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2012年1月1日日曜日

サラの鍵

(Sarah's Key)

 このところ柄にもなくミニシアター系文芸映画を沢山観ています。正月早々、『善き人』に続けて、ナチスだユダヤ人だと云う重たい映画を観てしまいました(汗)。

 タチアナ・ド・ロネの同名の小説の映画化で、翻訳も既に出版されています。
 監督・脚本はジル・パケ=ブレネール。第二三回東京国際映画祭で最優秀監督賞を受賞しておりますが、それも納得。原作者自身も絶賛したと云うのも判ります。
 本作は第二次大戦中、ヴィシー政権下のフランス当局がユダヤ人迫害に積極的に関与していたという知られざる歴史に基づく物語です。ナチスドイツの専売特許ではなかったというのが、ショッキング。
 「ヴェルディブ事件」と呼ばれるそうですが、フランス政府がこの事件を認めたのは、一九九五年になってから。シラク大統領が、「歴史の汚点であり、フランスの犯した戦争犯罪である」と公式な謝罪声明を発表するまで、当のフランス人でさえ知る者は少なかったというから驚きです。私もこの映画で初めて知りました。

 一九四二年七月一六日早朝、、ナチス占領下のパリに於いて、フランス警察は一万三千人以上のユダヤ人を一斉検挙し、パリ市内のヴェルディブ(“Vel'd Hiv” 屋内競輪場)に五日間、監禁したという事件。
 五日間、水も食料もなく、トイレもない環境は劣悪を極めたと云う。なんせ一万三千人ですから。さぞかしエゲツないことになったのでありましょう。
 現在、ヴェルディブの建っていた場所は、フランス内務省ビルとなっていて、通りに面して犠牲者追悼の為の記念碑が建っております。
 物語は、そのヴェルディブに家族と共に監禁された一人の少女サラ(メリジューヌ・マヤンス)の生涯を辿っていくという趣向。実は一斉検挙の朝、十歳のサラは幼い弟だけは救おうと、アパートの納戸に隠れさせ、鍵をかけたのだった。「あとで必ず出してあげる」と約束して……。
 当初はすぐに戻れると思っていたのに、家族はそのまま収容所送りとなる。両親とも引き離され、鍵を握りしめたまま、サラの時は非情に過ぎていく。何故、あのとき鍵をかけてしまったのか。幼い弟を救い出すことは出来るのか。

 物語は、サラの身の上と同時並行的に、六〇年余の時を隔てて二〇〇九年のパリに暮らす一人のアメリカ人記者の女性も描いていきます。
 アメリカから夫の生家であるアパートに引っ越してきたジュリア(クリスティン・スコット=トーマス)。このアパートこそ、問題のアパートであるというのは容易く判ります。引越の為にリフォームが進行中で、昔の部屋の間取りとは随分と変わってしまっている。
 しかしリフォームの過程で、「何か」が発見されたと云うことも──最初はここで白骨死体でも見つかるのかとドキドキしました──無さそうで、では一体、サラの幼い弟はどうなってしまったのかというのが気掛かりのまま、ドラマは過去のサラと現在のジュリアの両方を交互に追っていきます。
 たまたま雑誌記事の特集で「ヴェルディブ事件」に関わったことから、自分達のアパートにユダヤ人一家が暮らしていたことを知ったジュリアは、一家の消息を調査し始める。残念ながらサラの両親はアウシュビッツで死亡していた。しかしサラの方は?

 ヴェルディブの劣悪な環境から体調を崩していたサラが回復したのは、相当な月日が経過した後だった。それでも弟を助けたい一心で収容所からの脱走を図るサラ。
 一緒に逃げてくれた友達は、途中で命を落とし、潜伏した農家の老夫婦に匿ってもらいながら、やっとの思いでパリまで帰り着いたサラが見たアパートは、接収されて見知らぬ他人が暮らしていた。

 ジュリアはアパートの過去のことを夫に尋ねるが、夫は何も知らない様子。年老いた義父に尋ね、ようやく真相が明かされる。それは義父がまだ少年だった頃の事件。
 自分達の財産が、(知らなかったとは云え)ユダヤ人から奪ったものだったというので、義父はその父親から厳重に口止めされていたのだ。
 ある日、少年だった義父の元に一人の少女が突然、飛び込んできて……。

 弟の運命が判ってしまうのは、実はドラマの中盤あたり。思っていたより早い段階でした。
 まぁ、「ヴェルディブ事件」から何ヶ月も経過しておりますし、あとから来た一家は「開かない納戸」を無理にこじ開けることもしなかったのだから、どうなっているかは推して知るべしでしょう。
 「悪臭が消えないことは不審に思っていた」って、よく我慢できたものです。怖ろしい。

 弟の運命も明らかになり、調査も一段落し、物語はどうなるのかと思いましたが、ジュリアはそれだけでは満足できない。ジャーナリスト魂に火が付いちゃったのですね。
 サラはその後、どうなったのか。今でもどこかで生存しているのか(生きていれば七七歳)。
 自分達が暮らすアパートは、本当はその女性の財産ではないのか。消息を尋ねて返還すべきなのか。しかし今更、そんな話を蒸し返してどうする。
 「真相を知って誰かが幸せになるのか」と問われても、ジュリアには答えられない。多分、誰にとっても益の少ない結果になるのは予想できるのですが。
 このあたりまで来ると、ジャーナリズムの本質を問うような展開になってきます。
 何故、知りたいのか。
 知ってどうするのか。
 答えの出ないまま、ジュリアの調査は続いていきます。

 天涯孤独となったサラを引き取ったのは、匿ってくれた農家の老夫婦だった。そこで別姓を名乗り、その家族として暮らし始めたサラ。
 ジュリアの義父の父親は、ユダヤ人から財産を奪ったことの後ろめたさからか、かなりの期間、その老夫婦に宛てて金銭を仕送り続けていたと云う、夫ですら知らなかった事実まで明らかになる。
 ジュリアはその送金先からサラを引き取った老夫婦の連絡先まで突き止める。しかし既に老夫婦は他界しており、その息子の、そのまた娘から、祖父達がサラについて語っていたことを教えてもらう。
 実は戦争が終わった一九五三年、サラは出奔していた。あまり笑わない物静かな少女となったサラはいつも遠くを見つめていたというから、老夫婦もいずれ彼女が出て行くことは覚悟していたらしい。年月が流れ、アメリカから「結婚しました」という一枚の絵はがきが届いたのが、サラの最後の消息だった……。

 もうこの物語はどこまで行ってしまうのか、観ている側としても非常に気になります。
 調査の過程でジュリアと夫の関係も悪化し(そりゃ自分の一族の後ろめたい過去を暴くような調査を快く思うわけがないか)、妊娠したことも喜んでくれない夫は中国へ単身赴任。別居同然となったジュリアはアメリカに帰国してしまうワケで、サラの身の上も気になりますが、ジュリアのことも気になる。
 絵はがきの差出人を頼りに、ジュリアは地道な聞き込みを続けていく。執念というか何と云うか。何がそこまでそうさせるのか。

 結局、突き止めはしたものの、サラは既に亡くなっていたという苦い事実が判っただけ。
 しかし息子をひとり産んでおり、その息子はイタリアに渡って料理人となっていた。けれどもイタリアにまで飛んだジュリアに、当の息子の態度は非常につれないものだった。
 いきなり「貴方の母はユダヤ人でした」と告げられても、信じる人は少ないわな。そもそもユダヤ人迫害の過去を持つ少女は、自分のルーツを決して口外しなかったのだから。
 ショックを受けた息子が怒り始めるのも尤もな話です。
 「それで貴方はどうしたい? 私の知りたくもなかったルーツを暴いて満足か?」

 調査の過程で、ジュリアがサラに対して共感を寄せるようになっていったと云うのは理解できますが、確かにここまで追跡しなくても良かったのではとも思えます。
 過去と向き合うことが、未来を生きる糧となる──と云うのは判りますが。
 情け容赦なく全てが暴かれ、サラの遺品からは「あの鍵」までもが出てくる。過去と現在が完全につながり、一人の女性の辿った過酷で幸薄い生涯も明らかとなる。人は皆、先人の遺した積み重ねの上にいるとは云え、誰も幸せにしない真実というのも苦すぎる。
 人はそれでも「知る」べきなのか。

 昨年末に観た『灼熱の魂』もそうですが、「知る」ことの怖ろしさを味わいました。
 ジュリアが出産した赤ん坊が女の子で、名前はサラであると云うのが僅かな希望の光か。
 このサラちゃんの行く末が、幸多いものであらんことをと願わずにはおられません。

 正月早々、この映画はキツかった……。


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