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2016年6月11日土曜日

シークレット・アイズ

(Secret in Their Eyes)

 フアン・ホセ・カンパネラ監督によるアルゼンチン製サスペンス映画『瞳の奥の秘密』(2009年)のハリウッド・リメイク作品です。同作はアカデミー賞外国語映画賞(第82回・2010年)を受賞しております。
 あの年のアカデミー賞はキャサリン・ビグロー監督の『ハート・ロッカー』が最多受賞作品で話題を掠っておりましたですね。他にはジェームズ・キャメロン監督の『アバター』もありました。
 カンパネラ監督が受賞スピーチで「『アバター』が外国語映画に入っていなくて本当に良かった」なんて冗談を飛ばしていたことを思い出します。

 あれから六年経って、『瞳の奥の秘密』が本作『シークレット・アイズ』としてリメイクされたわけですが、たまたま私、『瞳の奥の秘密』も観ておりまして、アレがどうのようにリメイクされたのか気になって観に行った次第デス。
 かなり換骨奪胎された感がありますが、背景をアルゼンチンからアメリカに移し替え、不自然にならないように配慮した結果だろうと思われます。これはこれで巧い移植の仕方ですね。
 オリジナル版のカンパネラ監督は本作の製作総指揮を務めています。

 代わって監督を務めているのがビリー・レイ。『ニュースの天才』(2003年)、『アメリカを売った男』(2007年)に続いて本作で監督作品が三作目になる方ですが、脚本家としてのクレジットされる作品の方が馴染み深いです。
 近年の脚本では『フライトプラン』(2005年)とか、『消されたヘッドライン』(2009年)、『ハンガー・ゲーム』(2012年)、『キャプテン・フィリップス』(2013年)と、なんかサスペンス映画が多いです。割と社会派寄りであるのも特徴でしょうか。
 本作でも、事件の背後に社会情勢や政治情勢が色濃く影を落としているように描かれています。自分で脚本も書いておられるので、余計にそうなるのか。

 その意味では本作がビリー・レイ監督・脚本であるのは正解であると申せましょう。
 オリジナルのアルゼンチン映画の筋立てをアメリカに持ってくるに当たり、脚本にかなり変更が加えられておりますが、それもやむを得ませんですね。アルゼンチンとアメリカでは歴史も風土も異なりますから。そのまま移植は出来ませんデスね。
 革命やらクーデターが繰り返されたアルゼンチンの世相を反映した描写をそのままアメリカに持って来るのは難しいでしょう。

 オリジナル版では、ビデラ将軍による軍事クーデター(1976年)前の一九七四年のブエノスアイレスで起きたとあるレイプ殺人事件の捜査と、四半世紀が経過し民政移管された一九九九年になってからの事件の顛末を交互に描く構成のミステリ・サスペンス映画でありました。
 社会的な背景として、犯人逮捕後に軍事政権が発足してしまい、せっかく逮捕した犯人が恩赦を受けて釈放されてしまうと云う流れが、いかにも動乱の時代を背景にしたミステリ・サスペンスらしかったです。何となく松本清張の推理小説のような感じがします。
 そして、現在と過去の間に経過した二五年という歳月が重たくのしかかってくる結末が、実にやりきれない苦い結末でありました。

 さて、この背景をアメリカに持ってくるのに選ばれたのが、二〇〇二年のLAであるのが興味深い。巧い時代背景であると感心しました。
 二〇〇一年の911同時多発テロから数ヶ月後。アメリカは対テロ捜査に血道を上げ、街角には防犯カメラを設置しまくり、主な政府機関の建物の前には迷彩服を着て武装した兵士が厳重に警戒している様子が背景に描かれております。セキュリティのチェックも実に厳しい。
 警察もFBIも、対テロ捜査であれば多少の人権無視も差し支え無し。「ビンラディン」と「フセイン」と「炭疽菌」に人々がビクビクしていた頃です。
 特に理由が無くてもイスラム教のモスクは監視対象とされ、イスラム系の皆さんが肩身を狭くしていた頃のストーリーとなりました。

 社会が重苦しい雰囲気に包まれていた頃、という条件が見事に再現されております。しかしその所為で、二五年という歳月を隔てることが出来なくなったのがちょっと辛いですね。
 本作の製作が二〇一五年なので、近未来を舞台にでもしない限り、それは出来ない。頑張っても一三年しか経過させられない。
 したがいまして本作では、二〇〇二年のLAで発生したレイプ殺人事件の捜査と、一三年が経過してからの顛末が描かれるという展開になりました。まぁ、一三年でも長いことは長いですけど、二五年の半分か。

 オリジナル版より時間経過が短いので、真相が判明してからのインパクトが若干軽いような気もしますが、それは詳細に比較しようとするからであって、御存知ない方が観ればそれなりに身の毛がよだつのではないか。
 逆にこの設定が良い方向に作用している面もあります。一三年程度の時間経過だと、出演している女優の皆さんにキツい老けメイクは不要であるのが有り難い。
 特に主要な配役がニコール・キッドマンとジュリア・ロバーツですので尚更か。

 もう一人、キウェテル・イジョフォーも出演しております。『それでも夜は明ける』(2013年)でアカデミー主演男優賞を受賞しておりますね。最近では『オデッセイ』(2015年)でNASAの火星探査統括責任者を演じておりました。
 ニコール・キッドマンとジュリア・ロバーツもアカデミー主演女優賞を獲った経歴の持ち主ですし、本作は主要な配役がオスカー俳優で固められた豪華な配役です。

 以下、共演がアルフレッド・モリーナ、マイケル・ケリー、ディーン・ノリスといった味わい深い中年の皆さん。ぶっちゃけニコール・キッドマンとジュリア・ロバーツ以外は野郎ばかりの映画でありますから、何気にオヤジ度の高い映画でもあります。
 何とかオヤジ度を下げようと、レイプ殺人の被害者役にゾーイ・グラハムを配しております。『6才のボクが、大人になるまで。』(2014年)では成長した主人公の恋人役として登場しておりましたね。
 本作ではゾーイはいきなり死体として登場しますが、ジュリア・ロバーツの愛娘という設定ですので、捜査の合間にもジュリアの回想シーンで生前の様子が何度か挿入されております。

 そして印象的なのが、容疑者役としてジョー・コールというイギリスの若手俳優が起用されていることでしょうか。若いのになかなかの存在感を放っております。
 線が細く、長髪で神経質な感じ。本作では更に陰湿で病的なオーラを放っているのが薄気味悪いですが忘れ難い。色々と出演作もあるそうですが、日本未公開が多いようです。

 まずは冒頭、キウェテル・イジョフォーが犯罪者リストらしいものをパソコン画面で閲覧している場面から始まります。膨大な量の顔写真を次から次へ映しながら、誰かを探している。
 流れていく顔写真の合間に、何やら忌まわしい記憶のようなものがチラチラとフラッシュバックしております。ある時点で、遂に目当ての人物を見つけたらしい。
 そしておもむろに資料をまとめてニコール・キッドマンの元を訪れる。劇中の台詞で、これが一三年ぶりの再会であること、ニコール・キッドマンは検事補から出世して検事となっていること、それに反して自分はFBIを辞職して民間の警備会社に転職してしまっていることなどが語られております。

 全ては未解決のまま迷宮入りしてしまった一三年前の事件が原因であるようですが、キウェテル・イジョフォーは執念で容疑者を特定したようです。殺人事件の容疑者ならば、他にも何か余罪がある可能性がある。既に別の犯罪で逮捕され収監されているかも知れない。
 そして六九万六千人分の受刑者の画像を、毎日毎日見ていき、一三年掛かってやっと見つけたのだと説明しております。なにその根気強さ。執念か。
 再捜査を提案しますが、キウェテルの見つけたと云う容疑者が一三年前の事件の容疑者と同一人物なのか、にわかに判定できず躊躇うニコール。
 顔写真を比較してもビミョーに差異があるので、他人の空似である可能性も捨てきれない。

 そして回想を交え、一三年前と現在のドラマが並行して進んでいくと云う趣向です。時系列が行ったり来たりするので、ちょっと判り辛いところもあります。登場人物があまり老けていない所為もありますし。
 一三年前、キウェテルはFBIから派遣された捜査官として、LA警察と合同で対テロ捜査に従事していた。ニコール・キッドマンは新米の検事補、捜査班の同僚にジュリア・ロバーツやディーン・ノリスがおり、アルフレッド・モリーナが上司として捜査の指揮を執っています。
 とあるモスクの内偵を進めているところで、モスクに隣接する区画のゴミ置き場からレイプ殺人の被害者と思われる若い女性の遺体が発見されたと一報が入る。
 駆けつけてみると、それは同僚であるジュリア・ロバーツの一人娘ゾーイ・グラハムだった。

 このあたりの人間関係がオリジナル版よりも整理されて判り易くなっています。特に被害者遺族が同僚であり、自分も被害者とは面識があったという点で──同僚の家族ですし──、かなり感情移入度が高くなっています。その分、あまり冷静ではいられませぬが。
 執念で容疑者を特定するのも主人公自身となりました。リメイクに際して人間関係の整理のされ方が巧いです。登場人物を減らしながら、ストーリーの展開には不足無し。
 ハリウッド作品はリメイクやら続編ばかりでオリジナリティが無いとも批判されますが、改良を加えながら上手にリメイクするテクニックは見事ですね。

 上司のアルフレッド・モリーナは対テロ捜査に専念しろと云うが、現場が内定対象のモスクに隣接しているので、ひょっとしたらモスクの関係者と関わりがあるかも知れない──などとコジツケながら捜査を進めていくキウェテルです。
 手掛かりはジュリア・ロバーツの家で見つけた一枚の写真。職場の同僚同士でピクニックに出かけた際の記念写真であるが、ゾーイもこれに同行しており、同時にゾーイを見つめる謎の男──これがジョー・コール──も映っていた。男の視線に不審なものを感じるが、職場の誰に訊いても、この男が何者なのか知らないという。
 何故、誰も知らない人物が、さも関係者であるようにピクニックに参加していたのか。

 色々ありまして、謎の男は対テロ捜査班で使っている情報提供者であることが判ります。内偵を進めているモスクに出入りしては捜査員に内部の様子を報告しているので、捜査員の一人が職場のピクニックにも招待していたのだった。
 しかし殺人事件の容疑者として逮捕されると、対テロ捜査が行き詰まる。そこで捜査班が組織ぐるみで庇っていたのだった。
 劇中ではアルフレッド・モリーナが繰り返すフレーズ──「対テロ捜査が全てに優先する」──が印象的です。如何に当時のアメリカ人が「第二の911」を怖れていたのかが伺えます。

 それでも容疑者ジョー・コールの身辺調査を止めないキウェテル・イジョフォーとディーン・ノリスのコンビですが、出てくる証拠は怪しいものばかり。もう犯人だろ、こいつ。
 過去と現在が並行して進んでいくドラマなので、容疑者は一度逮捕されても保釈されてしまうのが判っておりますが、それはそれでどのようにして逃げおおせてしまうのかが興味深い。
 本作では主人公の恋愛感情で失敗してしまう流れです。有名女優を二人も配しながら、ラブストーリーになりそうでならないところが渋いですね(あまりハリウッドらしくないか)。

 同時に現在の時系列でも、再びコンビを組んだキウェテル・イジョフォーとディーン・ノリスがもう一度、容疑者の行方を追う展開となり、これが巧く過去とオーバーラップしております。
 相棒のディーン・ノリスが一三年前は五体満足なのに、現在では杖をつきながら足を引きずっているのも意味ありげですねえ。案の定、過去のある時点で負傷してしまうのですが。
 オリジナル版では容疑者逮捕の緊迫した場面が、アルゼンチンらしくサッカー・スタジアムの雑踏で繰り広げられる追跡劇として描かれておりましたが、本作ではサッカーが野球に置き換えられて、ドジャーズ・スタジアムになっているのもお国柄を感じます。
 スタジアムを空撮で映しながら観客席まで一気に寄っていく映像がなかなか印象的ですが、こういうのはドローンを使って撮影しているのでしょうねえ。最近はドローンによる空撮映像らしい場面をよく見かけるようになりました。

 色々とシチュエーションが変わっていますが、ドラマの肝の部分はオリジナル版と同じです。本作に於いては、ジュリア・ロバーツの主張に集約されています。
 劇中では死刑制度が否定されていますが、別に慈悲があるわけではありません。
 愛する者を奪われた遺族は残りの年月を、空虚を抱えたまま生きていかねばならないのに、何故、死刑を執行して楽にしてやらねばならないのか。犯人には出来るだけ虚しい人生を遺族と同様に長く過ごしてもらいたい。
 してみると、最も残酷な刑罰は死刑では無く、終身刑か。中でも、存在そのものを否定され、他人から無視されながら生かされるのが一番空虚で一番残酷か。

 そして本当に執念を燃やし続けていたのはキウェテル・イジョフォーではなく、ジュリア・ロバーツの方だったと判るところが怖い。オリジナル版の半分の年月ですが、そこはジュリア・ロバーツの演技でカバーしております。
 でもアルゼンチンならともかく、現代アメリカのLA郊外で同じ事が出来ると云うのはチト疑問です。ええ、まぁ、『ルーム』(2015年)なんて映画もありましたけど。

 ただ、他人に終身刑を科すとき、それは自分にも同じ刑を執行しているのだという主張は、本作の方が強く伝わったような気がしました。復讐とは根気の要る作業です。
 でも、それならそうと先に云っておいてくれれば、キウェテル・イジョフォーも一三年を棒に振らずに済んだのではないかと思わないでもないデス(云えるわけないか)。
 ほんの少し、オリジナル版よりも救いが感じられるラストではありましたが、失った年月を思えばあまり楽になったとも云えませんかねえ。




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