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2014年4月8日火曜日

ウォルト・ディズニーの約束

(Saving Mr. Banks)

 名作ミュージカル映画『メリー・ポピンズ』(1964年)は如何にして誕生したのか。本作は映画化を望むウォルト・ディズニーと原作者のP.L.トラヴァース夫人との関係に焦点を当てて、映画制作現場と共に、原作者自身の半生も描き出すヒューマンドラマです。
 元ネタになる映画化作品のことを知っていると、なお一層楽しめるような小ネタが随所に散りばめられており、映画好きの方にはお薦めです。
 監督はジョン・リー・ハンコック。サンドラ・ブロック主演の『しあわせの隠れ場所』(2009年)の監督さんですね。本作もまた感動的なドラマに仕上がっております。

 この手の「実在の映画を制作するストーリー」だと、かつての有名監督や有名俳優を現在の役者が演じることになり、その化けっぷりも楽しみの一つです。
 近年だと、アルフレッド・ヒッチコック監督が『サイコ』(1960年)を制作する顛末を描いた『ヒッチコック』(2012年)とか、マリリン・モンローが『王子と踊子』(1957年)に出演していた時期を描いた『マリリン 7日間の恋』(2011年)あたりを思い出します。
 前者ではアンソニー・ホプキンスがヒッチコック監督役になり、後者ではミシェル・ウィリアムズがマリリン・モンロー役になり、どちらも大変よく似ておりました。

 でも本作には映画監督や主演俳優には出番なしです。登場するのは、原作者と製作者、脚本家や作曲家といった人達。主役は原作者と製作者です。
 エマ・トンプソンがトラヴァース夫人役であり、トム・ハンクスがウォルト・ディズニーその人を演じております。トラヴァース夫人がどんな人だったか存じませんので、エマ・トンプソンがどの程度似ているのか判断が付きかねますが(でもきっとよく似ていたのでしょう)、トム・ハンクスの方はウォルト・ディズニーの特徴をよく捉えていたように思われました。
 本作の劇中で、TV番組『ディズニーランド』にホスト役で出演しているトム・ハンクスの場面があって、実に懐かしかったデス(モノクロ番組なところも再現度高いし)。アニメ合成されたティンカーベルと会話する様子も、私が幼少期に観た雰囲気によく似ておりました。但し、当時のティンカーベルはあんなに可愛くなかったような気がしますが。

 『メリー・ポピンズ』の脚本を書いたドン・ダグラディ役が、ブラッドリー・ウィットフォード。数々の名曲を作曲したシャーマン兄弟役は、B.J.ノヴァク(兄ロバート)とジェイソン・シュワルツマン(弟リチャード)です。
 特に本作ではリチャード・シャーマン御本人がコンサルタントを務めていたそうで、細かい部分まで当時の雰囲気が再現されているそうな。
 劇中で披露されるシャーマン兄弟の歌曲は色々と馴染み深いです(でも個人的には『メリー・ポピンズ』より『くまのプーさん』や『チキ・チキ・バン・バン』の方が好みですが)。

 俳優の方はディック・ヴァン・ダイクにチラリと言及されるだけで(しかもボロクソにケナされておりました)、ジュリー・アンドリュースは名前すら出てこないのが残念でした。
 一応、ラストの『メリー・ポピンズ』完成試写会の場面で、スクリーンに本物が大々的に登場してくれますが、撮影風景とかは一切スルー。ディック・ヴァン・ダイクがアニメのペンギンと踊る有名な場面もちゃんと披露されますが、それを撮影しているところはナシです。
 完成試写会の場面では、ディック・ヴァン・ダイク役やジュリー・アンドリュース役らしい俳優さんもチラリと登場しますがまったく小さな扱いです。
 本作では映画制作のもっと前の段階──脚本と歌曲の完成まで──がメインです。

 しかし『メリー・ポピンズ』の映画化がこんなにも難産であったとは存じませんでした。
 その原因は、何と云っても原作者のトラヴァース夫人がダメ出しを連発しまくったからなのですが、傑作児童文学の作者がこんなにも頑固で偏屈な人であったとは、ちょっと驚きデス。
 実は原作の『風にのってきたメアリー・ポピンズ』──小説の方は「メリー」ではなくて「メアリー」なのか──を読んだことありませんです(汗)。
 書評によるとイギリスらしいユーモアを交えた小説であるそうなのですが、それを書いた御本人にはユーモアの欠片もなさそうな描かれ方でした。
 更に本作を観ると、何やら随分と原作からは懸け離れた映画化になってしまったらしいことが伺われ、面白そうなので最初の第一作くらいは読んでみようかしら。

 トラヴァース夫人が最初の『メアリー・ポピンズ』を書いたのが一九三四年。小説に惚れ込んだウォルト・ディズニーは早い段階から映画化を希望していたが、打診されたトラヴァース夫人は頑として首を縦に振らなかった。
 そして二〇年の歳月が流れた一九六一年。執筆が捗らず印税収入が断たれたトラヴァース夫人は、このままでは住み慣れた家を手放さねばならないところまで追い詰められて、ようやく重い腰を上げてロンドンからハリウッドにやって来る。
 ディズニー・スタジオから派遣された運転手の役で、ポール・ジアマッティが出演しておりました。人の良いリムジン運転手で、真っ先にトラヴァース夫人の餌食にされてしまう可哀想な人ですが、どんなに酷い憎まれ口を叩かれようとサラリと流してしまえる人徳者だったりします。

 エマ・トンプソンが愛想の全くないトラヴァース夫人を熱演しております。もうユーモアの欠片も無く、トゲトゲして、憎まれ口叩きまくり。こんな人があの傑作児童文学(読んだこと無いのですが)の作者であるとは、何としたことか。
 最初は明るくフレンドリーに出迎えようとしていたディズニー・スタジオの面々も面食らい、映画化の打合せは遅々として進まない。トラヴァース夫人はアニメを頭から小馬鹿にし、原作改変など一切認めず、劇中歌として用意した歌の歌詞にちょっとした造語があるだけで全否定。
 シャーマン兄弟が慌てて「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」の楽譜を隠そうとするのが笑えました。

 一体全体、トラヴァース夫人は何故、かくも頑固で頑なな人になってしまったのか。
 本作では、映画化の打合せと並行して、トラヴァース夫人の幼少期も描かれていきます。一九〇六年のオーストラリア。
 少女時代のトラヴァース夫人はギンティと呼ばれる可愛らしい少女であったのがビックリです。演じているアニー・ローズ・バックリーちゃんが実に素直で明るく愛らしい。
 あまりにも可愛らしく良い娘なので、この少女がどこでどんな風にして、あのいけ好かない「トラヴァース夫人」になってしまうのか、その過程が実に興味深かったデス。
 少女の両親役は、父親がコリン・ファレル、母親はルース・ウィルソンが演じています。

 コリン・ファレル演じるお父さんは娘を溺愛しており、長女であるギンティもパパっ子です。しかし家庭では優しいお父さんも、なんだか仕事上では上手くいっていないようです。
 父親の職業が銀行員だと云うのが明かされ、どうやら都会の支店から地方へ栄転──と云うか、左遷──になったらしい。このあたりは少女の視点から描かれているので、あまり深い事情は判りませんが、母親の表情が渋い辺りで引越がそれほど良いことではないのが伺えます。
 二〇世紀になってからもオーストラリアの田舎の様子は、アメリカの西部開拓時代を思わせる風景です(それだけ文明化も遅れていたのか)。

 やがて仕事上のトラブルから、父親は次第に酒に溺れ始める。そしてアルコールは父親の身体を蝕み、健康上の実害を及ぼすまでになっていく。深い事情は判らないまでも、家庭の状況はどんどん悪化していきます。
 本作では、現在の映画制作の現場と、トラヴァース夫人の少女時代が交互に平行して描かれていく構成になっており、トラヴァース夫人が頑なな態度を取る理由も、やがて明かされていきます。

 実は原作小説は、作者の少女時代の出来事を色濃く反映した内容だったと云うのが興味深いです。脚本を検討する打合せの最中に、ブラッドリー・ウィットフォードが脚本の中の台詞を読み上げていくシーンと、少女時代の中でコリン・ファースが酔ってスピーチする場面が交錯する演出がお見事でした。
 実は『メアリー・ポピンズ』の劇中に登場する銀行家バンクス氏とは、トラヴァース夫人の父親がモデルであり、小説は単なる児童文学ではなく、父親と娘の物語でもあったようです。
 バンクス氏を悪役っぽく描こうとした脚本にトラヴァース夫人が激怒するのも無理もない。

 しかし打合せがこじれる原因になったのは、トラヴァース夫人が理由を説明すること無くNGを連発したからなのですが、きちんと説明すれば判ったもらえたのではと思わないでもないデス。妙にプライドが高く、自分の弱みを見せることを嫌ったのか。
 不幸な少女時代に誰も自分を助けてくれなかったことで、世間に対して敵対的になり、他者を気遣うことをやめてしまったのだと察せられます。しかし優しい気持ちを失ったわけでは無く、運転手であるポール・ジアマッティの娘が障害者であることを知ると、思い遣りに満ちたメッセージを書いてくれたりもします。
 まぁ、心底、心の冷たい人に『メアリー・ポピンズ』なんて小説が書ける筈もないか。

 父親の病状はいよいよ悪化し余命幾ばくも無く、母親はそれを悲観して自殺未遂を起こす。育児放棄寸前な母親と家庭崩壊の危機に直面した一家を救うべく、ある風の吹く日に親戚の叔母さん(レイチェル・グリフィス)がやって来る。
 もう誰がどう見ても、この人がメリー・ポピンズのモデルだろうと云うのが明かなレイチェル・グリフィスの様子が楽しいです。
 しかしレイチェル・グリフィスは結構、子供にもシビアな叔母さんで、映画『メリー・ポピンズ』のジュリー・アンドリュースとは似ても似つきません。間違っても「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」なんて歌ったりしそうにない。

 実は原作小説のメアリー・ポピンズとは、ジュリー・アンドリュースのような朗らかで楽しい人物ではなく、割とシニカルであったそうで、完成試写会でエマ・トンプソンが顔をしかめている理由も尤もです。多分、原作を読んだ読者は皆さんそう思うのかな。
 結局、ウォルト・ディズニーがトラヴァース夫人が不幸な少女時代を送ったことを突き止め、自分自身の少年時代も似たようなものであることを明かし、心のわだかまりを解くわけですが、ディズニーの少年時代のエピソードも相当に悲惨であったとは存じませんでした。

 「哀しい思い出を抱き続けて生きていくのは辛いことだ」とエマ・トンプソンを諭すトム・ハンクスの言葉が心に沁みます。そして映画のラストは「バンクス氏が壊れた凧を直すエンディング」に改変され、子供達にもバンクス氏にもハッピーな結末が採用される。
 原題(“Saving Mr. Banks”)の通り、映画化によってバンクス氏は救済され、現実では果たされなかったトラヴァース夫人の願望が叶うことで、頑なだった夫人の心も癒やされていく。
 完成試写会で他の観客が笑っている中で、エマ・トンプソンだけが涙を流している様子が印象的でした(そうは云っても、ひねくれ者の性格はちょっとやそっとじゃ治りませんけど)。

 エンドクレジットでは、オマケとして本物の原作者P.L.トラヴァース夫人とウォルト・ディズニーのスナップショットや、制作スタッフ御本人たちの写真が披露されていきます。制作過程で描かれたキャラクターのラフ・スケッチも興味深い。
 トム・ハンクスやエマ・トンプソンを始めとして、出演陣の役作りも頑張っていたのが判ります。
 そして最後の最後に、トラヴァース夫人の肉声が録音されたテープが登場します。うーむ。本作で描かれたエマ・トンプソンの無茶ぶりは、決して誇張では無かったのですね。




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