グルジア共和国出身のイオセリアーニ監督は、旧ソ連体制下で作品が公開禁止になった為、一九七九年にフランスに移住し、御高齢ながら現在でもパリを中心に映画を撮り続けておられるとか。
本作はそういった監督の自伝的要素を含むドラマです。だからフランス・グルジア合作映画。
昨年、『明りを灯す人』というキルギス映画を観ましたが、グルジア映画というのも珍しい。
時代はソビエト社会主義共和国連邦がまだあった頃(監督自身の経歴に即すれば七〇年代後半ですかね)。映画監督を志すグルジアの若者が共産党体制下での映画制作に行き詰まり、新天地を求めてフランスに移り住んで映画を作り続けるという物語。しかし新天地には「商業主義」という新たな制約が待ち受けていた。
主役の青年ニコラスを演じるのは、イオセリアーニ監督の孫であるダト・タリエラシュヴィリ。
ニコには子供の頃から仲の良い幼馴染みルカとバルバラがおり、三人で連んでは色々なイタズラしたりして遊んでいたが、成長して映画を制作するようになっても交流は続いていた。
主に野郎二人で撮影しては、バルバラがそれを批評するというスタイルのようですが、「このまま上映したら体制批判で公開禁止になるわよ」と云われても、ニコは聞く耳持たない。どうもニコの撮る映画はどれもそういう傾向の作品らしいと云うのが判ってきます。
最新作も案の定、公開禁止になる。妥協しない態度は立派ですが。
ソビエト時代だから、映画制作にはお役人が必ず関与します。
「国費を好き勝手に使ってこんなフィルムを」と云われますが、一体、どんな作品だったのか。撮影時の情景からは、特に問題がある映画には見受けられなかったのですが(笑)。
全編にわたってあまり音楽が使用されず静かで淡々とした印象ですが、イオセリアーニ監督作品とはそういう作風なのだそうな。またセリフが少なく、場面によっては無声映画かと思われるくらい静かな場面もあります。
この手のミニシアター系文芸映画とは、得てして「淡々とした素朴で静かな」作品が多いようですが、本作もご多分に漏れずですね。
ただまぁ、何と云いますか。私がハリウッドのエンタテイメント映画に毒されすぎている所為なのか、観ていて違和感を覚える部分も多々ありました。
総じて、俳優さん達が皆、素人臭い。
主演俳優からして、監督の孫だし。ダト・タリエラシュヴィリは「映画に出るのは好きじゃないけど、おじいちゃんの為なら」と出演してくれたそうですが、それってやはり素人なのか。
少年時代の回想で登場する子役達はともかく、グルジア時代の村人や、官憲達までもが異様に素人臭いのは如何なものか。イオセリアーニ監督作品とはそういうものなのデスか。
例えば、検閲に引っかかった末に留置場にブチ込まれ、官憲から殴る蹴るの暴行を受けるという場面があります。相当にバイオレンスな場面である筈なのに、なんかユルユルな演出のお陰で、悲惨な感じは皆無デス。
この場面には台詞が全くありませんし、殴ったり蹴ったりしても効果音なし。ホントに無声映画になってしまった感があります。
そういう味わいであるのはいいのでしょうが、どうにも役者の「暴行する」というアクションが不自然で、いかにも素人が演技しています的なビミョーな間があいてしまう。殴られた方の倒れ方もわざとらしい。多分、判っていて撮っているのでしょうけどねえ。
釈放されたニコは、たまたまグルジアを訪れていたフランス大使と会う機会に恵まれ、国を出て映画を制作することを勧められる。当初は気が進まなかったものの、家族も賛成してくれたことから、ニコはフランスに渡ることを決意する。
お爺ちゃんの一張羅を譲り受け、何故かハトを贈られ、ニコは一路パリを目指す。
パリに到着してからは、フランスの俳優さん達も登場し、素人臭さは消えますが、ドラマが淡々としていることに変わりは無いデス。
グルジアでは見られなかった様々な人達が行き交う、国際的な街であると云う描写が楽しいですが、国外に出た者にはKGBらしい監視が付いたりもします。これも監督の実体験なのか。
しかしそのあたりは国民の方も先刻ご承知らしく、盗聴・検閲防止策として、ハトを使って故郷に手紙を出したりします。グルジア出発の際に鳥かごを贈られ、「何故ハトを?」と思いましたが、伝書鳩だったとは(笑)。
冷戦時代の共産主義国家に生まれた人の苦労が偲ばれます。
しかしドラマには監督の体験に基づくものばかりではなく、不思議なものも登場します。
実はこの映画には、まったく唐突に「人魚」が登場します。これには意表を突かれました。上半身は黒人のお姉さんで、水面から魚の尻尾が覗いている。いきなりファンタジー。
何故、人魚? しかも人魚はニコを応援しているらしい。
フランス人プロデューサーに気に入られて、映画撮影が進行していきますが、どんな作品なのかサッパリ判らない。すべて観客の想像に任されており、撮影風景から内容を推理するしかありません。
基本はキリストの受難劇らしく、赤ちゃんのオーディションをしたり、バックで尼僧姿のダンサーが踊っていたり、十字架を背負ったエキストラがウロウロしていたりしますが、ワケが判りません。そのあたりは実にユーモラスでした。
ワケが判らないのは劇中でも同じらしく、プロデューサーから「どんな作品になるのか教えてくれ」としつこくせがまれて、ニコがへそを曲げてしまう場面もあります。
イオセリアーニ監督としては、商業主義と戦って映画を撮り続けた苦難の日々を語っているのでしょうが、どうにもニコの演技が素人臭いので、あまり苦労しているようには見受けられないのが困ったところでした。全体的に軽いコミカルな演出の所為もあるか。
あまり「悩めるアーティスト」といった風情は感じられませんです。
撮影に難航しながらも完成させてみれば、出来上がったフィルムが勝手に編集されてややこしくなり、突貫で元の意図したとおりのフィルムに戻したら、更に難解で理解不能になる。試写会が始まり、最初は拍手で迎えられるものの、途中から退席者が目立ち始め、上映終了後にプロデューサーが振り返ると、劇場が空っぽだったという場面は笑えました。
一体、どんな映画だったのか是非、知りたい(笑)。
「娯楽映画じゃないとは判っていたでしょ」
いや、そんな開き直られても。泣きたくなるプロデューサーの気持ちも察してやれよ。あまりにも独創性が強すぎるのも善し悪しです。
グルジアで撮ったら反体制的で公開できず、フランスで撮ったら難解すぎて配給中止か。
失意のニコは再び故郷グルジアに帰郷する。戻ってきたニコを故郷の人達は温かく迎えてくれ、ある晴れた日に一家は皆でピクニックに出かける。
湖畔で釣りをしながらピクニックを楽しむニコであったが、そこへまた人魚が現れ、いずこかへとニコを誘うのであった。人魚と共に水中を泳いでいくニコ。
家族の者が気付いたとき、ニコの姿はなく、そこには釣り竿だけが残されていた……。
えーと。なんでしょうか、この不思議なラストは。
「人魚」がイオセリアーニ監督にとってのミューズであろうとは何となく察せられはしますが、狐につままれたようなエンディングでありました。うーむ。
これがイオセリアーニ監督の映画というものなのか。初心者はイキナリ本作から観たりせずに、別の作品から入らないとダメなんでしょうか。
● 余談
ところでグルジアの国名はキリスト教の守護聖人、聖ゲオルギウスの名に由来するとか。
でも二〇〇九年、グルジア政府は日本語における国名表記を、現在のロシア語表記の「グルジア」から英語表記に基づく「ジョージア」への変更を要請したそうな。なんか缶コーヒーの国みたい。
イオセリアーニ監督自身は「ゲオルギア」の呼称を求めておられるそうですが。
むしろ缶コーヒーの方をゲオルギアと呼んでしまいそうな……。
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