本作はオースン・スコット・カード原作の同名小説の映画化作品でありますが、その原作は一九八六年のヒューゴー賞&ネビュラ賞の長編部門でダブル受賞に輝いております。
ちなみに『エンダーのゲーム』には続編『死者の代弁者』もありまして、こちらも翌一九八七年のヒューゴー&ネビュラ両賞受賞。ダブル・クラウンに輝くSF作家は大勢おられますが──近年でもコニー・ウィリスとか、パオロ・バチガルピとか──、二年連続なのはオースン・スコット・カードだけ。化け物デス。
更にカードは続編を書きまくって、今や原作小説は〈エンダー・サーガ〉と呼ばれる長大なシリーズと化しております(一〇冊以上あって、まだ継続中)。まぁ、シリーズの後半はスピンオフ企画になっているので、私も四作目の『エンダーの子どもたち』で止めておりますが。
その『エンダーのゲーム』がようやく映画化。SF者としては感無量……と云うか、今まで何回か企画が持ち上がり、ウォルフガング・ペーターゼンが監督になるというハナシまで聞いた憶えがあったのに立ち消えになったりして、本当に映像化される日が来ようとはイマイチ信じておりませんでした。何はともあれ、めでたい。
「忘れるな、敵のゲートは“下”だ!」と云う名台詞も健在でした。
本作の監督はギャヴィン・フッド。『ウルヴァリン : X-MEN ZERO』(2009年)しか存じませぬが、長い原作を巧くまとめているように思われました。
しかし元々、『エンダーのゲーム』は先に短編バージョンがあり、後に長編小説化された経緯がありまして、本作はどちらかと云うと短編バージョンの方に近いでしょうか。
何しろストーリーの焦点が主人公エンダーに絞られておりますからね。
エンダーの兄と姉は長編になって追加された設定ですが、本作では兄ピーターにも、姉ヴァレンタインにも、あまり出番はありません。おおう、ピーターの出番があれだけとは!
だもので、ピーターが将来的に人類を統べる〈ヘゲモン〉になるだとか、ヴァレンタインがネットの世界でハンドル名〈デモステネス〉と名乗って世論を操作するだとか云う展開は、本作ではバッサリとカットされております。いや、そこまで描いている尺などないのは承知しておりますが、あれではピーターが只の意地悪な兄貴でしかない(泣)。
とりあえず原作は超お薦めですので、未読の方には是非、読んでいただきたい。
短編も長編も翻訳されていて、どちらも読める状況にあるのは嬉しいデスね(短編はカードの短編集『無伴奏ソナタ』に収録)。
まずは最初の二作『エンダーのゲーム』と『死者の代弁者』は読もう。第三作『ゼノサイド』以降は……まぁ、気が向いたらでいいでしょう。
さて、主役のエンダー役がエイサ・バターフィールドくん。マーティン・スコセッシ監督の『ヒューゴの不思議な発明』(2011年)のヒューゴ少年役で馴染み深い。今回はヘアスタイルも軍隊式に短くなっており、かなり凛々しくなっております。
エンダーを補佐するビーン少年役がアラミス・ナイト。『ダークナイト ライジング』(2012年)にも出演しているそうですが、憶えがないです。
しかしエンダーの教官となる、伝説の英雄メイザー・ラッカム役は名優ベン・キングズレー。
エイサ・バターフィールドとベン・キングズレーは『ヒューゴの不思議な発明』でも共演しておりますね。ベンの演じたジョルジュ・メリエスは実に忘れ難い。
今回、ラッカムは「マオリ族の末裔」と云う設定なので、顔面に異様な刺青を施しております。ベン・キングズレーは色々な人種を演じ分けられる名優ですが、今度はマオリ族か(これは映画オリジナルの設定のようで)。
とりあえずは、エンダーとビーンとメイザー・ラッカムがいれば『エンダーのゲーム』としてはOKですが、他にもバトル・スクールの監督官として登場するグラッフ大佐とアンダーソン少佐が、ハリソン・フォードとヴィオラ・デイヴィスでした。
正直、原作では大した役ではありませんが、ハリソン・フォードとヴィオラ・デイヴィスなんぞと云う名優を起用したお陰で、ぐんと存在感がアップしております。
しかもアンダーソン少佐が女性になっていたので、ちょっと驚きました(階級も若干変更されてますし)。
どういうわけだか、本作はエンダーとグラッフ大佐の関係の方が強調されております。メイザー・ラッカムの登場は中盤過ぎてからなので、こうなるのもやむを得ないのでしょうか。
本作では、人類の生存を賭けた星間戦争の為に、年端もいかない少年少女達に過酷な戦闘訓練を強いるグラッフ大佐の苦悩がクローズアップされておりました(そりゃ、ハリソン・フォードですから)。
一応、エンダーの家族であるウィッギン家の皆さんも登場しますが、押し並べて出番が少ないです。姉ヴァレンタイン役のアビゲイル・ブレスリンが多少は印象的ですが、大した出番もありません(デモステネスなのに!)。
バトル・スクールでの少年達の過酷な戦闘訓練がメインのストーリーですので、背景設定もそれに関係しないものはスルーされております。
だから、人口抑制策として「一人っ子政策」ならぬ「二人っ子政策」が課せられ、エンダーが「禁断の第三子(サード)」であると云う設定も、ほとんど意味なしのようでありました。
あそこまでカットするなら「サード」と云う用語自体も使わなくていいのに。
小難しいSF設定もほとんどがスルーです。ええ、相対論的ウラシマ効果もなしです。宇宙船はよくあるSF映画と同じく簡単にワープしちゃいます。
だから超光速通信アンシブルも取り立てて特別なものには描かれません。うーむ。
理屈を捏ねる設定は映画向きではないのか。
その代わり、ビジュアルに訴えるデザイン・ワークスは素晴らしいです。小説の方では描写もないのに、自動車、シャトル、バトル・スクールの外観、宇宙艦隊といったメカニックの数々は、必要以上に凝りまくっているように見受けられます。
また、コンピュータのモニタはタッチパネルが当たり前で、物理的なキーボードなど存在せず、ホログラム表示や指先のゼスチャーで操作すると云った未来的なガジェットが然り気なく至るところに散りばめられているのも興味深いデス。
しかし数あるガジェットの中でも、バトル・スクール内のゼロG戦闘ルームのビジュアルが圧倒的でした。こればかりは小説を読んでも、あそこまでイメージは出来ませんでしたが、実際に観てみると「そうそう。これこれ」などと肯いてしまいます。衛星軌道上にあって、背景に地球を眺めるデザインなのが美しいです。
このゼロG戦闘ルームと、無重力下での集団模擬戦闘がきちんと映像化されていたのがいいですね。
本作のメインはバトル・スクールでのストーリーですが、敵異星人フォーミックの宇宙戦艦なども、原作を越えた凝りまくりのデザイン。やはり過去のSF映画と比べても見劣りしないようにするのは、イマドキのSF映画としては必要なことなんですかね。
特に「昆虫型の異星人」としては、『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997年)との差別化が意識されているように思われました。
その所為か、異星人の呼称も、原作では「昆虫型だからバガー」と云う味も素っ気も無いネーミングでしたが、先に『スターシップ~』で「バグズ」が使われてしまったので、本作では「フォーミック」と名称が変更されております。
また、映画では星間戦争の原因も「水資源の争奪」に端を発していると云う解釈になっているのも現代的です。
フォーミックの姿も『スターシップ~』のバグズのようにはするまいと腐心しているのが伺えます。実は人類と相互理解が可能な知的生命であると云う描写の為に、巨大な蟻のようでいて知性が感じられるように、ちょっと柔和な表情を持つようにデザインされております。
でも、言葉を使わずに思念で会話するとか、密かに人類側の戦闘指揮官とコンタクトを取ろうとしていたと云う展開が、少し判り辛いでしょうか。やはり宇宙船が飛び交う戦闘シーンは問答無用にアピールしますが、精神的な交流は画にしづらいですね。
原作と同じく、劇中でもマインドゲームが登場して、エンダーの夢の中でフォーミックが何事かを訴えかけてくる場面がありますが、これがちょっと説明不足であるように思われました。
フォーミックに人間の言葉を喋らせなかったのはフッド監督のSF的なセンスとして評価したいところですが、小説の方を読んでいないと判り辛いでしょうかねえ。そもそも「マインドゲームがユーザーの意識とリンクしている」と云う設定が、絵にするのが難しいので、劇中では単なるオンラインゲームのようにしか見えなかったのが残念でした。
一応、ゲームの中で見た風景が、実は異星のある場所の風景だったと明かされるようにはなっておりますけれど。
そしてバトル・スクールで抜きんでた才能を発揮したエンダーは、飛び級でコマンド・スクールに昇格し、師となるメイザー・ラッカムの元で更に複雑なシミュレーション戦闘を果てしなく繰り返していく。CGアニメの宇宙戦闘シーンもお見事です。
やがて遂に「卒業試験」の日がやってきて……。
クライマックスの最終決戦の映像も迫力あります。原作を読んでおりますので、ここでのエンダーの無茶な戦術が──これしかないとは判っていても──やりきれないです。
背後で観ているハリソン・フォードの微妙な表情もいいですね。
逆に、事の真相を知ってから観ると、この戦闘シーンで人類側の艦隊が最後まで「エンダーの指示に完全に従っている」と云う描写に鬼気迫るものを感じてしまいます(CGですが)。
どの戦艦も、どの戦闘機も、最後まで一糸乱れず戦い続けています。やめてぇ(泣)。
最終試験の戦闘に勝利し、無邪気にガッツポーズをとるエンダーの姿がイタい。
そして今までシミュレーションだと信じていたものが、現実の人間の命を賭けたリアルな戦闘だったという衝撃の事実が明かされる。
ここはもうちょっと劇的に、「ゲームだと信じていたものが現実だった」という描写に尺を割いても良かったように思われますが、ちょっと残酷でしょうか。
思えば取り返しがつかなくなる前に、引き返す機会もあったのに。互いの存在が怖いから戦争は起きるのだと云う理屈が苦いです。
「大事なのは勝つことだ」と割り切る大人のハリソンに対して、「違う。勝つ方法が大事なんだ!」と云い返すエイサくんです。さすがの演技力です。
しかし、指揮官に無用のプレッシャーを与えない為であると云う理屈は判りますが、それならそれで「最後まで騙してあげる」のが大人の務めではないのかとも思うのですがねえ。
ハリソン・フォードとベン・キングズレーには、その辺りの配慮に欠けるのではないか。でも原作がそうなので改変するわけにはいきませんか。
かくして、齢一一歳にして知的種族を丸ごとひとつ絶滅させた希代の虐殺者になってしまったエンダー少年ですが、その救済もまた用意されています。
エンダーは最後に生き残ったフォーミックの女王から、希望の卵を託される。必要な遺伝子の多様性から考えて、卵一つで大丈夫なのかとも思いますが、異星人の生態は人類には計り知れないのでしょう。
宇宙船で一人旅立つエンダーくんですが、このラストでは続編の『死者の代弁者』には繋がりにくい気がします。いや、そこまでは映画化するつもりはないのか。
まぁ、ピーターも〈ヘゲモン〉にはなりませんしねえ。エンダーが初代〈死者の代弁者〉になると云う下りもバッサリとカットして、エンディングを迎えてしまいました。
もう少し「泣けるSF」になってくれるのかとも期待していたのですが、やはり名作の映画化というのは、観る側の設定するハードルが高すぎるのでしょうか。
それでも水準以上の出来映えではあると思います(いや取って付けているわけでは)。
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