほどの演技力を発揮するとは、少々驚きでありました。まさに一世一代、入魂の演技です。
 『マリリン 7日間の恋』(2011年)でマリリン・モンローに恋する青年を演じていたときはまだ初々しい青年でしたし、『レ・ミゼラブル』(2012年)のマリウス役のときはそれほど出番も多くなかったし、あまり記憶に残っておりませんでしたが、本作では相当な存在感を発揮しております(主役ですし)。
 ああ、でもウォシャウスキー姉弟のSF映画『ジュピター』(2014年)の方でもなかなかの存在感をアピールしておりましたね。あの線の細くて屈折したラスボスの役は印象的でした。と云うか、同一人物には見えませんデス。

 ところで本作は邦題がイマイチのような気がします。「セオリー」をそのままカタカナにしてしまうのは如何なものか。
 原題の “The Theory of Everything” (略して TOE)とは「万物の理論」のこと。電磁力、弱い力、強い力、重力という自然界の四つの力を統一的に記述する理論(統一場理論)を指した用語ですが、それは決して「博士と彼女の理論」ではありません。
 まぁ、科学者とその奥さんのラブロマンス的ストーリーに、『万物の理論』とか『統一場理論』なんて邦題を付けても、お客さんは来ないでしょうから、ある程度の変更は仕方ないのでしょうが「セオリー」の部分だけ残されてもなぁ。

 余談ながら、SF者としては『万物理論』と云うと、グレッグ・イーガンの傑作SF小説の方を想起してしまうのですが、一般の方に馴染みは薄いか(と云うか御存知ないでしょう)。星雲賞受賞作品なんですけどね。
 それにイーガンの『万物理論』は原題が “Distress” だしな。誰も訊いてませんねそうですね。

 そもそもホーキング博士と、博士を支えた奥さんの愛の物語に、理論のタイトルを付けるのが間違っている。本作を観ても、物理学的な知識はこれっぽっちも増えたりしませんデス。
 しかもまだこれは証明されていない理論ですよ。現在もまだ研究が進められています。証明できたらノーベル賞確実とも云われているし、「超弦理論」とか「M理論」なんて用語はSF者には馴染みある言葉です。
 劇中では、学生時代のホーキング博士が宇宙論を学ぶ際に、「宇宙を記述するただ一つの式」について言及する下りがありますので、そこから付けられた題名ですが、もうちょっと色気のある題名には出来なかったものか。
 「万物」には「愛も含まれるのか」と云うニュアンスも感じられるのですが。

 スティーヴン・ホーキング博士を描く映画ではありますが、学術的な解説はほとんどスルーされております。一般の人には宇宙論を平易に解説した著作『ホーキング、宇宙を語る』が一番有名でしょうか(私も翻訳が出た当時、買いましたですよ)。
 劇中では出版後ベストセラーになるといった場面もありますが、中身についての解説はありません。
 一応、「ホーキング博士と云えばブラックホール」と云う世間一般的なイメージがありますし、最初に有名になった「ブラックホールの特異点定理」を発表する場面はありますが、学術的な描写は抑えられています。

 個人的には、劇中にロジャー・ペンローズ博士も登場したのが興味深かったデス。
 そりゃまあ、ホーキング博士の伝記ですから、学生時代にロジャー・ペンローズの講演を聴く場面があるのは当然ですね。そして博士号を取得し、ペンローズと知己になり、一緒に特異点定理を発表するわけですから、出さないわけにはイカンですね。
 でもあまり出番は多くなかったのが残念。
 本作に於いて、ロジャー・ペンローズを演じたのは、クリスチャン・マッケイでした。近年では『ラッシュ/プライドと友情』(2013年)や、『パガニーニ/愛と狂気のヴァイオリニスト』(同年)にも出演しておりますが、あまり大きな役ではなかったですね(主役じゃないし)。
 ペンローズ博士の伝記映画も制作されたりしないかな(え、需要がない?)。

 実は他に、キップ・ソーン博士も登場しておりましたが、ペンローズ博士に輪を掛けて出番が短い。演じたエンゾ・シレンティと云う俳優さんにも馴染みなし。
 と云うか、劇中では名前を呼ばれなかったような。クレジットには出てくるのに。
 ホーキング博士と学問上の賭けをしたエピソードも描かれ、ホーキング博士が負けて『ペントハウス』一年分を贈る羽目になったこともチラリと触れられております。
 「裸の特異点が存在するか否か」の賭けだから『ペントハウス』……と云う理由だったのかどうかは本作を観ても判りませんでした(少なくとも字幕上では)。
 キップ・ソーン博士の伝記映画は……まず無理か。クリストファー・ノーラン監督のSF映画『インターステラー』(2014年)の科学考証も務めた人なのですが。関係ないデスカそうですね。

 本作は別に「ブラックホールの特異点」やら「事象の地平線」やらを描くわけではありませんです。もっぱらホーキング博士の為人を描くので、その家族関係の描写の方にスポットを当てております。
 本作でホーキング博士の奥さん(最初の)であるジェーン・ホーキングを演じているのが、フェリシティ・ジョーンズです。
 ヘレン・ミレンが主演したシェイクスピア劇の映画化である『テンペスト』(2011年)で、ヘレン・ミレンの娘役でしたが、それ以外にはあまり記憶にありませんです。『アメイジング・スパイダーマン2』(2014年)にも出演していたのですが、こちらも印象が薄い(ブラックキャットになってくれなかったし)。

 以下、ホーキング家のメンバーとして、サイモン・マクバーニー(父)、アビゲイル・クラッテンデン(母)、シャーロット・ホープ(妹1)、ルーシー・チャペル(妹2)などの皆さんが出演しておられますが、全く馴染みがありませんです。
 奥さんジェーンの母親役のエミリー・ワトソンが一番、馴染み深かったデス。

 しかし学術的な描写が少ないので、本作をスティーヴン・ホーキング博士の伝記として描くことに意味があるのだろうかと疑問に感じたりもしました。
 将来を嘱望された学生であり、画期的な理論で世間の衆目を集めるも、降って湧いた災難のように筋萎縮性側索硬化症であると告げられる。医者の告知は「余命二年」。自暴自棄になり、塞ぎ込むも、恋人の励ましと家族の支えによって立ち直り、遂に結婚。医者が予想した二年を遥かに超えて生存し(まだ存命中ですし)、幾多の困難を乗り越えてゆく……なんてストーリーは、特にホーキング博士に限らずとも可能だったような気がします。
 やはり「実話である」ところにインパクトがあるのでしょうか。

 確かに実在のスティーヴン・ホーキング博士を描いて、「人間の努力に限界はないのだ」とか、「命ある限り希望はある」なんて語られますと、仰るとおりでございますとひれ伏さずにはおられませんからね。一般の人が語るよりも遥かに重みが感じられます。

 ドラマとしては、科学者であるか否かよりも、ALSの症状によって「他人とのコミュニケーションが難しくなっていく」、「自分の考えを伝えることが出来ない」といった葛藤の方が印象的に描かれておりました。エディ・レッドメインの演技はホントに素晴らしいです。
 歩行が困難になり、杖が一本、二本と増えていき、遂に車イスになり、食事も一人では難しくなり、会話もできなくなり、介護する妻も疲れ果てていく。
 そこで専門のヘルパーにお願いすることになるわけですが、これが二番目の妻となるエレイン・メイソン。演じているのはマキシン・ピーク。
 妻ジェーンが夫とのコミュニケーションに困難を感じているのに、スペリングボードを使って容易く何を云わんとしているかを掴み取る才能は大したものです。
 そしてコミュニケーションの出来不出来で愛情もまた移ろうという展開が切ない。

 妻の方でも当初から介護を手伝ってくれた青年ジョナサン(チャーリー・コックス)に心惹かれていくのも、ごく自然な展開であるように描写されております。
 何より、ジョナサンがナイスガイすぎる。謙虚で思い遣りがあって、夫婦仲に割り込むより身を引こうとする奴ですよ。ホーキング博士の方でもジョナサンに悪感情などサラサラ持っていないと描かれております。
 ただ、妻とジョナサンが親しくしているのを見て健常者同士のコミュニケーションに黙って羨望の眼差しを向ける姿が哀しい。コミュニケーションの断絶とは人間関係も破壊するものなのか。
 妻から別れ話を切り出され、「ベストを尽くしたのよ」と云われて、全く責めることの出来ないホーキング博士です。結局、円満に離婚し、またそれぞれ再婚して幸せになるわけで、これが最善の選択でしょうか。

 そして遂に英国女王より勲章を賜ることに。これは大英帝国勲章のことですね。
 実は冒頭のオープニングが、宮殿内を車イスの人物と数人の人影が歩いて行く場面で、これが何なのか明かされないまま、ドラマは一九六三年のケンブリッジに巻き戻るのですが、ラストでまたここに戻ってきて、これが受勲の場面であると明かされる趣向です。
 そして「時間の本質」を追求する科学者らしく、今までの人生が逆回転する走馬燈のように流れ始め、幸せだった学生時代まで遡っていく。
 七二歳でまだ存命しており、今も万物理論を研究中である旨が字幕で語られます。
 エンドクレジットの星雲の映像から、人体内部、脳内シナプスへと流れていくCGが美しく、また星雲に戻ってくると、星々がホーキング博士のシルエットになっているというグラフィックにちょっと感動しました。




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2014年7月14日月曜日

ダイバージェント

(Divergent)

 ベロニカ・ロスのヤングアダルト向けSF小説『ダイバージェント 異端者』が映画化されました。ラノベの映画化と云うのは、近年よく見るパターンですが、どれもSFやホラー色が強いのが映画向きの素材でありますね。
 〈ハンガー・ゲーム〉シリーズもヒットしてますし、トム・クルーズ主演の『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(2014年)なんてSF大作もラノベ原作ですし、ラノベと云えども侮れんデス。
 とは云え、古参のSF者には、本作の基本設定がどうにも古臭く感じられてしまいます。イマドキは一周回って逆に新鮮なのかしら。

 最終戦争後の地球。文明崩壊後、荒野の中にポツンと存在する都市国家と化したシカゴの街は独特の社会システムを採用して命脈を保ち、そのまま一〇〇年が経過した。
 周囲を厳重なフェンスに囲まれ、住民は外界からは隔絶した生活を送っている。
 そして人々は一六歳になると適性審査を受け、五つの共同体のいずれかに所属することで調和を保っていた。

 第一に〈高潔〉(キャンダー)  司法を司る、裁判と調停の専門家集団。
 第二が〈博学〉(エリュダイト) 学問を司る、科学者集団。
 第三が〈勇敢〉(ドーントレス) 軍事・警察を司る、体育会系集団。
 第四が〈無欲〉(アブネゲーション) 行政を司る、禁欲主義集団。
 第五が〈平和〉(アミティ)   食料生産を司る、穏健派集団。

 この五つのグループだけで調和の取れた社会が営まれているという前提からして、かなり寓話的なSFであるのが判ります。こんな古臭い(懐かしいと云うべきか)設定で臆面もなくストーリーが語られるところに軽く驚きました。イマドキでもアリなのか。

 そして主人公も一六歳となり、晴れて成人となるべく適性審査を受けるのだが、五つの共同体いずれにも適さない異端者(ダイバージェント)であると診断されてしまう。しかも異端者は社会の調和を乱すとして、抹殺対象になると知り、正体を隠して生活することを余儀なくされる。
 だがやがて正体は露見し、同時に共同体間の確執も発生し、主人公は社会システムそのものに変革をもたらすものになっていく。
 ──と云うのが大筋ですが、色々と〈ハンガー・ゲーム〉シリーズにも通じる設定と流れが見受けられます。非常にアリガチと云うか。

 でも監督がニール・バーガー。『幻影師アイゼンハイム』(2006年)や『リミットレス』(2011年)の監督さんですので、下手なものは作るまいと思っておりました。結果としては、まぁまぁと云うか、それなりの出来ではありました。
 最近、有名監督がラノベSFの映画化を請け負うことが多くなってきたように思われます。
 つい先日も、あのアンドリュー・ニコル監督が、シアーシャ・ローナン主演で『ザ・ホスト/美しき侵略者』(2013年)なんてのを撮っておりましたね。『ザ・ホスト』は〈トワイライト〉シリーズのステファニー・メイヤーが原作ですから、当然のようにヤングアダルト向けロマンス映画──SFの皮を被った──だったのですが、本作もそこにカテゴライズされるのでしょう。

 ニール・バーガー監督作品ですので、つまらなくはないデス。ただ終わっていないだけ。
 先に書いちゃいますけど、どう見ても続きがありそうなラストでした。書店で原作小説(角川書店)を手に取ると、三部作であると解説されていました。これもか。
 しかも早速に続編『インサージェント(“Insurgent”) 叛乱者』も制作が開始されたそうです。完結編『アリージェント(“allegiant”)』──こちらは「忠誠者」かしら──まで含めて、三部作の原作を四部作にして映画化するところも〈ハンガー・ゲーム〉シリーズと同じというか、あからさまに二匹目のドジョウを狙っております。
 予定調和的で先が読めそうなシリーズですが、そこそこ丁寧に作られておりますし──劇伴がハンス・ジマーとジャンキーXLであるのも大作ぽい──、巧くいけばよろしいのですが。

 主演はシェイリーン・ウッドリー。個人的にジョージ・クルーニーの最高傑作であると信じる『ファミリー・ツリー』(2011年)において、ジョージの娘(お姉ちゃんの方ね)を演じていた方です。
 近年のラノベが原作の映画(SFだけでなく、ホラーやファンタジーも含めて)に出演している若手の女優さんの中では、日本での知名度が高い方ではありませんが──ジェニファー・ローレンスや、シアーシャ・ローナンや、リリー・コリンズに比べればね──、実力はありそうですし、アクションもしっかりしているし、将来が楽しみであります。

 シェイリーンの相手役になるのが、テオ・ジェームズ。ウディ・アレン監督の『恋のロンドン狂騒曲』(2010年)で、アンソニー・ホプキンスの後妻さんを口説こうとしていたイケメン野郎ですね。ケイト・ベッキンセールの〈アンダーワールド〉シリーズにも出演しているそうですが、こっちは二作目以降はスルーしておりまして、よく判りませんデス。
 イギリスの若手俳優で、眉の太い風貌がコリン・ファレルに似ていなくもない(それほどでもないデスカ)。本作では、ヒロインに最初は冷たく当たる、陰のある美形を演じております。なんかキャラの造形がアニメぽいです。

 脇を固めているのが、ケイト・ウィンスレット、マギー・Q、レイ・スティーブンソンといった面々。皆さん、ベテラン揃いですね。
 特にオスカー女優のケイト・ウィンスレットが本作に於ける最大の敵役になっております。配役が豪華なところも、〈ハンガー・ゲーム〉並みですねえ。
 しかし中には出番がそれ程ない人もおられて、なんか勿体ないなぁと思っておりましたが、最初からシリーズ化を視野に入れた配役だと考えれば納得です。

 冒頭から、主人公のナレーションでザックリと背景が語られます。各共同体の特徴を捉えた説明描写が判り易いです。その中でシャイリーンは、行政を司る〈無欲〉の家庭で育ちながら、街を護る〈勇敢〉の集団に憧れております。
 ここで描かれる〈無欲〉は、とにかく禁欲的で、虚飾を排した生活を送っております。まるでアーミッシュのようです。政治的な権力を握っている集団は、これくらいでなければイカンという原作者の理想が反映されているかのようです。全てを人々に奉仕するために人生を捧げた修道僧か求道者のように見受けられます。服装もグレー系で地味ですし。
 それと正反対なのが〈勇敢〉の人々。やたらと元気で威勢が良く、タトゥーも入れまくりで、飛び跳ねるようにして歩いております。ナニがそんなに楽しいのか理解しかねますが、とにかく体育関係の脳筋集団であることは判ります。トレードマークはレッド系。

 見た目の違いがいまひとつ判り辛いのが、〈博学〉と〈高潔〉でしょうか。〈博学〉は科学者とか研究者である一方、〈高潔〉は裁判官とか判事といった趣なのですが、どちらも理性的で論理を重んじる印象です。
 カラーリングからすると〈博学〉がブルー系で、〈高潔〉がホワイト系。どちらも落ち着いた雰囲気なので見分けが難しいです。〈無欲〉くらい地味であったり、〈勇敢〉のように飛び跳ねてくれれば判り易いのですが。
 〈博学〉と〈高潔〉の唯一の差異は虚偽に関することで、〈高潔〉は嘘がつけず、その上に思ったことを全部口にしてしまうそうです。逆に云うと、〈博学〉は思慮深いが、腹に一物あると云うことか。

 本作中、最も出番が無いのが〈平和〉の人達です。イエロー系の服で固めた農民といった風情ですが、素朴で穏和なだけに争いごとから遠く離れ、おかげでストーリーからも遠ざかっております。
 実は本作は、〈無欲〉と〈博学〉と〈勇敢〉の三つの共同体が主に関わってくるストーリーになっていて、〈高潔〉と〈平和〉は単なる背景設定な扱われ方です。シリーズの第一作目であるからいいようなものの、これだけではせっかくの設定が活かされておりません。
 今後の続編ではスポットが当たったりするのでしょうか。

 更に、共同体は五つしかないと云われながら、実は他に二つ登場します。
 それが〈無派閥〉と〈異端者〉。どちらも五つの共同体のいずれにも属することが出来ない人々ですが、〈無派閥〉は社会のお荷物的なホームレスであると描かれています。非常に貧しく、覇気がなく、〈無欲〉の人達から施しを受けながら生活しているらしい。
 最後が〈異端者〉で、こちらは正体を隠して社会に潜伏しています。共同体を構成することがなく、個人で行動するが、社会の調和を乱す者であると云われている。
 しかし、もっぱらそう主張しているのは〈博学〉のグループだけのようですが。

 本作に於ける敵役は〈博学〉であり、その筆頭がケイト・ウィンスレット。冒頭から〈無欲〉による政権運営に疑義を唱え、〈博学〉によるクーデターを画策しているようです。
 〈異端者〉はその〈博学〉の計画の支障になるらしいので、排除の対象とされているらしい。各々の共同体は、その特質から行動を予測しやすいが、〈異端者〉は規格外であるので、予測不能なところが忌み嫌われている……と云うのが実に判り易い説明です。
 しかし余りにも単純な図式にされてしまった背景が、ツッコミ処満載でして、如何なものかと思われます。

 そんな五つの共同体だけで人類の存続が図れるのか、人間の多様性を否定しまくって大丈夫なのか。設定があまりにも恣意的に感じられてしまいます。寓話だからと無理に納得してもキツいデス。
 第一、そんな社会システムが一〇〇年も続くものなのか。すぐに破綻してしまうのでは。
 逆に、一〇〇年間安定した盤石のシステムであるなら、ケイト・ウィンスレット如きが画策するお手軽な方法で(すごく判り易い)、簡単にひっくり返すことが出来るとも思えないのですが。
 ナニもかも御都合主義的なところを、ナマ温かい目で見守ることが出来ないと本作の鑑賞は難しいように思われます。「ラノベだからラノベだからラノベだから」と唱えてから鑑賞することをお奨めします(こんなこと書くから「ラノベ差別主義者」と云われるのだ)。

 とりあえず主人公は自分の共同体を選択する際に、前々から憧れていた〈勇敢〉を選択する。兄は〈博学〉を選択し、二人の子供は親元を離れて行ってしまう。
 劇中では「九割以上が生まれ育った共同体を選ぶ」と云われておりましたので、この兄妹の選択が特異なものなのかと思われましたが、ストーリーが進行していくと、やたらと例外が現れてくるので笑ってしまいました。
 同じ〈勇敢〉を選択した同期の中にも、他の共同体からの移籍組がいるし、最初はクールな奴として登場したテオ・ジェームズと恋仲になったら、実はテオも過去を隠した移籍組だったり、終盤のクライマックスでは自分の母親(アシュレイ・ジャレッド)さえもが実は……って、何故そんなに例外が多いのか。
 逆に〈無欲〉に生まれ育ち、行政の長を勤め上げた主人公の父親(トニー・ゴールドウィン)の「筋金入りの無欲」っぷり──仲間のためには自らの安全をまったく考慮しない潔さ──が、物凄く印象的でした。おかしいな。フツーはそういうのが標準だと語られていたはずなのに。

 穴のあるところにツッコミ入れていけばキリがないし、まだ第一作目ですから、色々と仕掛けがあるのかも知れません。原作小説は未読なもので。
 文明崩壊後一〇〇年経つのにシカゴの高層ビル街が荒れ果てながらも、ほぼそのまま建っていたり(無人のようですけど)、高架鉄道が動き続けていたりします(車両は未来ぽいデザインでしたが)。これは監督が背景の「シカゴらしさ」を強調したくて残したもののようです。
 ところどころ印象的なビジュアルがあったりしますが、基本的には若者達の色恋沙汰がメインですので、あまり本筋には絡んできそうにありません(それが伏線だったら凄いデスが)。

 一番、気になるのはシカゴの街を取り囲む厳重なフェンスの存在です。一体、何故シカゴは孤立しているのか(実は隔離されているのか)。街の外には何があるのか、本作だけではまったく語られません。
 ケイト・ウィンスレットの野望を挫き、間一髪でクーデター計画を阻止した主人公達ですが、〈異端者〉であることが露見し、シカゴにいられなくなる。
 ラストで愛する者と共にシカゴを去るシェイリーン達はいずこへ向かうのか。本作だけでは「壮大なストーリーは始まったばかり」的なプロローグなので、続きを待ちたいと思います(でも過度な期待は禁物かな)。




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2013年8月18日日曜日

愛さえあれば

(Den skaldede frisor)

 陽光きらめく南イタリアを舞台にしたユーモア・タッチの恋愛映画です。でも監督はデンマークのスサンネ・ビア。実は本作はデンマーク映画です。
 最近、デンマーク映画づいております。先日も『ロイヤル・アフェア/愛と欲望の王宮』(2012年)を観たばかりですし。
 それにしてもスサンネ・ビア監督と云えばシリアス作品の監督と云うイメージの強いお方でしたが──『未来を生きる君たちへ』(2010年)が強烈すぎたか──、ラブコメも撮るのか。
 いや、そんなに笑えるコメディではありませんでしたね。ロマンティック・コメディくらいか。

 主演はピアース・ブロスナンとトリーヌ・ディルホム。
 トリーヌ・ディルホムは、『未来を生きる君たちへ』にも出演しておられましたが、その相手役が五代目ジェームズ・ボンドとはちょっと意表を突かれました。
 ピアース・ブロスナンが出演するとなると、ロマンティック・コメディと云われても違和感がありません。でもジェームズ・ボンドも今や六代目に代替わりしている今、ブロスナンも若干、老けておられます。うーむ。ブロスナンが初老の男性役かぁ。

 本作では、ブロスナンは仕事一筋の実業家の役です。デンマーク在住のイギリス人と云う設定で、劇中でも英語を喋っております。ブロスナンの経営する会社では社員も皆、英語(やはり外資系企業だからか)。本作は、劇中では英語とデンマーク語が飛び交っております(イタリア語も少し)。
 ブロスナンは奥さんを亡くしてもう長く、企業経営に没頭して、一人息子とは長いこと連絡も取っていない。その息子から南イタリアで挙式すると云う連絡が届く。

 ちなみに、ブロスナンの会社は野菜や青果物といった生鮮食品の輸入を取り扱う企業であり、イタリア産のレモンから始めて、ブロスナンが一代で築いたと云う設定です。
 劇中では、このレモンが大きく扱われ、タイトルバックにもレモンイエローの色が印象的に使われておりました。また、南イタリアが主な舞台であるので、オープニングから名曲「ザッツ・アモーレ(That's Amore)」が流れております(ディーン・マーティンではないけど)。

 一方、トリーヌ・ディルホムの方は長らく乳癌を患い、過酷な闘病生活が続いた美容師の役です。抗ガン剤治療の為、頭髪が抜け落ちてウィッグを着用している姿が痛々しいです。医者との会話では病巣の切除手術も行われたらしい。
 しかし苦労の甲斐あって治療も一段落(まだ完治したかどうかは定かでは無い)。娘が近く南イタリアで挙式すると報せを寄こしており、夫婦揃って出席するのを楽しみにしている。
 が、家に戻ってみれば、亭主は若い愛人と浮気の真っ最中。これはショックでしょう。開き直る亭主の言動も許せませんです。結局、トリーヌは一人で南イタリアに向かうことになる。
 ちなみにこの亭主役は『未来を生きる君たちへ』にも出演していたキム・ボドニア。ポール・ジアマッティ似のオヤジ俳優です(いい面構えだ)。

 挙式する予定の若いカップルが、ブロスナンとトリーヌの息子と娘であるのは明白ですね。
 そして傷心のトリーヌと、人生を楽しむことを忘れてしまったブロスナンが、南イタリアで双方の家族として対面し、次第に惹かれ合っていく──と云うストーリーが容易く予想できるテッパン展開です。
 しかし南イタリアが舞台で、娘の結婚式で、ピアース・ブロスナンが出演すると云うと、どこかで見たようなシチュエーションです。本作はアバの歌曲抜きの、スサンネ・ビア版『マンマ・ミーア!』といった趣です。

 南イタリアを舞台にした映画は背景が美しいので、それだけで出来が三割増しくらいに感じられます。本作でも、若いカップルが挙式する味わい深い家屋と、窓の外に広がる一面のレモン畑と云うビジュアルが素晴らしいです。
 設定上、ここはブロスナンが起業した最初の場所であり、かつて暮らしていた家であったことになっています。果樹園に囲まれた庭で披露宴のパーティが行われるのもイイ感じです。
 アマンダ・セイフライド主演の『ジュリエットからの手紙』(2010年)の一場面を思い出します(フランコ・ネロとヴァネッサ・レッドグレイヴのパーティの場面ね)。

 本作は序盤と終盤に少しコペンハーゲンでの出来事が描かれるだけで、あとは全て南イタリアの風光明媚な背景を楽しむことが出来ます。歴史ある街の景観や、海岸の風景も美しい。
 本作の舞台は南イタリアのソレントと云う街。よく映画の舞台になるトスカーナ地方からもう少し南に下ったナポリ近郊の海沿いの街です(ナポリ湾に面している)。よくは存じませんでしたが、近くにはアマルフィ海岸もあると云うから、そりゃ美しい筈か。
 しかし自然は美しいが、人間関係はそうでもない。

 招待を受けた双方の家族がやって来るわけで、新婦側には親戚はいないが、新郎側には騒がしい親類が付いてくる。ブロスナンの亡き妻の妹という叔母さんが、なかなかけたたましい人です。どこの親類縁者の中にも一人くらいいそうなお喋りで仕切り屋なオバチャン。
 この叔母さんを演じているのはデンマークの人間国宝級女優パプリカ・スティーン……だそうですが、存じませんでした。すんません(汗)。

 更にトリーヌの亭主も遅れてやって来ますが、愛人を連れたままです。如何に「結婚式には花嫁の父が必要である」と云われても、愛人同伴とは非常識にも程がある。
 しかもこの愛人も面の皮が厚いのか、「もうじき自分も結婚する」などと吹聴するものだから、ブロスナン側の叔母さんにエサを与えているも同然な状態。

 招待客が集まってから挙式までの三日間、果たして無事に式は挙げられるのか。きっと結婚式は只では済むまい。そしてそのとき、双方の家族はどうなってしまうのか。
 ……と、かなり期待するところもあったのですが、予想したほどスラップスティックなコメディにはなりませんでした。もっと無茶苦茶になっても不思議では無いくらい、難儀な面子を揃えてくれたのですが、ストーリーはもっぱらブロスナンとトリーヌがメインで、その他の親戚一同にはあまり出番がありません。
 コメディではお馴染みのドタバタ出来そうな設定が色々あるのに、ちょっと勿体ない感じです。
 新郎のゲイ疑惑など、筋の運び具合によっては爆笑もののコメディにも出来たのに。

 やはりスサンネ・ビア監督の性分でしょうか。本作で描かれるのは、落ち着いた大人の恋愛模様なのです。
 まずは空港での第一印象のよろしくない出会いから始まり、ソレントへの道中、片時もケータイを手放さずにビジネス・トーク全開のブロスナンを見て、更に印象が悪くなっていくと云うのはお約束ですね。
 それでも果物の中ではレモンが好きと云う、意外な共通点を見いだして意気投合します。

 やがてブロスナンが妻を亡くした経緯を知り、悪かった第一印象も次第に上方修正されていく。これには風光明媚なソレントの景観も寄与しているようで、本作はちょっとした観光映画でもあります。
 また、トリーヌの方も自身の病歴を明かし、完治したわけでは無いことを告げる。実は最終検査の結果待ちで不安なところもある。頭髪が抜け落ちてしまっていることを知ってもドン引きしないブロスナンが男らしいです(他にも色々とショッキングなものを見るのですが)。

 そして親同士が親密になっていく過程が描かれていく一方で、結婚式の主役であるべき若いカップルの方に暗雲が立ちこめ始める。挙式を目前に控えて不安になる、と云うのはよくあるハナシですが、新郎のゲイ疑惑が実は疑惑ではなくなったのがシャレでは済みません。
 挙式の手伝いをしてくれる友達から、前夜のパーティで告白され──と云うか強引にキスされてしまい──ソッチの道に目覚めてしまう。
 元より、何となくそのケがあったのは新郎も自覚していたようですが、敢えて押さえ込んでいたようです。それが南イタリアの開放的な空気の中で開花してしまう。

 父子家庭の中で育ち──しかも父はビジネス一筋──、父親の気を引こうと優等生であり続けようとした息子の苦悩が語られ、当日の朝の土壇場になって息子の心情が吐露される。その中で父と子の絆も再確認される……のは感動的ですが、もはやこれはシリアスなドラマです。
 覚悟を決め、列席した親族一同の前で挙式のキャンセルが告げられます。何とも後味の悪い、白けた雰囲気のまま破談となります。
 こんな状況ではトリーヌとブロスナンの仲も進まず、その場は解散。あまりコメディとも云い難い雰囲気ですが、もはやこうなっては乾いた笑いしか出てきませんですかねえ。

 では、デンマークに戻ってから仕切り直すかというと、まだ紆余曲折が残っています。
 トリーヌは浮気した亭主から許しを請われて縒りを戻そうか迷ってしまう。しかしビジネスに戻ったブロスナンは息子の一件もあって仕事に没頭することが出来ず、何よりトリーヌのことが思い出されて仕事も虚しい。
 意を決してトリーヌの職場である美容院に出かけていき、遂に告白するも、その場でOKはもらえず。一旦は失意のまま、ソレントのレモン果樹園に独りで帰るブロスナンです。

 普通、他の従業員や客が隣で聞いているのに──ワクワクしながら聞き耳立てているのが映画的ですねえ──告白するなどと云うシチュエーションでは、その場でOK、そのままハッピーエンドに雪崩れ込むのがお約束だと思ったのに。
 何事も大人の恋愛はすんなり行かないというのが本作の云わんとするところなのか。人生は色々と行きつ戻りつ、簡単ではないのは判りますが、どうにもロマンチック・コメディぽくありませんです。

 ヒロインが決心するのがちょっと遅いのではないかとの誹りは免れない気がします。浮気者の亭主に、元の鞘に戻ったと安心させてからひっくり返してやるのは痛快ではありますが、意地悪が過ぎるでしょうか。
 結局、病院からの検査結果が届いたことを契機に家を出て行くトリーヌ。そのままソレントへ戻ると果樹園ではブロスナンが地道に働いています。以前のように非人間的に働くマシーンのような様子はもうない。
 美しい海岸を眺めながら、二人して抱き合って座る。
 「残された時間が一〇分でも三〇年でも、気持ちは変わらないよ」と告げてブロスナンは検査結果の入った封筒を開封します。結果は──

 トリーヌの癌は再発したのか、完治したのか、それはもはや重要ではありませんですね。
 再び流れる名曲「ザッツ・アモーレ」と共にエンディング。中盤までのコメディ要素は必要無かったのではと思うくらいロマンチックなエンディングでした。


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