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2013年6月14日金曜日

華麗なるギャツビー

(The Great Gatsby)

 「二枚目俳優と云われて思い浮かべる人は?」と訊かれると、まず「ロバート・レッドフォード」と応えてしまう年代に属しております。
 いかん。トム・クルーズくらいにしておかないと歳がバレるか。いや、イマドキはロバート・パティンソンとか、テイラー・ロートナーくらいでないとダメか。そもそも「二枚目」自体、死語か。

 それはさておき、ロバート・レッドフォードと云えば『華麗なるギャツビー』(1974年)。代表作ですねえ(他にも沢山あるけど)。おかげで「ギャツビー」とは「男前」の代名詞として、深く心に刻まれております。世間一般でもそうでしょう。
 だから男性用化粧品のブランドにもなりました。株式会社マンダムが「ギャツビー」シリーズを売り出したのが昭和五三年(1978年)。マンダムのウェブサイトにはっきりと、ブランド名はロバート・レッドフォード主演の映画『華麗なるギャツビー』に由来している旨が明記されています。

 原作小説はF・スコット・フィッツジェラルドの代表作です。「英語で書かれた二〇世紀最高の小説」のひとつであるそうな(でもじっくり読んだことはない)。
 フィッツジェラルドがどういう人かは、ウディ・アレン監督の『ミッドナイト・イン・パリ』(2012年)で、トム・ヒドルストンが演じておりましたから憶えておられる方も多いでしょう(あのイメージが正しいかどうかは判りませんけど)。
 翻訳によっては、『グレート・ギャツビー』とか、『偉大なギャツビー』などと訳されたりする場合もありますが、やはり『華麗なるギャツビー』が一番、馴染み深い。

 その『華麗なるギャツビー』がリメイクされると云うハナシを聞いたときは耳を疑いました。
 しかし監督がバズ・ラーマン。例によって、製作、監督、脚本と、ほぼ自分一人で仕切っておられます。『ムーラン・ルージュ』(2001年)や、『オーストラリア』(2008年)もそうでした。
 そのバズ・ラーマン監督の五年ぶりの新作が、このリメイク版『華麗なるギャツビー』。きっとまた豪華な大作映画になるのだろうとは予想できましたが……。

 主演がレオナルド・ディカプリオ(以下、デカプー)。うーむ。度胸あるな、デカプー。あのロバート・レッドフォードと比べられるのだぞ(ことほど左様に「ギャツビー」とは、男前、イケメンのイメージが強い)。
 でもまぁ、デカプーなら許せるか。ピンクのスーツ姿もイカしてます。
 レッドフォードとはまた、少し方向性の違うイケメンですね。何より、デカプーがギャツビー役を演じられるほど風格を備えるまでになったと云うのが、喜ばしいデス。

 以下、七四年版と配役を比較すると……。
 物語の語り手であるニック役は、サム・ウォーターストンから、トビー・マグワイアに。
 サム・ウォーターストンと云うと、ローランド・ジョフィ監督の『キリング・フィールド』(1984年)の記者役が忘れ難いです。海外ドラマ『ロー&オーダー』のレギュラーの一人(マッコイ検事)だったそうですが、こちらは観ておりません(でもこっちの方が有名なのか)。
 それが今度はスパイダーマン。いや、トビー・マグワイアもすっかり文芸作品俳優ですねえ。

 ニックの親戚であるヒロイン、デイジー役はミア・ファローから、キャリー・マリガンです。美人で演技派です。ミア・ファローの後継者に相応しい。
 『わたしを離さないで』(2010年)や『ドライヴ』(2011年)で、個人的に贔屓な女優さんになりました。本作では、純真で、美しくて、しかも愚かであると云う役を見事に演じております。

 デイジーの夫であるトム役は、ブルース・ダーンから、ジョエル・エドガートンに。
 ブルース・ダーンは最近でも『Virginia ヴァージニア』(2011年)とか、『ジャンゴ 繋がれざる者』(2012年)にも出演されて頑張っておられます。
 一方、ジョエル・エドガートンと云うと、ルーク・スカイウォーカーの叔父さん(の若い頃)。『ゼロ・ダーク・サーティ』(2012年)ではシールズ隊員役だったり、割と出演作は観ているのになかなか印象に残りません。でも本作は今までで一番、強烈な役です。

 ガソリンスタンドの店主ウィルソン役は、スコット・ウィルソンから、ジェイソン・クラークへ。
 スコット・ウィルソンは若い頃の出演作はあまり存じませんですが、海外ドラマ『CSI : 科学捜査班』の準レギュラー(キャサリンの親父のカジノ王)でした。
 ジェイソン・クラークも、ジョエル・エドガートンと一緒に『ゼロ・ダーク・サーティ』に出演しておりました。こちらはジェシカ・チャステインの同僚のCIA局員役(あの拷問シーンが忘れ難い)。

 勿論、作品としての見た目の絢爛豪華さは、いつものバズ・ラーマン監督作品のとおりです。『ムーラン・ルージュ』も霞むくらいの、ド派手なパーティ・シーンの演出は「ナニもここまでしなくても……」と思うくらい、きらびやかで華やかです。圧倒されますねえ。
 この画面を見れば、エンドクレジットで「ビジュアル・コーディネイター」とか、「ビジュアル・エフェクト」等のスタッフの名前がやたらと多かったのも納得です。
 そして「ジャズ・エイジ」と云われただけあって、ジャズがガンガン演奏され、皆がチャールストンを踊りまくり。さすがは狂乱の二〇年代。

 背景も豪華なら、衣装もまた豪華。本作は来年のアカデミー賞の美術賞、撮影賞、衣装デザイン賞あたりのノミネートは確実であると思われます。上手くいけば受賞も夢ではない。
 ちなみに、七四年版はアカデミー賞の衣裳デザイン賞、編曲賞を受賞しております。
 個人的にはビジュアル面だけでなく、主要部門も狙えるのではと思いマス。デカプーも今度こそ、主演男優賞を獲って戴きたい。

 ビジュアルは強烈ですが、本作は全体的に七四年版に比べて、マイルドに仕上がっていると云う印象です。キャラクターの描写が判り易いからですね。ストーリーの流れも掴みやすい。
 いや、これは私が七四年版を観たのが随分と昔である所為だからかも知れません。あの頃は、何となくロバート・レッドフォードは男前だが、物語はちょっと退屈な感じがしたものでした。今、見直すと印象が異なるのでしょうか。
 ともあれ、本作は一四三分の長尺ですが、ダレることなく見入っていられました。

 本作はトビー・マグワイアが、全てが終わった後に過去を回想する形式で展開していきます。
 非常に寒々しい三〇年代の大恐慌時代。かなり落ちぶれた感の漂うトビーが、アルコール依存症のリハビリ施設で、カウンセリングを受けている。
 医者からは治療の一環として、胸のつかえを吐き出すべく、文章を書けと勧められる。最初はシブシブと手書きでノートに書き始めるトビー。
 ストーリーが進行していくに連れ、何度か語り手のトビーに場面が戻ってきては、次のエピソードに転換しますが、最初は気が乗らずに手書きだったトビーが、次第に興が乗ってきてタイプライターに移行し、仕舞いには徹夜でタイプしまくります。
 これにはトビーが原作者フィッツジェラルドの分身であると云う意味もあるのでしょう。

 不景気な時代から、景気の良かった時代を回想する構造が、ナニやら現代と重ね合わせられているようにも思われます。
 さて、好景気に支えられた古き良き二〇年代。禁酒法のお陰で逆に密造酒が出回って、皆が大酒飲みだったと云うのが笑えます。幸せに浮かれて騒いで酔っ払っていられた時代。
 夢と希望に満ちあふれ、ウォール街の証券会社に就職するトビー。NY郊外の高級住宅地ウェスト・エッグへと引っ越して独身生活を謳歌するが、たまたま隣の敷地に建つ巨大な邸宅が、謎の大富豪ギャツビー氏の居城。そこでは夜毎に大規模なパーティが催されていた。

 ロング・アイランドの湾に面したウェスト・エッグとは反対側のイースト・エッグに、従姉妹のデイジーとデイジーの夫トム・ブキャナンの屋敷があり、双方の屋敷の位置関係が、CGを使ったダイナミックなカメラワークで判り易く説明されます。随所に挿入されるCGの俯瞰図も効果的。
 他にもロング・アイランドとNYとの位置関係──車で移動する際に、途中に通過する貧困層の住まう〈灰の谷〉がある──も判り易いです。
 また、原作にもある「もう廃業した眼科医院の、巨大な看板に描かれた目」が、神の目の如くすべてを見通すように建っている背景も印象的でした。

 ニック、デイジー、トムの関係からストーリーが始まっていくので、肝心のギャツビー氏は序盤は姿を見せません。しばらくは城の窓に時折見かける人影、といった思わせぶりな演出です。
 このあたりは七四年版と同じですね。ロバート・レッドフォードも序盤には登場しませんでしたし。正体不明の大富豪の噂話だけが先行していくわけですが、遂に満を持して登場するときの演出が、また派手です。
 デカプーはロバート・レッドフォードのように然り気なく登場したりしません。
 狂乱のパーティ会場の喧噪の中で、不意にトビーの前に姿を現す。「私がギャツビーだ」
 その瞬間にデカプーの背後で花火がドドーンと炸裂。うわぁ、アニメか少女漫画みたい。

 この印象はあながち誤りではなく、本作はミステリアスな大富豪の正体についてとか、裏で手を染めている後ろ暗いビジネスについてとかは、詳細に説明したりはしません。
 本筋は、物凄くストレートな恋愛物語です。まさに少女漫画の三角関係そのまま。
 しかも恋愛絡みになると、デカプーの演技が笑ってしまうほどコミカルになってしまいます。

 クールでミステリアス、常に自信に溢れたナイスガイが、惚れた女の前に出た途端に、ガチガチに緊張し、らしくもない失敗を連発してしまう。一部、ほとんどコメディ映画のような演出も見受けられます。
 指先が触れあっただけでドキドキするな(笑)。
 ロバート・レッドフォードのギャツビーは、ここまで笑いを誘ったりはしなかったよなあ(日本語吹替では広川太一郎でしたが、あくまでもシリアス演技だったハズ……)。
 本作のデカプー・ギャツビーは、実に判り易く、親しみやすい。私はこのギャツビーが断然、好きになりました。

 巨万の富を湯水のように浪費するのも惜しくない。何もかもが、一人の女の愛を勝ちとる為のものであり、その為には何だってします。実に献身的で、真摯で、なりふり構わない。
 かつて愛した女性が既に人妻になっていようと、そんなことは些細なことです。
 さすがにトビーから「過去は取り戻せないよ」と忠告されても、聞く耳持たない。非常に楽天的で、盲目的で、そしてそれ故に破滅的です。観ていて非常に危うい。何か考えがありそうで、実は無い(これも若さ故か)。

 愛に生き、愛に殉じて破滅する哀しい男、ギャツビー。純粋すぎるギャツビーと、腐敗した上流社会の対比が効いていました。あの夫婦はどっちもどっちですねえ。あれじゃギャツビーが浮かばれん。
 そして時代と共に、ギャツビーは追憶の彼方に幻の如く消え去っていく。
 悲劇ではありますが、鑑賞後の印象は思ったより爽やかでした。

 ところで、劇中でデカプーが乗り回す高級車が、「黄色いデューゼンバーグ」であるのが素晴らしいですね。まさに「狂乱の二〇年代」を象徴する豪華な車です。
 個人的には、初期のルパン三世の愛車として忘れ難い(実はそれが云いたかった)。




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