2011年4月14日木曜日

わたしを離さないで

(NEVER LET ME GO)

 そもそもの基本設定がSFなので、ちょっと興味を引かれたのですが、やはり物語はSFではなかった。『ブラインドネス』なんかと同じく、主流文学の作家による「SFぽい設定」を背景にしているだけですね。
 このネタは、小説で云うとマイケル・マーシャル・スミスの『スペアーズ』、映画ならマイケル・ベイ監督の『アイランド』がありますね。どちらも『わたしを離さないで』とは毛色の違うストーリーですが(笑)。
 こちらは間違ってもそんなド派手な展開にはなりませぬ。原作者はカズオ・イシグロである。仮にもブッカー賞やら英国王立文学協会賞やらを受賞した作家が、そんなネタで書くワケ無いですね。それに、もし書いてもSF者が納得する出来になるのかどうか怪しいものであるし。

 まず冒頭の設定説明で驚くのは、「未来の物語ではない」という点か。
 物語の背景は1978年。クローン技術は六〇年代に確立されていた世界なのである。世界の平均寿命は百歳を超えていた。
 SF者ならば、ここから平行世界がどうとか、歴史改変がどうとかいうネタに絡んでいくのを期待したいところですが……(なりません)。

 まぁ、とりあえず英国の田園地帯にひっそりと佇むヘイルシャム寄宿舎学校から物語は幕を開ける。英国の全寮制の学校ですよ。レンガ造りの校舎が雰囲気たっぷり。少女漫画の世界ですね。私は萩尾望都の作品を連想してしまいました(笑)。
 何の変哲もない寄宿舎学校である。
 唯一点、生徒の健康管理が異様に厳重である点を除いては。

 そして生徒らは学校の敷地から外に出ることを固く禁じられていた。「外の世界は怖ろしく危険であり、禁を破って外に出た生徒は帰ってくることはない」という学校伝説がまことしやかに囁かれている。
 校長先生役はシャーロット・ランプリング。厳格な先生であると同時に、どことなく胡散臭そうな感じを漂わせる人ですね。巧いな。

 割と創作系の授業が充実しているというのが伏線。優秀作品は校内の「ギャラリー」に展示されるのであるが……。
 主役の三人、キャシー、ルース、トミーの少年少女時代が可愛い。出来ればいつまでもこの子役のまま物語を続けてもらいたかったが、そうはいかん。やがて各々がキャリー・マリガン、キーラ・ナイトレイ、アンドリュー・ガーフィールドになってしまう。ちょっと残念。

 実は物語は三部構成になっています。
 これは脚本化に際して原作者自身の提案であるそうな。カズオ・イシグロは映画の脚本も書くらしい。長い原作をコンパクトにまとめる巧い構成です。
 かくして、第一部の少年少女時代(1978年)であっさりと「生徒はすべてクローンであること。将来、オリジナルの為の臓器提供者として育てられていること」がバラされてしまう。うわあ。

 フツー、こうなると生徒達が自らの生存を賭けて脱走を試みたり、抵抗したりとか云う展開になるものであるが……。
 『アイランド』のユアン・マクレガーはそうしましたけどね。こちらの主人公達が脱走を企てるという展開はついぞ訪れないのである。いいのだろうか。
 第二部(1983年)ではそのまま粛々と運命を受け入れて成長した三人の恋模様が描かれる。男の子をめぐる女の子二人の三角関係である。キャリーの方が控えめなので、キーラにアンドリューを奪われた格好になっている。

 キャリー・マリガンが非常によい。大人しくて控えめで、清楚な女性を演じております。『ウォール・ストリート』とはまた感じが違います。
 キーラ・ナイトレイの方もまた、横恋慕しているというか、キャリーの気持ちを承知した上で、アンドリューを奪おうという、これまた微妙な感情表現が『パイレーツ・オブ・カリビアン』なんかとはひと味違います。
 総じて主役三人の静かで押さえた演技がいいです。

 クローンとオリジナルの対面とか、臓器提供を逃れる術はあるのかとか、ドラマ的には興味深いネタは幾つかあるのですが、物語は三人の恋愛関係がメインなので、私が期待する方向にはどうしても転がってくれない。うーむ。
 そうこうするうちに幼馴染みである三人の関係は、色恋が原因で破綻する。

 そして第三部(1994年)。キャリー・マリガンは介護士として、臓器提供したクローン達の世話をする職に就いていた。摘出する臓器によっては「提供」後も生存することが可能とは云え、それはその先も続くであろう臓器提供を強要されるという、非常に過酷な運命である。よく耐えられるな。残酷だ。
 クローン達の間では「○○さんは三回目の提供で終了したそうだ」「よく頑張ったな」などと云う言葉が交わされている。
 「終了(コンプリート)」とは、またなんという言葉か。

 これが平均寿命百歳の世界の実態である。つまりクローン達は「平均」の中にはカウントされていないのである。そもそも人口の中にもカウントされていないのではないか。
 さりげなくクローンの人権を完璧に無視した世界である描写がおぞましい。こりゃ怖い。

 ここでキャリー・マリガンは十年ぶりにキーラ・ナイトレイやアンドリュー・ガーフィールドと再会するのであるが……。
 既に双方共に何回かの臓器提供を生き延びた半病人状態となっていた。
 死を目前にした再会と、友情の回復、恋の成就という展開が、あまりにも切ない背景の中で語られていきます。主演女優の二人が非常に宜しい。

 そしてキーラが「終了」する頃、残された二人は臓器提供を逃れる最後の手段として、かつての母校の校長シャーロット・ランプリングに面会を求めに行く。
 母校にあった「ギャラリー」が提供免除の手段ではないのか。優秀な才能を示せば、生存が認められるのではという一縷の望みに、絵の才能があるアンドリューは描き溜めていた作品を披露しに行く。

 ここで夢も希望も打ち砕くシャーロット・ランプリングの説明がむごい。
 学校と「ギャラリー」はクローンにも魂が存在するか否かを、創作活動を通して見極める為の実験であったに過ぎないのである、と。
 そして母校そのものは既に閉鎖されている。と云うことは「実験」は終了し、もはや「クローンに魂はない」と、どこかで誰かが決断を下していることになる。
 最初から望みなど無かったのだ。

 失意のままに校長の元を辞したアンドリューの慟哭が切ない。切なすぎる。
 そしてアンドリューに次の提供の時がやってくる。キャリーに見守られて手術に臨んだ彼は「終了」する。
 一人残されたキャリー・マリガンが田園風景の残照の中に一人佇む姿で映画は終わる。実に美しいラストシーンではありますが……。
 ナレーションで、彼女の元にも遂に臓器提供の召喚が来たことが告げられる。救いも何もない。

 逃れようのない残酷な運命に人はどのように立ち向かうべきか。
 人間なら誰であれ死は避けられない。短い一生を如何に過ごすかが大事なのである──と云う、『100歳の少年と12通の手紙』にも通じるテーマですが、これはまた何と残酷な物語であることか。運命は「難病」ではなく「臓器提供」という形で訪れる。
 淡々とした静かで美しい映画でありますが、やりきれん。
 まだまだ私には煩悩が多すぎるのか。悟りの境地にはほど遠い(汗)。


●余談
 カズオ・イシグロ原作の映画化作品と云うと『日の名残り』(1993年)も未見ですが……。
 バリバリ英国の「執事さんとメイド婦長の恋物語」という、日本のアニメファンが間違った萌え萌え妄想を炸裂させそうなネタであるということは存じております。多分、そんな妄想を抱くバカ野郎は決して観てはならぬのでしょう。
 アンソニー・ホプキンス主演だぞ。その時点で察しろよ!
 いや、アンソニー・ホプキンスが笑みを浮かべて「あくまで執事です」と云うと、それはそれで怖いか(爆)。




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