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2013年8月5日月曜日

風立ちぬ

 

 スタジオジブリによる宮崎駿監督の話題作です。ようやく観に行く気になりました。
 まぁ、公開前はね、早く観たいものだと思っておったのですが、色々とありまして。最初は試写会の上映に応募したら当たったのです(実に珍しい)。これで一足先に観られるわいと当日劇場に足を運んだら、既に満員御礼で門前払い。試写会って当たれば必ず観られるものではないのか。これがケチのつき始め。
 それ以前から、TOHOシネマズで映画を観ると、やたらと長い──四分もある──予告編をたっぷり見せられるのも辟易モノでした。何を観ても必ず『風立ちぬ』の予告編が付いてくる。いい加減にしてくれ。
 だんだん、なんかもう観てしまったような気にすらなって、二の足踏んでおりました。しかも既に観てしまった知人からは、あまり芳しくない噂も聞くし。

 出来るだけ観に行く前に事前情報は仕入れたくないのですが、本作の場合はイヤでも耳にしてしまいます。宣伝のし過ぎではなかろうか。
 本作は宮崎駿監督が初めてファンタジー路線から離れたリアルな世界を描いた作品であるとか、監督が完成後に「自分の作品で初めて泣いた」と自賛したとか、色々と伝わってくるほど、こちらは熱が冷めていきました。
 特に、監督自身の手前味噌な自賛コメントは如何なものか。他にも、主役の配役が本職の役者ではなく、庵野秀明であると云うのもちょっとなぁ。もう何回、予告編でクリスティーナ・ロセッティの「風」──「誰が風を見たでしょう」と云う詩ね──の朗読を聞かされたことか(しかもちょっと棒読みだ)。
 どうにも後ろ向きなことばかり書いておりますが御容赦を。
 そしていざ公開されるや、劇場は超満員。宣伝の効果もあってか、宮崎駿監督の人気は大したものだと思いつつ、少し劇場が空くまで待ってもいいや、なんて不埒な考えに及んでしまいました。

 で、ようやく観たわけですが……。
 まず真っ先に、何故これがリアルな作品だと云われているのか不思議に思ってしまいました。
 確かに、実在した航空設計技師、堀越二郎が主人公ですがね……。零戦の設計者が主人公だとか、序盤の関東大震災の描写が凄まじいとか、確かにリアルな背景は感じられましたが、ストーリーそれ自体は思いっきりフィクションでファンタジーでしたねえ。
 そもそも「風立ちぬ」と云うタイトルに騙された。

 予告編で散々目にしておりましたが、本作は「堀越二郎と堀辰雄に敬意を表して」製作されていると云うのに、堀越二郎の方にばかり目を向けて、堀辰雄には注意しておりませんでした。劇中で言及される、もう一篇の詩──ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」──を訳したのが堀辰雄であるから、堀越二郎と一緒に名前が挙げられているのだと思っていました。確かに「風立ちぬ、いざ生きめやも」は名訳です。しかしそれだけでは無かったのですね。
 本作は堀越二郎の映画と云うより、堀辰雄の映画のような気がします。バリバリに『風立ちぬ』のアニメ化ですよ(いや、だからそうなんだけど)。

 「風立ちぬ」と云われて、真っ先に松田聖子のヒット曲が頭に浮かんでしまうのは仕方ないとして(仕方ありませんよね)、その次はやはり山口百恵主演の文芸シリーズでしょう。
 川端康成の『伊豆の踊子』(1974年)とか、三島由紀夫の『潮騒』(1975年)なんて文芸作品を山口百恵主演で映画化していったシリーズで、その中の一つが堀辰雄原作の『風立ちぬ』(1976年)。三浦友和との共演もパターンでしたねえ(若い人は知らぬか)。
 『風立ちぬ』は他にも何度も映画化されたり、ドラマ化されたり、アニメ化もされておりますね。
 本作は、劇中で詩が引用されるだけでは無く(それだけだと思ってました)、ストーリーも一部が堀辰雄の『風立ちぬ』に則って進行していきます。

 確かに、堀越二郎は結核を患った女性と高原で知り合い、恋に落ちて結婚してなどおりませんからね。婚約者が結核を患い、後に亡くなっているのは堀辰雄の方です。
 本作は、堀辰雄が自身の体験をもとに執筆した自伝的小説を、主人公を堀越二郎にして語っているわけで、なんでこんなヘンなことをしているのか理解できませんです。もともと宮崎駿監督は同名のコミックスを雑誌に連載していて、本作はそれに基づく映画化なのだそうですが、『モデルグラフィックス』は読んでないから存じませんでした。
 宮崎駿監督の中では、堀越二郎と堀辰雄が分かちがたく結びついているのでしょうか(同時代の人だからかしら)。
 だから展開に不自然なところがあります。

 試作した飛行機が失敗して墜落する場面があり、次のシーンで堀越二郎が何処かの高原を訪れている(何となく軽井沢ぽい)。そこで十年前の関東大震災の折りに知り合った女性と再会すると云う流れですが、あの状況下で堀越が仕事を放り出して傷心旅行に出る理由が判りませんです。
 劇中では一切、何の説明もありません。気分転換にしても、遠出しすぎでは。
 しかも再会した途端、恋に落ちて、交際を申し込んだら、相手の女性が結婚まで即OKだと云う。いくら何でも、その、ファンタジー過ぎやしませんか。

 ある程度、堀越二郎の設計技師としての半生を描きつつ、どこかで堀辰雄の半生もなぞってもらわねばならないので、何となく木に竹を接ぐ展開になってしまった感があります。
 しかも時代が昭和の初期。迫り来る戦争への不安が描かれておりますが、ドイツ人観光客カストルプ氏の説明台詞があからさまです。
 どこかで時代背景も説明したいと云うのも判りますが、宮崎駿監督らしからぬワザとらしい演出に思われました。
 配送された部品を詰めた箱に、緩衝材代わりに古新聞が使われていて、そこに「上海事変」の文字が読めるところなんかは巧いと思いましたが、カストルプ氏は存在自体が説明的でした。

 本作を「堀越二郎の半生を描く」と云ってしまうのは如何なものか。
 しかも堀辰雄のパートから離れると、もうひとつのファンタジー展開があります。イタリアの著名な飛行機製作者であるジャンニ・カプローニ伯爵との、時空を越えた邂逅という場面です。
 実際に堀越はカプローニと会ってなどいないし、歳も離れすぎているでしょう。だから夢の中で会う。しかも何度も。

 冒頭の堀越二郎の少年時代に出てくる夢くらいなら、まだいいと思ったのですが。
 飛行機に憧れ、でも視力が弱く飛行機乗りにはなれそうにない。航空雑誌に写真の出ていたカプローニ伯爵の記事を目に留めた夜、夢の中に伯爵が登場する。
 互いにここは自分の夢の中だと譲らず、では両者の夢がつながったのだろうとなる(言葉も通じるし)。そこでカプローニ伯爵は、自分も飛行機の操縦など出来ないと白状し、操縦など出来なくとも設計は出来ると説く。
 「日本の少年よ、夢に形を与えるのが設計家だ」
 そして目が覚めた堀越少年は、飛行機の設計家を志す。主人公の動機付けとしては見事な導入であると思いましたが、その後何度もカプローニ伯爵は堀越二郎の夢の中に現れます。
 人生の師のような扱いです。

 「日本の少年よ、まだ風は吹いているかね」
 「はい。大風が吹いています」
 「そうか。では、生きねばならんな」

 でも夢の中のカプローニ伯爵は、果たして実在した伯爵と同一人物なのか判りません。すべて堀越二郎の側からしか描かれていないし、伯爵が「日本の少年」を気に留めていたのかなんて描写は皆無です。
 ひょっとしたら全て堀越二郎の思い込みなのかも。
 そうなると、空想上の人物がひょいひょい現れて語りかけてくるような展開は、ファンタジーと云われても仕方ないような気がしますです。ますます「リアルな作品」ではないような。
 まぁ、本作をリアルな作品だと云っているのは、プロデューサーさんの方ですけど。

 大正から昭和にかけての日本の世相──震災や世界恐慌──については、見事に描かれていると思いマス。特に「震災後の困難な時代を生きていく」と云うあたりに、現代と重なる部分も感じ取れます。
 その中で「美しい飛行機を作る」ことに情熱を傾け、「夢に形を与えよう」と一生懸命な主人公の姿は素晴らしいです。青春の熱気というものについては、もうヒシヒシと感じられます。
 設計技師同士の勉強会の場面なんて、その最たるモノです。ジブリの前作『コクリコ坂から』(2011年)のクラブハウス〈カルチェラタン〉の場面に通じるものがありますね。宮崎駿監督はこういうのを描かせたら本当に巧い。
 勉強会の最中に、技師仲間達の頭上に架空の飛行機が現れ、次第に明確な形を取り始める場面は、絵だけで見せる実に印象的な場面です。

 ところがその……。堀越二郎と菜穂子の恋愛については、何とも素っ気ない。いや、キスシーンが三回もありますし、互いに労りながら暮らしているのは判りますが、どうにも病の奥さんを蔑ろにしすぎているような。
 しかも結婚はかなり電撃的に行われますが、結婚してからは双方の実家が何か云ってくることは無い(二郎の妹は登場しますが、菜穂子の父に出番はありません)。
 海軍からの新型艦上飛行機の発注を受けて、連日のハードワークに、奥さんは一言も文句を云わず、あまつさえ自分といるときに二郎が喫煙することを許す。
 本作では、やたらと喫煙シーンがあるのも、今までのジブリ作品らしからぬ演出で奇異に思われました。そういう時代だったとしても、結核を患う愛妻の隣で、喫煙することを妻自身が許可すると云うのは……いや、随分と男にとって都合の良い女性であると云わざるを得ません。
 男の仕事に理解を示し、見返りを求めず、純愛を貫き、死期を悟ると男の邪魔になる前にひっそりと姿を消す。
 男の理想とも云える妻の姿ですが、これこそファンタジーだよなぁ……。

 どうにも「男の情熱」については明確で判り易いが、「男女の恋愛」については一方的で御都合主義のような気がしてなりませんデス。宮崎駿監督の持論が「アニメは子供が見るものである」であるのも、ここいらに理由があるのでは。

 それから姿を消した菜穂子がどうなったかとか、二郎がどうしたとか云うところを一足飛びに飛ばして、ラストシーン。
 再びカプローニ伯爵と夢の中で邂逅します。夢の風景も、遠方が火の海だったり、飛行機の残骸が散らばっていたりで、無残です。これだけで一気に十数年が経過し、日本は戦争に負けて酷いことになっているのが暗示されます。
 伯爵は歳を取らず夢の中で待っている。「君の十年はどうだったかね」と問われて、堀越二郎はその成果たる零戦を伯爵に披露します。

 「あれが君のゼロか」
 「ええ。でも一機も帰っては来ませんでした……」

 本作については、零戦が登場するのはこのラストシーンだけで、劇中で完成させる場面すらないのに、「零戦の設計者、堀越二郎」と盛んに宣伝されると云うのは、どうにも解せませぬ。主人公が堀越二郎である必然も無かったような……。単なる「飛行機好きの設計技師」でも充分だったのでは。
 しかもこれだけで「零戦を讃えている」と批判するコメントがあるのは筋違いですねえ。本作が戦争を肯定しているなんて云うのは、もはや難癖でしょう。

 「飛行機は美しい夢である」と云うのが、宮崎駿監督の中では『紅の豚』(1992年)にも通じるテーマのようで、そこに政治的なものは感じませんでしたです。
 それよりも、その夢の中で菜穂子が二郎を待っていたと云う描写の方が気になりました。
 恐らくは身を引いた後、間もなく亡くなったのだろうと察せられますが、静かに微笑みながら夫が来るのを待って佇んでおられます。うーむ。如何に主人公の内面世界の描写であろうと、やっぱり都合良すぎな感じがします。
 個人的には、本作は宮崎駿監督のいつものファンタジー映画であるとの印象が拭えません。しかもかなり私的なファンタジーのような。




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