共演はナオミ・ワッツ、アーミー・ハマー、ジュディー・デンチ等々。
音楽も監督自身が担当しております。静かなピアノの旋律が美しい。シンプルなメロディに合わせるかのように、映像の色調も少し淡い感じなのが趣深いです。
しかし今年(第六九回・2012年)のゴールデン・グローブ賞には、デカプーが主演男優賞(ドラマ部門)にノミネートされただけで、アカデミー賞の方は作品賞にも監督賞にも主演男優賞にも、ノミネートされませんでした。いや、本作も出来の悪い作品ではないと思うのデスが、やはり近年の『ヒア アフター』とか、『インビクタス/負けざる者たち』とか、『チェンジリング』なんかの傑作群と比べると、ちょっと低調に感じてしまうのは否めないでしょうか。
まぁ、毎年のように超絶傑作を量産しろと注文付ける方が無茶か。それでも本作は名作とは云われずとも、良作・佳作として水準以上の出来映えであるとは思います。
題材となったJ.E.フーヴァーという人物自体が有名ではあれど、他の映画でもあまり正面切って扱われたことのない人物ですね。
だから初代FBI長官である、と云う程度しか存じませんでしたので、ここで描かれる主人公の私的な側面は興味深い。題名も苗字の「フーヴァー」ではなく名前の「J・エドガー」ですからね。イーストウッド監督の主眼もそちらに向いていたのは明らかでしょう。
フーヴァーは一九二四年にFBI長官に任命され、一九七二年に亡くなるまでの四八年間、長官職を勤め上げ、在職期間中に八代の大統領に仕えた(第三〇代カルビン・クーリッジから、第三七代リチャード・ニクソンまで)。現在に至るも合衆国で最も長く政府機関の長を務めた人物とされております(今ではFBI長官の任期は一〇年に制限されている)。
本作は長官就任前当たりから亡くなるまでの半世紀に及ぶフーヴァーの人生を描いていきます(部分的に少年時代の回想も入りますが)。そしてこれをデカプー独りが演じております。
もう何を云うにしても、デカプーの老けメイクが凄いデス。まずは冒頭に登場したときの貫禄というか押し出しが堂に入っております。演技派の俳優として立派になったものです。
本作は六〇年代後半に入った頃のフーヴァーが、自らの回顧録を口述筆記させるという場面から始まり、過去へ遡って様々な事件を交えながら、現在と過去で交互にドラマが進行していきます。
過去の話になるとデカプーも、元のイケメンに戻るワケですが、口述が中断する度にまた老けメイクに逆戻り。だからデカプーと一緒に長年の片腕である副長官クライド・トルソン(アーミー・ハマー)と秘書のヘレン・ギャンディ(ナオミ・ワッツ)も、歳食ったり若返ったりします。
物語と直接関係ないとは云え、この老けメイクに俳優によって出来不出来があるというのが、ちょっと観ていて違和感を感じるところでした。
ナオミ・ワッツの老けメイクはなかなか良く出来ていました。上品に歳を取ったという感じで割と自然。
デカプーもまあまあ(かなり作っている感じはしますが)。どちらかと云うと、見た目よりもデカプーの声に老若の区別が付かず、歳食っても声は若いままと感じられたことが残念に思われました。
一番、老けメイクが似合わなかったのがアーミー・ハマー。これはちょっとデカプーと比べても、かなり不自然な感じがしましたねえ。特に晩年はあまりにも過剰なメイクでした。
特殊メイクの出来にも個人差があるのか。イーストウッド監督はそのあたりにはあまり頓着しない人なのか。それとも晩年のトルソン副長官は本当に「そういう容貌の人だった」とか。
本作は各時代背景をリアルに描写しつつも、善悪についての判断は観客に任せるという姿勢を貫いております。
だからフーヴァーの業績も玉石混淆というか、賞賛すべき点もあれば、非難すべき点もある。特に広域犯罪に対応できる組織を作り上げ、科学的な捜査手法を導入したことは素晴らしいと思いますが、いきすぎた諜報活動をネタにした政治的恐喝なんてのはイカンでしょう。
どちらも「情報は力だ」という信念に基づくものですが、使い方を間違っている。
その上、「国を守る為には、法を曲げることも必要だ」と云い切るのは危うい。
なんでフーヴァーはこんな人物になってしまったのか。案の定、母親の影響に負うところが大きいというのが、本作の解釈でした。まぁ、ジュディー・デンチだし。母のあまりに強烈な愛が子供を歪めてしまうことの典型的なケースと云えなくもない。
「立派な人物になれ」と云うのは、親として当然の願いでしょうが、ジュディー・デンチがヤリスギた所為で、妙に虚飾に拘る見栄っ張りで臆病な人物が出来上がってしまったような気がします。根が臆病なので、人の弱みを握って上位に立たないと安心できなかったのか。正義感はあれども難儀な人になってしまったものです。
不思議と父親については言及されません(フーヴァーの過去は不明な部分が多いそうな)。
時代的な背景として共産主義者の大量逮捕と国外追放や、ギャングの台頭なども取り上げつつ、進行していくドラマはなかなか興味深いです。中でも「リンドバーグ事件」がFBIの科学捜査によって解決されるというのが面白いです。
しかし一方で、フーヴァーの隠された偏見や性癖もイーストウッド監督は容赦無く描いていきます。特に政治的な意図はないそうですが。
時代が時代だけに、反共一筋に生きた人であると云うのは理解できます。共産主義者が爆弾テロを起こすから悪として憎む、と云う理屈は判ります。今のアメリカも、テロリストに対する態度はあまり変わらないし。現代への皮肉を感じます。
しかし人種差別主義者であるというのはイカン。本作では、フーヴァーのキング牧師に対する謂われのない偏見が強烈に描かれております。公民権運動も共産主義者の陰謀のように思われ、もはや私怨とも云える域に達しています。
そしてもうひとつ、実はフーヴァーは同性愛者であった、という描写もあります。生前からゲイ疑惑はあったそうですが、本作ではこれを取り入れております。だからデカプーとアーミー・ハマーが痴話喧嘩の末に熱烈なキスを交わすシーンもあります。
うわー。これはあまり観たくなかった(泣)。
長年にわたる長官と副長官の親密な関係の裏には、プラトニックな愛があったのだという解釈。あからさまなラブシーンは一回だけなので、多分に精神的な愛として描かれております。
だから本作では、ナオミ・ワッツとデカプーのラブシーンなんてのはありません。そっちの方を期待したかったのに。
しかもゲイな上に女装癖疑惑まであったとは。本作ではゲイではあれども、女装癖についてまでは突っ込みません。母親が亡くなったときに、哀しみのあまり母のドレスを着て鏡に向かい、「強くあれ」と母の口癖を真似るというシーンがありますが。
むしろ内面は傷つきやすい哀れな男であるという風に描かれていました。独り泣き崩れるデカプーの姿は見るに忍びません。
総じて毀誉褒貶の多い人物であったというワケですが、淡々と公平に描こうとした所為で、逆に感情移入しづらい人物になってしまったとも云えます。複雑な人物であることはよく判りましたが、亡くなったからと云って、特に感慨深いわけでもない(私が日本人だからか)。
ひとつの時代が終わりを告げたということは感じられましたが。
● 余談
他に「フーヴァー」で私が知っていることと云えば……。
コロラド川を堰き止めている巨大ダムが「フーヴァー・ダム」。あの『トランスフォーマー』(2007年)に登場したダムですよ。〈セクター7〉によって、メガトロン様が凍結保存されていた場所。
長い間、このダムはあのFBI長官の名前を冠したダムだと勘違いしておりました(汗)。
ホントは第三一代大統領ハーバート・フーヴァーの名前が冠されている──と云うのは、ごく最近になって知ったことデス。本作ではダムについては何も触れられておりません。
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