監督及び脚本はマイケル・ラドフォード。イタリア映画『イル・ポスティーノ』(1994年)の監督ですが、御本人はイギリスの方です。ついでに、本作は米国製。
しかし元を辿ると、本作はスペイン・アルゼンチン合作の『Elsa y Fred』(2005年)のリメイクなのだそうな。元の映画を全く存じませんのですが(多分、日本未公開ね)、原題がそのまんまですね。
タイトルは二人の高齢者の名前でして、エルサ役がシャーリー・マクレーンで、フレッド役がクリストファー・プラマーです。まぁ、日本語でそのまま『エルサとフレッド』にしてはよく判りませんから、邦題がガラッと変わっているのはよろしいのでは。内容をよく表した邦題であると思います。
とは云え、専らストーリーの舞台となるのはアメリカのニューオーリンズでして、イタリアのローマではありません。題名の「トレヴィの泉」は、シャーリー・マクレーンが「いつか訪れてみたい憧れの場所」として劇中で語られています。
しかし最近じゃ「トレヴィ」なのか。「トレビ」じゃイカンのか。
云わずと知れたローマ観光の名所でありまして、ローマを舞台にした映画ではよくお目に掛かりますね。有名なところだと、やはりオードリー・ヘップバーン主演の『ローマの休日』(1953年)でしょうか。
もうひとつ、古典的な作品でトレヴィの泉が登場しているのが、フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』(1960年)。しかしイマドキは『甘い生活』と云うと、フェリーニより先に弓月光のコミックスなのか(全く無関係デスガ)。
フェリーニ監督の『甘い生活』は、主演がマルチェロ・マストロヤンニとアニタ・エクバーグでした。うーむ。懐かしすぎる。
マルチェロ・マストロヤンニは随分と前にお亡くなりですが(1996年12月19日逝去)、アニタ・エクバーグがつい最近、お亡くなりになっていたとは存じませんでした(2015年1月11日逝去)。
個人的にアニタ・エクバーグの出演作品としては、『甘い生活』よりも『火曜日ならベルギーよ』(1969年)の方が好きなのですが、それは関係ないデスカ。
実は本作では、このフェリーニ監督作品が重要なモチーフとして使用されています。劇中に於いて『甘い生活』の場面は何度も引用されたりしておりますし、本作のオープニングからしてタイトルバックには、水の流れに『甘い生活』の場面がプロジェクターで映し出されております(泉に映しているようなイメージですね)。
流れる水にモノクロ映像のアニタ・エクバーグの横顔が映し出される、なかなかファンタスティックな演出でした。
さて、ドラマはニューオーリンズのとあるマンションに住まう未亡人シャーリー・マクレーンの隣の部屋に、新たな入居者としてクリストファー・プラマーが引っ越してくるところから始まります。
シャーリー・マクレーンはベン・スティラー監督・主演の『LIFE!』(2013年)でもお元気な様子が伺えましたが、本作でも元気なお婆ちゃんを演じております。成人した息子が様子を見に来たりしておりますが、特に同居することも無く、割とお気楽な老後を過ごしております。
それと正反対なのがクリストファー・プラマー。長年連れ添った奥さんを亡くしたばかりと云う設定で、常に苦虫をかみつぶしたような表情の、無愛想極まりなしな頑固ジジイを演じております。『人生はビギナーズ』(2010年)の和やかなお爺ちゃんとは一転しておりますね。
性格も対照的、水と油な二人の男女が隣人同士になり、互いに袖振り合う内に親しくなり、やがて恋愛関係に発展していくという、誠にベタなロマンス映画の王道のような展開であります。あまり意外な展開にはなりませんが、そこは双方共にオスカー俳優ですから、ありきたりのようでいてしっかりと笑いも取りつつドラマを引っ張ってくれます。
加えて、高齢者ならではの、余生、余命と云った問題も描かれていて、決してハッピー一辺倒ではありませんが、ビターな味わいもまた余韻があってよろしいかと。
主演の二人の他には、スコット・バクラ、マーシャ・ゲイ・ハーデン、ジョージ・シーガルといった方々が共演しております。
シャーリー・マクレーンの息子役で、お堅いビジネスマンなのがスコット・バクラ。TVシリーズ『スタートレック : エンタープライズ』のジョナサン・アーチャー船長としてSF者には馴染み深い。
クリストファー・プラマーの娘役がマーシャ・ゲイ・ハーデン。この人は、フランク・ダラボン監督の『ミスト』(2007年)での狂信的なおばちゃん役が忘れ難いデス(SF者ですから……)。
クリストファー・プラマーの旧友のドクター役は、ジョージ・シーガル。まだまだお元気そうで何よりデス。
あと出番は短いですが、ウェス・アンダーソン監督の『ムーンライズ・キングダム』(2012年)に出ていたジャレッド・ギルマンくんがクリストファーの孫の少年役で顔を見せておりました。
最初は無愛想で取っつきにくい隣人だったクリストファーですが、些細なことがきっかけになり、次第にシャーリーと親しくなっていく。ろくに外出もせずに「私は生きる屍なんだ」と引き籠もりなクリストファーに、あれこれとお節介を焼き「あなたに生きる意味を教えてあげる」などと引っ張り出すシャーリー。
一方的にクリストファー・プラマーの方が振り回されておりますが、やがて塞ぎ込んでいた爺さんにも変化が訪れ、明るくなっていくのはいいことです。その過程で互いの趣味も判ってくる。
恋愛映画で、過去の名作を引用する演出は、トム・ハンクスとメグ・ライアン主演の『めぐり逢えたら』(1993年)などでもやっておりましたね(割とよくある演出なのか)。あちらでは、ケーリー・グラントとデボラ・カー主演の『めぐり逢い』(1957年)が盛んに引用されておりました。
本作では、それが『甘い生活』になっている。何故、『甘い生活』なのかは不明です。そりゃ、アニタ・エクバーグは超絶に美人でしたけどね。だったら『火曜日ならベルギーよ』でもエエやん(いや、そっちにはマストロヤンニいないし)。
シャーリー・マクレーンは「いつか自分もトレヴィの泉を訪れ、アニタ・エクバーグのように泉の中に入って、ずぶ濡れになりながらマルチェロ・マストロヤンニとラブシーンを演じてみたい」なんて願望を口にしております。
それを聞いてクリストファー・プラマーとジョージ・シーガルが、じいさん二人で『甘い生活』をビデオで鑑賞し、「これのどこが面白いんだ」なんて云い合っている図が笑えました。まぁ、フェリーニ監督の代表作ではありますが……。
しかし、かなりミーハーな願望ではあります。
題材に『甘い生活』なんて古典的名作を引用しているので、それなりに納得してしまいますが、つまるところシャーリー・マクレーンは聖地巡礼がしたいワケで、これはイマドキのアニメファンでもやっていることでしょう。
すると将来、五人の婆さんが「滋賀県犬上郡豊郷町の旧豊郷小学校で軽音楽のライブがしたい」なんてストーリーをやっても許されるのか。あるいは六人の高齢者が「埼玉県秩父市の札所一七番定林寺で……」とか、「死ぬまでに一度は、石川県金沢市の湯涌温泉に……」とかいうのもアリなのか。でも「茨城県大洗町で戦車に乗って旅館に突撃する」のは犯罪デス(解説は不要ですよね)。
しかし明るく剽軽なシャーリー・マクレーンには、隠していることが幾つかあったのだ……と云うところで、二人の間に危機が訪れる。これまた定番の展開。
まず、お調子者で話し好きなシャーリー・マクレーンの語ったことには、かなりの割合で事実では無いことが含まれているのが判る。序盤の小さな交通事故について、口から出任せ式にあること無いこと並べ立てて喋っている場面があり、その程度ならコメディ・タッチの演出として許容できたのですが……。
色々なことに嘘が含まれている。その最たるものは「実は未亡人ですらなかった」ことでしょう。
互いに連れ合いを無くした独り身同士と思っていたら、随分と前に亡くなった筈の旦那さんが現れ、単に別居していただけだと判明する。夫の浮気が原因で離婚したというのも事実ではない。
この突然、出現する亭主の役はジェームズ・ブローリンが演じております。何となくジョシュ・ブローリンに似ている……って、親父さんだから当たり前か。
「あの女は幻想に生きているんだ。私と同じ間違いを犯すな」と忠告されるクリストファー。
今まで話してくれたことが全部信じられなくなるのはやむを得ないことです。しかし問い詰められても全く悪びれないシャーリー。
「事実と多少ずれていてもいいじゃない」と逆に開き直られる。うーむ。真面目な人にはちょっと許せない態度ですね。「多少」の範囲が一般よりもアバウトすぎる。
しかし「辛い現実に直面するよりも、ファンタジーの方を選ぶ」と云うのは理解出来なくもないし、一概に虚言癖だと決めつけるのも如何なものか。
とは云え、「若い頃には画家のパブロ・ピカソその人のモデルも務めたことがある」なんて昔話に、全く信憑性がなくなってしまうのも無理からぬ事ではあります。
「証拠が無くては信じられない」か、「証拠が無くても信じるのが愛ではないのか」と云う議論はどちらが正しいのでしょう。
そしてダメ押しで隠していた事実が、お決まりの健康状態。
実はシャーリーは定期的に透析治療を受けている。詳しくは明かされませんが「あの年齢での透析治療は望みが薄い」との見立てに愕然とするクリストファー。
そして遂に「愛の前には事実か事実でないかなど些細なことだ」との境地に至ります。何より、残された時間がどれくらいなのか判らないので、後悔したくないと云う気持ちの方が勝ったのか。昔のことよりも今の方が大事なのだと、全てを水に流して航空チケットを手配します。行く先は勿論、ローマですね。
和解し、人生最後になるかも知れないイタリア旅行を敢行する二人です。ローマの名所旧跡を次々に訪れますが、トレヴィの泉には「夜に行かなくてはならない」と主張するシャーリー。あくまでも『甘い生活』の再現にこだわっていますね。
下準備に「白い子猫」も必要ですし、同じ衣装も用意しなければならない。
これは単なる聖地巡礼ではないのだと、気合い入れまくり。
クライマックスが、シャーリー・マクレーンとクリストファー・プラマーがトレヴィの泉を訪れる場面になるわけですが、突然、画面がモノクロになります。そりゃ勿論、『甘い生活』はモノクロ映画ですから、モノクロでなければなりません。
シャーリー・マクレーンとアニタ・エクバーグ、クリストファー・プラマーとマルチェロ・マストロヤンニが交錯するカット割りがお見事でした。再現度の非常に高い場面です。もはやクリストファー・プラマーが見ているのはアニタ・エクバーグであり、シャーリー・マクレーンとマルチェロ・マストロヤンニが見つめ合っているようにも見えます。
それにしても、あの御高齢で「当時のアニタ・エクバーグと同じドレス」を着こなすシャーリー・マクレーンの女優根性はお見事と云う他ありません。いや、かなり容色の衰えた年齢で着るには覚悟のいるドレスですよ。堂々と肌を露出しております。見事だけど、あまり見たくなかったお姿でした。イタいし……(汗)。
そして泉の中でずぶ濡れになって抱き合う二人。長年の夢が成就する、美しいファンタジーでした(もはや現実空間ではないよな)。
その後のことはもはや意味なしとばかりに時間が飛んでしまう演出も巧いですね。何も云わずに墓地を映すだけで判ってしまう。
葬儀を終えたクリストファーの元に、シャーリーの息子が現れ、遺言で形見の品として指定されたものを手渡します。全てが虚言だと思いきや、実は真実も含まれていたのだと判明するラストシーン。
苦笑するクリストファー・プラマーの表情がビターで味わい深いです。
いや、でもソレは大変な値打ちものでしょう。美術史上の大発見とも云えそうですが、二人の愛の前には些細なことですね。
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