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2012年7月21日土曜日

別離

(A Separation)

 イランの映画なんて滅多に観ない(機会も少ないし)のですが、実は結構、面白い作品が多いらしいということは聞いておりました。でも日本で公開すると皆なミニシアターばかりになってしまうのが残念なところです。たまにはメジャーなシネコンで上映して戴きたい。

 聞き覚えのあるイラン映画と云われて、思いつくところでは『友だちのうちはどこ?』(1987年)とか、『ブラックボード/背負う人』(2000年)とか、『亀も空を飛ぶ』(2004年)なんてのがありましたっけ。どれも評判だけ聞いてスルーしておりますが。
 昔、友人に誘われて『ダンス・オブ・ダスト』(1998年)を観に行って、難解さに寝てしまいそうになったことがあります。私のイラン映画歴なんて、その程度(汗)。
 あとはカンヌで賞を獲った『ペルセポリス』(2007年)か。でもアレはイランが描かれていますが、フランス映画ですね。
 ひょっとして、私がまともに観たイラン映画は本作くらいなのか。よもや『ダンス・オブ・ダスト』以来になるのか。他に観てなかったのか俺?
 せめて本作のアスガー・ファルハディ監督作品だけでも、もうちょっと観ねばならん。『彼女が消えた浜辺』(2009年)とか。

 実は本作はなかなか観ることが出来ませんでした。何回か上映しているミニシアターに出向いては、満員御礼で門前払いを喰わされ──なんせ各国映画祭で受賞しまくりの大傑作ですし──、すっかり諦めておったのですが、やっと観ることが出来ました。良かったデス。
 もう本作は、その輝かしい受賞歴だけでも錚々たるものですよ。ベルリン国際映画祭(第61回・2011年)金熊賞とか、ゴールデン・グローブ賞(第69回・2012年)外国語映画賞とか、アカデミー賞(第84回・2012年)外国語映画賞も受賞しております。

 特にアメリカでイランの映画が受賞するというのが素晴らしいデスね。
 近年のイランの核開発疑惑に起因する欧米諸国との関係悪化を鑑みれば、アカデミー賞でイラン映画が受賞し、イラン人の監督がスピーチするというのは、快挙と云ってもよいのでは(アカデミー賞でイランの映画が受賞するのは初めてだとか)。
 オスカー像を手にしたアスガル・ファルハーディー監督のスピーチはなかなか印象的でした。
 「誇りを持ってこの賞をイラン国民に捧げます。(イラン国民は)あらゆる文化文明を尊重し対立や怒りを嫌う人々です」とファルハーディー監督は仰っておられました。

 監督の云うとおり、本作ではイランの文化が背景に描かれております。それはそれでなかなか興味深いのですが、それよりも本筋の方がもっと興味深い。
 描かれているのは、夫婦の離婚問題であり、老いた親の介護問題であり、子供の教育やら、女性の自立やら、信仰の危機と、どれを取っても万国共通の問題ばかり。正直、この物語をそのまま日本でリメイクしても、脚本の修正はほとんど必要無いくらいなのでは(でも信仰に関してだけはちょっと問題ありますかね)。
 表示される題名や、俳優や監督の名前がすべてペルシア語でクレジットされてチンプンカンプンですが(台詞も当然、ペルシア語ですが)、判らないのはそこだけです。

 テヘラン在住のナデル(ペイマン・モアディ)とシミン(レイラ・ハタミ)は、どこにでもいるごく普通の夫婦であるが、一人娘(11歳)の教育問題から、離婚の危機に直面していた。
 冒頭に離婚調停所で、ナデルとシミンの双方が言い分を主張する場面があり、大体の状況は理解できます。国外で欧米式の充分な教育を娘に与えたいという母親の気持ちは判ります(このあたりはやはりイラン的な事情なんですかね)。
 しかし家には老いた義父が同居しており、アルツハイマーを発症して介護が不可欠になりつつある。夫ナデルは父の介護を人任せにして国外で暮らすことなど出来ないと主張する。それもまたご尤も。
 双方の主張がすれ違い、調停官も「二人で解決して下さい」とサジを投げる。

 夫婦が離婚するのは勝手だが、残された娘はどうするべきか。しかももう分別の付く十一歳という年齢では、両親のどちらに付いていくべきか迷って当たり前。子供が一番不幸であるというのは本当ですね。
 離婚を前提にするなら、妻シミンは手に職を付ける為に何かの資格を取らねばならず、当面の準備が出来るまで娘は夫と共に暮らすこととなり、自分は実家に戻ってしまう。いつか母親が家に戻ってきてくれると信じる娘の姿がやるせないです。
 加えて、妻が出て行った後の父親の介護はどうするべきか。夫は介護ヘルパーを雇って何とか凌ごうとするが、応じてくれたヘルパーの女性ラジエー(サレー・バヤト)は幼い娘同伴の上に、実は妊娠していた(娘役のキミア・ホセイニちゃんが超絶に可愛い!)。

 序盤だけで問題山積な有様。どこにでもありがちな問題でしょうが、塵も積もれば山となる。
 しかも最初から少しずつトラブルの種になりそうな無理があります。
 まず、どうもナデルは介護料をケチっているらしい。もう少し金額を上乗せしてやれば円満に運ぶのに。
 ラジエーの方も、妊娠初期の段階で老人の介護に応募しようと云うのがどうにも無理っぽい(しかも介護経験はほとんどないらしい)。その上、五歳の娘を同伴し、遠距離からバスで通うとなれば、精神的にも肉体的にも負担が掛かるのは目に見えている。
 また、ラジエーは介護のバイトを自分の亭主には秘密にしているらしい。これも後々トラブルになりそうなことが感じられます。

 加えて、父親のアルツハイマーは次第に症状が悪化していきます。時を同じくして、徘徊し始めたり、失禁したりし始める。ヘルパーの面接を受けたときには、まだ軽度の介護を前提にしていたのに、いざ始まった途端に、重度の介護が必要になる。ここまでするなんて話に聞いていないと訴えたくなるのも無理からぬことです。
 更にイスラム圏ならではの問題も生じる。
 既婚女性が、他人の成人男性の介護をする際に、着替えを手伝っても問題は無いのか。
 イランでは日常生活で発生する様々な宗教上の問題の為に、聖職者による電話相談を受け付けていると云うのが興味深いです。やはりコーランの字句を教条的に守っていては現代生活に支障を来すのか。イスラム社会の智慧ですね。
 基本的にはアウトらしいですが、老人介護となれば例外も認められるという回答も現代的。
 いちいち聖職者にお伺いを立てるところで、ラジエーが敬虔なイスラム教徒であることが判ります。

 しかし翌日、早々に問題が発生。
 ナデルが娘の下校を迎えに行き、帰宅するとラジエーの姿が無く、父がベッドから落ちて意識を失っていた。しかも手をベッドに縛り付けられて(徘徊防止の為か)。
 おまけに支払うべき日当が棚から消えている。激怒したナデルは戻ってきたラジエーを即刻解雇し、追い出そうとする。
 ラジエーが何故、無断で外出したのか、理由はここでは説明されません。何か云いたくない事情があるらしい。これでは解雇されるのもやむを得ない。
 だが盗人呼ばわりだけは我慢できない。神掛けて日当を盗んでなどいない。
 ナデルと口論になるが、とにかく出て行ってもらいたいナデルは聞く耳持たず、強引にドアの外へ押し出してしまう。その直後、物音がして、外を見るとラジエーが階段の下で倒れており、近所の婦人もこれを目撃していた。
 その夜、ラジエーが流産したとの報せが入り、事態は刑事事件と訴訟沙汰に発展していく。

 流産は故意の暴行によるものとされ、殺人事件として扱われる。果たしてナデルは、ラジエーの妊娠を知っていたのか。見れば判るだろうと云うが、民族衣装を着たイスラム女性の妊娠は、どの程度なら外見から識別できるのか。
 また、本当にラジエーは階段に「突き落とされた」のか。
 ラジエーの無断外出の原因は本当は何だったのか。
 誰もが少しずつ嘘をつき、秘密と嘘が絡み合う展開はお見事と云う他ありません。
 登場人物の誰一人として、明確に悪意を持った者はおりません(多少、我の強い人が多いだけ)。悪意不在のまま、こうまで複雑なトラブルが連鎖するという脚本が素晴らしいデス。
 他者に寛容になるとは、なんと難しいことか。

 最初の行き違いが更なるトラブルを呼び、ラジエーの短気な亭主(シャハブ・ホセイニ)が問題をややこしくしていく(こういう人はどこにでもいるものですねえ)。
 せめてこの短気な亭主がいなければ、もう少し穏便に解決できたかも知れないのに。
 結局、誰一人として幸せになれず、二つの家族の双方に破局が訪れる。誰が悪いわけでもないのに、不幸が出来するというのがシビアです。

 そしてナデルとシミンの離婚も予定通り行われることとなる。
 いや、フツーこんな物語だと、離婚の危機に際してトラブルが出来したら、夫婦は絆を取り戻し、共に困難を乗り越えていくものなんじゃ──なんて甘すぎるか(アメリカ映画の観すぎか)。現実はもっと厳しい。
 もう、雨降って土砂崩れな状態です(泣)。
 離婚する両親のどちらに付いていくのか。選択を迫られた娘の決断とは。

 ところで、一連のトラブルの原因となったひとつに「消え失せた日当」の問題がありましたが、終盤はもはや誰もそれを問題にしませんですね。それどころじゃないし、今更そんなことを蒸し返しても益はない──しかも少額だし──のは判っているのですが……。
 しかし、もし日当が盗まれずにそこにあったなら、ナデルの対応ももう少し穏和なものになり、その後の事態もあそこまで破滅的ではなかったかも知れないと考えると、あの日当はどこへ行ってしまったのかと気になってしまいます。

 ナデルが帰宅するまで、その家にいたのは三人。
 認知症の父はベットに縛られて身動きできなかった。
 信心深いラジエーは絶対に盗んでいないと神に誓っている。
 すると必然的に、最後の一人が怪しいことに。

 劇中では、誰も五歳の少女にそのことを訊いたりしませんでしたが、不思議に思わなかったのか。うーむ。
 可愛い顔をして、罪の意識もないのか。それとも云うに云えなくなっちゃったのか。
 そんなことを考えると、ますますやりきれませぬ。


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