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2011年12月25日日曜日

明りを灯す人

(SVET-AKE)

 本作は実に珍しいキルギス映画。正確にはキルギス・フランス・ドイツ・イタリア・オランダの合作になっております。ヨーロッパの資本をかき集めて、何とか製作に漕ぎ着けたという事情に制作者の苦労が偲ばれます。
 キルギス映画なんて観るのは初めてなもので、監督も俳優も見知らぬ人ばかり。
 監督・脚本、ついでに主演まで勤めているのはアクタン・アリム・クバト。『あの娘と自転者に乗って』(1998年)、『旅立ちの汽笛』(2001年)の監督でもある──って、全然、存じませんでした(汗)。しかも前作までは「アクタン・アブディカリコフ」と云うソビエト連邦時代のロシア名でしたが、本作からキルギス名である「アリム・クバト」に改名したそうな。
 なんか作品より、監督自身のプロフィールの方が興味深い気がします。丸顔にヒゲ生やした穏和そうなお方ですね。国際的な映画祭では数々の賞も受賞しておられるとか。本作が長編三作目。

 一九九一年、ソビエト連邦崩壊後に独立を果たしたキルギス共和国ですが、二〇年経っても政情は不安定。劇中では二〇〇五年当時の「チューリップ革命」が背景に描かれております。
 とは云え、首都ビシケクが革命騒ぎでゴタゴタしていても、物語の舞台となる地方の小さな村では、革命も遠い外国の出来事のようで非常に牧歌的な日常が続いております。
 この日常の描写がなかなか興味深い。淡々とした短いエピソードが紡がれていく展開なので、余計に背景の美しい自然や地元の風俗、風習の方に目が行ってしまいます。
 なんせ天山山脈のふもとのシルクロードの国ですし、なにげに風光明媚。中央アジアのスイスと呼ばれるのも納得です。
 ごく普通の村人の顔立ちも、アジアぽくはあれども、チョいとだけ違っているような(モンゴル的なのかな)。

 主人公は、とある小さな村で唯一人の電気工である「明かり屋さん」。字幕では「ライトさん」となっていますが、パンフレットに表記された「明かり屋さん」の方が趣がありますね。
 配線の取り付けから、アンテナの調節、果ては電気とはあまり関係なさそうな雑用まで、呼ばれたら自転車に乗って駆けつける便利屋として活躍している。
 しかも専門職が自分だけなので、貧しい人の為には無料でメーターに細工して盗電までさせてあげている(だから英語題名が「電気泥棒」 “The Light Thief” )。が、それも遂に当局の知るところとなり、逮捕されてしまう。
 非常に牧歌的なのは、村長の前に呼び出されて盗電容疑を告発されても、あっさりと白状してしまうあたりですね。罪の意識ゼロなトボケた人柄です。
 村長も仕方なく逮捕を命じるが、数日もしないうちに首都ではアカエフ大統領が失脚し、政権は崩壊、明かり屋さんは釈放されて戻ってくる。

 とりとめのないエピソードの連続なので、だからどうしたと云うワケでもなく、遊牧民族的な風俗風習が淡々と綴られていく様子をたゆたうように観賞するのがよろしいのでしょう。
 チャイが美味しそうです。

 淡々エピソード、その一。
 明かり屋さんには娘ばかりが四人もいて、男の子がおらず、それを気にしている。友達と酒を飲んだ際に聞いた「電気で体内の女性ホルモンが消える」なんぞというデタラメを真に受け(どういう都市伝説だ)、酔っ払って夜中に電柱に登って感電する。
 気絶した明かり屋さんを介抱する為に、村人が地面に穴を掘って首だけ出して埋めてしまうというという描写が興味深い。そんな迷信的民間療法がまだ通用するのか。フグの毒抜きじゃないんですけど……。

 淡々エピソード、その二。
 明かり屋さんの仕事を一人の少年がいつも見ている。ある日、登った樹から降りられなくなった少年を助けてくれと呼び出される。救助した少年に「何故、登った」と問う明かり屋さん。少年は「山の向こうが見たかった」と答える。
 実は自分もかつての少年時代にはそうだったことを思い出す明かり屋さん。
 明かり屋さんの仕事道具のひとつが、「靴に装着する金属製の金具」。U字型にカーブしたアームで、左右の足に装着すると巨大なクワガタムシのように見える。これを使ってするすると電柱や樹に登っていく姿が実に職人的で興味深い。
 だからどうだと云われても困りますが。

 劇中で描写されるキルギスの生活様式の中で特徴的なのは、明かり屋さんや他の村人達が被っている帽子ですね。「アック・カルパック」という伝統的民族帽子。
 白地のフェルト帽に、刺繍で線画の模様が描かれている。特にお祭り用でも無く、日常的に男性ならフツーに着用しているので、日本人の目からすると興味深いデス。しばらくすると見慣れてしまい、逆に後半になって登場する都会から来た資本家が、スーツにネクタイ姿であるので、むしろこちらに違和感を感じてしまいます。

 もうひとつは「コク・ボル」という騎馬競技。
 中央アジア伝統のスポーツですね。屠った山羊を騎手達が奪い合ってフィールドをぐるぐる回る競技。映画でこの競技が描かれたのを観たのは『天山回廊』(1987年)と『ランボー3/怒りのアフガン』(1988年)に次いで三回目です。
 コク・ボルは現在でも国際大会が開催されるほどの人気競技であるとか。そうかぁ、まだ盛んにやっているのか。ちょっと懐かしかったデス。

 淡々とした日常が続いていくだけですが、波乱がないワケではありません。
 村に中国資本による開発計画が持ち上がるという展開が、エピソードの中に垣間見えて来ます。
 村人の親類で、国会議員に立候補した企業家が村にやって来て、票集めの支持を求めてくる。「不毛な村を天国にしてやる」と豪語する企業家に、村長は「土地は不毛じゃない。人が生きているんだ」と強硬に反対する。
 とは云うものの、出稼ぎによる過疎化が進み、老人と子供ばかりの村の有様を憂う村長。
 一方、明かり屋さんに対しても企業家の懐柔工作が行われ、明かり屋さんは自分の夢──風力発電による村の電力自給計画──への協力を約束されて、容易く相手を信じてしまう。
 そうこうするうちに村長が亡くなり、開発計画に反対するものがいなくなる。
 企業家が中国から投資家を招いて、村で接待する場に明かり屋さんも招かれる。
 そこで売春婦紛いのダンサーの姿を目にするが、実は彼女は明かり屋さんの知り合いの婆ちゃんの孫娘だった(劇中で、婆ちゃんが「都会に出稼ぎに出た孫娘」に言及している)。
 溜まりかねて酒席を蹴って接待を妨害し、逆にボコボコにされる明かり屋さん。

 実は、この物語にはキチンとした結末がありません。
 ボコボコにされた明かり屋さんが、その後どうなったかというと、いつもと同じように自転車で村を走り回っている。開発計画の方も、特にどうなったのか明示されはしません(多分、継続されているのでしょう)。
 続きが気になるところですが、色々な事件はあれども、人々の生活は続いていくと云うことなのでしょうか。
 明かり屋さんが趣味で庭に立てた風力発電用の風車が回り始め、ほのかに電球に明かりが灯り始める場面で映画は終わります。果たして未来に希望はあるのか。

 最後に「孫達が幸せでありますように」と云う、監督の祈りにも似たメッセージが表示されます。
 二〇〇五年の「チューリップ革命」の後にも、二〇一〇年には「血の革命」が起こり、アカエフ政権後のバキエフ政権もまた崩壊し、オトゥンバエバ暫定政権が発足しておりますが、このオトゥンバエバ大統領(中央アジア唯一の女性大統領)も、二〇一一年一二月で退任されたとか。イスラム国家でありながら、女性が大統領になれたり、民主的な国家運営が継続されているあたり、まだ捨てたものでは無いようで。
 貧困、過疎、汚職といったキルギスの抱える社会問題を絡めながらも、淡々とした素朴な生活の描写が印象的な作品でした。でもちょっと淡々とし過ぎていて、中盤あたりが眠かったのも事実なんですけど(汗)。


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