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2012年10月29日月曜日

009 Re:CYBORG (3D)

(009 Re:CYBORG)

 石ノ森章太郎原作の『サイボーグ009』が、『攻殻機動隊S.A.C.』の神山健治監督により何度目かのリメイクとして甦りました。いや、懐かしい。個人的に『サイボーグ009』と云うと、遙か昔のモノクロアニメであったり、七〇年代のリメイク作品だったりするのですが──今でも「島村ジョーの声優さんは?」と訊かれると、即座に「井上和彦」と答えてしまう──、今まで観た中で一番リアルな009ですねえ。
 リアルすぎてちょっと原作から乖離しすぎたような感覚さえ覚えます。でも実にスタイリッシュです。

 とは云え設定上、誕生したのはやっぱり冷戦時代なので、再会するのも三〇年ぶりという台詞も聞かれます。サイボーグ戦士は歳をとらないのか。
 それはいいとしても、ギルモア博士まで壮健なのはやはり不自然なのでは(笑)。
 個人的には「三〇代のイワン・ウイスキー」をリアルに描いてくれても良かったと思うのデスが、それでは原作無視もいいところか。
 キャラクターのビジュアルは、賛否が分かれるところですねえ。

 特に002が凄い。
 リアルに「超音速で飛ぶサイボーグ」を描くとこうなっちゃうのか(でも生身の顔面を晒して飛ぶのは危険だと思いマスが)。首から下が完全に機械になったようで、それでは004ではないかと云いたくもなります。なんか「サイボーグ」と云うより「電脳義体」な趣です。同じことか。
 しかもよく考えると、あれではジェット・リンクは全裸で飛行しているのではないか。
 マッパでマッハを超えるというダジャレなのかしら。

 また、変なところでリアルに「002と007は各々の国の諜報機関に就職している」と云う設定があります。
 ジェットは米国NSA(国家安全保障局)、グレートは勿論、英国MI6。名実共に「グレート・ブリテンは007」なのか。殺しのライセンスも見せて戴きたかったデス。
 他にも、006とギルモア博士が「〈張々湖〉の商標登録をめぐって泥沼の訴訟合戦を繰り広げている」と云う会話もあって、リアルに描くのは良いとしても、なんだかエラく生臭い背景になっちゃったなあと苦笑してしまいました。

 そんな中で、009は本来のカーレーサーと云う職業では描かれず、延々と記憶をリセットしながら高校生として暮らしてると云うシュールな描写もあります。
 だから島村ジョーは前半はずーっと学生服着用です。事件に巻き込まれて着替える間もないというのは判りますが、「学生服を着た島村ジョー」というのもなかなか奇妙な感じがしました。
 石ノ森章太郎のコミックで、学生服を着たヒーローと云うのは色々思い浮かぶところですが、私が一番強く連想したのが『幻魔大戦』でした(元は平井和正の小説ですけどね)。
 『幻魔大戦』の主人公の名前が「東丈(あずま じょう)」だったことを考えると、これは「ジョーつながりのオマージュ」なのか。判り辛いなー。それとも考えすぎか。

 主要メンバーが九人もいるので、各キャラクターに均等に見せ場を用意出来ないのは、もはややむを得ないでしょう。それは理解できます。
 でもただ一名だけ、完全に割を喰らったと云うか、全く見せ場の無いキャラがいたのも残念でした。
 やはり008は地味だからか。メンバーの中では002と並んで、超リアルにカッコ良くリファインされているのに。もうシドニー・ポワチエ風から、デンゼル・ワシントン風に進化しているようにすら見受けられたのに。ピュンマ~(泣)。
 メンバーの中では真っ先に謎の核心に迫っていたのに、その所為で行方不明になって終盤になっても戻ってこられず、エピローグまで出番無しとは哀しすぎる。
 まぁ、004も、006も、007もそれほど活躍していたとは云えませんけどね。
 やはり本作は「002と009の物語」なんですかねえ。

 で、本作の物語なのですが──。
 世界各地で超高層ビルを狙った連続爆破テロが発生する。実行犯達に相互の関連は無く、皆が一様に「〈彼の声〉にしたがったのだ」と証言する。
 「人類をもう一度やり直す」と云う〈彼の声〉とは何か。
 時を同じくして、「巨大な翼を持った人類の化石」がアフリカで発見される。その姿から〈天使の化石〉と呼ばれるものは、〈彼の声〉と関係があるのか。

 なんか石ノ森章太郎の作品と云うよりも、これは押井守の作品なのではと思えるほどに、作品全体に押井守ぽいイメージが満ちているように見受けられました。いいのかなぁ。
 神山監督は押井守に師事した方ですから、押井守に似てくるのは自然なのでしょうが、それにしても本作の監督は、本当は押井守なんじゃないかと疑いたくなるほどデス。

 大体、モチーフとなる〈天使の化石〉という設定からして、八〇年代から押井守の作品を知っている方には憶えのある代物ですよね。
 企画が流れて日の目を見なかった幻の『ルパン三世』とか、『天使のたまご』(1985年)と云う前衛的なアニメもありましたし、九〇年代になって原作を書いた(作画は今は亡き今敏でした)『セラフィム 2億6661万3336の翼』というコミックスにも描かれておりました。
 今敏監督亡き今、もう『セラフィム~』は未完のまま完結しないのか……。
 どうにも〈天使の化石〉ネタは不遇ですね。なかなかキチンと完結しないと云うか。

 なんてことをツラツラ考えておりますと、本作のキャッチコピー「終わらせなければ、始まらない」と云うのは、一体どっちのことを指しているのか判らなくなりますデス。
 当初、石ノ森章太郎が完結できなかった『天使編』と云うか『神々との闘い編』を解釈し直して完結させてくれるのかなぁと漠然と考えておりました。劇中で言及される「人類をやり直す」とする〈彼の声〉は神様のことであろうと思ったのデスが。
 神山監督の中では、石ノ森の『天使編』と、押井守の〈天使の化石〉はイメージが重なり合っているようにも思えます。両方同時にケリを付けようとしたのかしら。

 他にも押井守ぽいところは随所にあって、冒頭から島村ジョー(宮野真守)のナレーションで、旧約聖書の一節らしきものが朗読されます。文言だけ聞いていると創世記の「バベルの塔」の一節のようにも聞こえます(実際は似て異なるものでしたが)。
 バベルの塔と、超高層ビル爆破テロのイメージをダブらせて、物語全体に宗教的なイメージを持たせているのは巧い演出だと思いますが、これは押井守もよく使う手ですよね。
 あるいは、「島村ジョーが延々と記憶をリセットされて高校生活を繰り返している」のも、どこかで観たような。文化祭だけじゃないのか。
 ついでに、003が夜の六本木ヒルズの上からダイビングすると云うシチュエーションも、非常に『攻殻機動隊』くさい(笑)。
 音楽も川井憲次だし。いや、川井憲次は好きだから別にいいんですけど。本作でも実にスリリングなスコアを聴かせてくれますし。

 フル3DCGで描かれたビジュアルは見事ですし、高層タワーは云うに及ばず、場面の随所に3Dならではの奥行きのある画面構成が見受けられたのも素晴らしいデス。
 何よりも、加速装置の表現がいい。
 瞬間的に時間が止まった世界をきちんと描いてくれています。この時の主観描写と客観描写の描き分けにはゾクゾクしますね。
 特に、核爆発の衝撃波から逃れようと加速装置で全力疾走する009の勇姿は一見の価値ありですよ。この場面は本作の白眉です。

 でも「神の存在」と「人間の意識」に言及する脚本の為にかなり哲学的というか、思弁的な内容になってしまったのはやむを得ないでしょうか。ネタがネタですし。
 ちょっと難解ですが、「神とは物理的に外部に存在するのでは無く、人間の内にある」とする解釈に、同じものを科学と宗教の両側面から見ようとしているようにも感じられます。
 こういうのはSFでなければ扱えないテーマですねえ。特にソレをアニメでやってしまうあたり、さすがはジャパニメーションであると思いました。他の国では出来ないのでしょうねえ(国によっては冒涜なのかも)。

 人間の意識と脳の働きについては、色々と研究も進んでおりますが、特にここ数年は「意識は脳の判断を追認しているに過ぎない」と云うネタのSF小説や、科学解説書をよく見かけた憶えがあります。近年の隠れた流行りなのか。
 意識である〈私〉と無意識である〈自分〉との対話と云うか、古代より「神の声」とされていたものは、無意識下で情報処理された脳の声であるとも読んだ憶えがあります。
 本作でも「ある条件を満たした人間の脳に〈彼の声〉は聞こえてくる、と云われます。
 でもサイボーグ戦士の中で009にだけ〈彼の声〉が聞こえる、と云うのは如何なものか。一番、条件を満たしていそうなのは001の方だと思われるのデスが。

 そして009達と袂を分かち、独自に謎を追う002も〈彼の声〉の影響を受ける。〈彼の声〉に従って動いている間は、まったくそれを意識しないという描写が素晴らしいデス。
 002の主観描写では周囲で次々に建物が壊れ、人が倒れていくのに、何者の仕業なのか判らないという場面があります。後で監視カメラの映像を見て、初めて自分自身がそれを行っていたことを知って愕然とする。
 脳が勝手に身体を動かしているときは、意識はそれを認識できない(認識したら無意識とは云えませんし)と云うのが怖ろしい。
 今回の敵は〈神〉であり、人間の〈脳〉そのものである──と云うのは、なかなかに難解です。

 テロ実行犯が相互に関連していなくても、〈大いなる意思〉が介在しているように見えるのは、「個別の行為から創発的行動が生じる」なんて解釈で何とかなるものなのか(すいませんねえ。年寄りのSF者が思いつきでヨタ飛ばしているだけですから、読み飛ばしてね)。
 しかし、あれやこれや理屈を捏ねてみても、あのドラマのクライマックスは驚くほど『サイボーグ009/超銀河伝説』(1980年)のようでしたねえ。

 世界滅亡の危機はギリギリで回避され、神との対話の果てに世界は変貌を遂げた。誰かが強く望んだとおりに。
 社会的な相転移とでも呼べばいいんでしょうか。死んだ筈の仲間も(いや、自分自身も)助かって一件落着と云うのは、かなり御都合主義と紙一重な気がします。
 ラストシーンが本当に現実なのか疑問なところもあります。世界はそれを捉える者次第と云うことなのか。
 他にも色々と説明されていない部分も──あの天使のような美少女はダレ?──あって、作品の解釈はなかなか難しそうです。〈天使の化石〉についても、結局のところはよく判らない。

 次回作があるなら、もうちょっとその……スカっとするSFアクション映画でお願いしたいデス。




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