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2011年12月20日火曜日

源氏物語/千年の謎

(GENJI MONOGATARI)

 作家が物語を執筆する過程を描きながら、紡がれていく虚構の世界も同時並行して描いていこう趣向。なかなか興味深い映画でした。
 ある有名な著作物が完成される過程を描いた映画と云うと『恋におちたシェイクスピア』(1998年)とか、『めぐりあう時間たち』(2002年)、『ネバーランド』(2004年)等々が思い浮かびますが、「物語中の登場人物」まで一緒に描かれると云うと、ちょっと違うか。
 作家が、自ら執筆している物語に翻弄されながら、二つの世界が平行して描かれるというパターンの映画で、一番近いと思うのは、オードリー・ヘップバーン主演の『パリで一緒に』(1963年)とか、ジャン・ポール・ベルモンド主演の『おかしなおかしな大冒険』(1973年)だと思うのデスが、本作はそんなにロマンチックでもコメディでもありませんデス(いかん。古い作品ばかり思い浮かべてしまう)。
 もっと昏く、怪奇な伝奇色に彩られております。
 かの有名な陰陽師、安倍晴明までも登場し、京の都で怨霊退治する一方で『源氏物語』は執筆されていくと云うのだから、現実部分もかなりフィクション入っていますよ。
 そもそもこれは高山由紀子の『源氏物語 悲しみの皇子』の映画化であって、紫式部の原典の映画化では無かったと云うことを鑑賞後に知りました(汗)。

 まずは冒頭で、時の権力者である藤原道長と紫式部の逢瀬が描かれますが、かなり強引な態度に出る道長。女性に無理強いはイカンのではないか。
 道長は「私は何をしても許されるのだ」と嘯く傲慢な貴族である上に「私は世を照らす光である」とまで云いきる。凄い自信ですな。
 この言葉が式部の脳裏に刻まれ、やがて創作された主人公の名前が「光源氏」となる。
 もうはっきりと藤原道長が光源氏のモデルであると云う解釈です。
 そもそも道長は式部のパトロンでもある。式部は女官として道長の屋敷に勤めながら、雇用主のオファーに従って執筆しているという設定。
 目的は「道長の娘が朝廷で帝の寵愛を得られるように」という、かなり俗っぽい動機。世界的名作はそんな理由で誕生したのか。娯楽の少ない時代だったのねえ。

 本作では、平安時代の雅な世界が非常に豪華に描かれておりました。衣装もセットも音楽もかなり気合いが入りまくり。これは一見の価値ありでしょう。
 特に藤原道長の住まう土御門御殿のセットがかなり大掛かりでした。
 本格的な雅楽がBGMとしても使われ、道長が帝を招いて催す宴の場面など実に華麗です。

 さて、現実世界での配役は──
 紫式部を演じるのは中谷美紀。あまり喜怒哀楽を表さない女性で、その分の感情を全て執筆活動に注ぎ込んでいる感じ。これはかなり情の強い女性です。道長に対して愛憎半ばする想いを秘めていて、その情念が創作活動の原動力であるという描かれ方をしています。
 藤原道長は東山紀之。チョイ悪な感じのイケメン貴族ですね。ある意味、もう一人の光源氏とも云える。
 安倍晴明は窪塚洋介。飄々とした感じの陰陽師でなかなかカッコイイです。今までなら安倍晴明と云うと、野村萬斎の顔が思い浮かんでしまっていたのですが、本作の窪塚晴明もなかなか。式神の女の子を常に侍らせているのが如何にも陰陽師という感じデス。

 一方、物語世界での配役は──
 光源氏が生田斗真。フィクション世界の超絶美男子をどう演じるのかと思っておりましたが、これはこれでなかなかリアルなキャラで宜しいのではないか。劇中で「青海波」を舞うシーンがありますが、御本人が見事に踊っておりました。
 藤壺中宮と桐壺更衣を真木よう子が一人二役で演じています。真木よう子の演じ分けがなかなか巧いです。
 本作では、光源氏と関係を持つ女性がぐっと整理されて三人になっています。キャラが整理されたお陰で、相関関係もかなり判り易くなっています。
 葵上の多部未華子(正妻)、夕顔の芦名星(愛人その一)、六条御息所の田中麗奈(愛人その二)。
 皆さん平安美女を華麗に演じておりますが、やはり印象的なのは田中麗奈ですね。嫉妬に狂った狂気を孕んだ演技が圧巻です。怪演と云っても良い。生霊と化した田中麗奈がおどろおどろしいCGオーラを発しながら、ワイヤーアクションで宙を飛びます。

 『源氏物語』の物語は、ダイジェストですが判り易く描かれています。
 帝の息子として生まれながら、正妻の子では無かったが為に家臣の位に落とされ、数奇な運命に翻弄される光源氏。
 幼くして母を亡くし、母の面影を求めた女性を得ることは叶わず、代償行為に走った挙げ句、手を出した女性が嫉妬に狂ってサイコな人になってしまい、生霊となって恋敵を片っ端から苦しめていく。
 ええと……。『源氏物語』って、そういう物語でしたか? 学生時代にサワリだけ読んだ程度なので、全然覚えてないや(汗)。
 でも本当に、六条御息所は生霊となって、葵上をとり殺すストーリーなのだそうな。
 六条御息所、怖ェ。
 今までただの恋愛小説だと思っていました。よもやそのような伝奇小説だったとは。

 『源氏物語』が帝の愛読書になったおかげで、道長の娘(蓮佛美沙子)は一条天皇(東儀秀樹)のもとに嫁ぐこととなり、道長の大願は成就する。しかし式部の筆は止まらず、物語は更に継続されていく。一体どこまで描かれていくのか。
 安倍晴明はそんな紫式部の様子に不穏なものを感じ取る。
 物語を紡ぐという行為が、呪いをかけるという行為と同義になっていくのが怖いデス。遂げられぬ想いが筆を走らせ、光源氏はますます不幸になっていく。
 「凝り固まった想いが毒となって、あの者の体内を巡っております」と安倍晴明は云う。
 この場合、光源氏が道長で、六条御息所が式部自身という構図ですね。
 このままでは現実世界の道長にも悪影響が及ぶことを懸念する安倍晴明。

 伝奇的描写として、安倍晴明が物語の世界に出入りして、生霊である六条御息所を調伏しようという場面もあります。凄い解釈ですな。
 安倍晴明vs.六条御息所。窪塚洋介vs.田中麗奈。
 晴明の祈祷により、退散する生霊。さすが名だたる陰陽師。
 実際には「物語の世界に出入りする」と云うよりは、安倍晴明は眠っている紫式部の精神にサイコダイブ(笑)しているのでしょう。紫式部の潜在意識下の世界が『源氏物語』ワールドになっているので、こんなトンデモなシーンになるのですね。
 だから晴明が語りかけているのは、六条御息所の生霊では無く、実際には紫式部自身の意識ということになります。
 果たして晴明の説得が効いたのか、それから程なくして紫式部は道長に暇乞いをする。 故郷に旅立つ式部を見送って晴明が漏らす。「鬼となる前に、自ら身を引いたか」
 『源氏物語』が終わってしまったのは、安倍晴明の所為だった──って、ホンマかい。

 一方、物語の中では、光源氏は愛した女性を全て失い、最後の希望だった藤壺までもが出家してしまい、後を追うも僧達に阻まれる。もはや二度と逢うことは叶わない。
 絶望して彷徨う光源氏が橋の上ですれ違った人物は……。
 登場人物と作者が邂逅するという、現実と虚構が交錯するラストシーン。『源氏物語』の最終巻は「夢浮橋」という題名ですが、まさにその言葉をイメージ化したような幻想的な光景です。
 「一体、どこまで私を苦しめるのだ」と作者に恨み言をぶつけるメタ的な展開。
 それに対して紫式部が応える。

 それが多くを惹きつけて止まぬ者の背負った定めなのです。

 原典である『源氏物語』は、「光源氏が恋愛遍歴を繰り広げつつ、朝廷で栄誉を極める」前半と、「愛に破れて無常を覚り、出家を志す」後半に分かれ、更に「光源氏没後の子孫達の物語」まで続いていくそうですが、そこまで本作では描かれません。
 しかしその後も紫式部は書き続けたと云うことなんですかね。光源氏の受難はまだまだ続いていくということなのでしょうか。なかなか幻想的な幕切れでした。


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