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2012年4月10日火曜日

少年と自転車

(Le Gamin au velo)

 カンヌ国際映画祭の常連にして、ベルギーを代表する映画監督ダルデンヌ兄弟──兄ジャン=ピエールと弟リュック──によるヒューマンドラマです。本作はカンヌの審査委員特別グランプリを受賞しました。これで五作品連続でカンヌで何かしらの賞を受賞し続けています(そのうちパルムドールが二回)。いやはや、凄いもんです。
 とは云え、私にとってはこれが初ダルデンヌ作品となりました。『ロゼッタ』(1999年)も、『息子のまなざし』(2002年)も、『ある子供』(2005年)も、『ロルナの祈り』(2008年)も、スルーしておりました(汗)。

 本作はダルデンヌ兄弟が二〇〇三年に『息子のまなざし』の宣伝で来日した際、少年犯罪についてのシンポジウムに出席し、そこで聞いた実話に着想を得て制作されたとか。
 赤ん坊の頃から施設に預けられた少年が、親が迎えに来るのを屋根に登って待ち続けていた──と云うエピソード。
 捉え方によっては、何となく『ベンジャミン・バトン/数奇な人生』(2008年)の一場面のような、監督によってはここからファンタジーな物語になりそうな逸話でありますが、ダルデンヌ兄弟の場合は、思いっきりリアルな方向に舵を切りました。実にシビアなドラマです。

 主演の少年トマス・ドレは本作がデビュー作という子役ですが、巧いです。
 少年の里親となる美容師の女性が、セシル・ドゥ・フランス。クリント・イーストウッド監督の『ヒア アフター』(2010年)でマット・デイモンと共演していた方ですね。『シスタースマイル/ドミニクの歌』(2009年)も観ておけば良かったなぁ(汗)。

 それにしても、この新人の子役の演技が見事です──と思ったら、相当リハーサルを繰り返したそうな。もともとダルデンヌ兄弟はリハーサルを何回も繰り返すことで有名らしいです。
 「練習すればアスリートのタイムが縮まるように、役者の演技も向上する」と云うのが持論だそうで、セシルと少年の出会いの場面も、何度も撮り直しながら形を作っていったとか。
 即興の演技を大事にするクリント・イーストウッド監督とは正反対のアプローチです。世の中、色んな監督がいるものですねえ。

 冒頭、少年が施設からの脱走を図ろうとしている。元の家に帰ろうとしているのだが、そこにはもう誰もいないのだと云われても信じない。
 あの手この手を使って施設を抜け出し、父親と住んでいたマンションに入り込もうとするので、連れ戻しに来た教師と管理人が困りかねて部屋の鍵を開けてくれるが、云われたとおりの空家状態。父親は一ヶ月も前に家財道具を処分して──少年の自転車すら売り払い──転居していたのだった。

 脱走騒ぎの際に偶然知り合った女性が、少年の自転車を買い戻して施設に届けてくれる。それが縁となり、女性は週末だけの里親として、少年と過ごすことに。
 しかし実際は里親ができれば週末だけでも外泊が可能になるので、父の転居先を探るには都合がいいという少年の計算であった。自分が捨てられたのだとは考えもしない少年は、父親の転居先を訪ねて近所中を自転車で走り回る。

 だがやっとのことで父親(ジェレミー・レニエ)を見つけ出してみれば、開き直ってネグレクトする有様。
 元々、父子家庭だった上に、それまでいてくれた祖母が亡くなったので、と云う理由は判るが、これはあまりにも無責任。それまでの一生懸命な少年の姿には哀れを催します。
 途方に暮れる少年に、里親の女性が救いの手を差し伸べる。
 束の間、巧くいくかと思われたが、やがて少年は近所の不良と関わりを持ち始め、悪事に手を染めていく……。

 人は誰しも、誰かとつながることで生きていけると云うのは判ります。
 不良に惹かれるのも、ケンカの末に「お前、やるじゃねえか」と認められたのがきっかけだし。非行に走り始める展開が実に自然で、納得できます。
 そしてそれを見捨てることなく、全力で救い出そうとする里親の女性の母性に打たれます。

 しかしながら、感動的なドラマではありますが、釈然としない点もありますデス。
 セシル・ドゥ・フランス演じる美容師の女性が、何故ここまで献身的なのかが判りません。
 売り払われていた自転車を買い戻してあげるところまでは、単なる親切として理解できるのですが、「僕の里親になってよ」と云われて簡単に承諾するものでしょうかね。
 よほど孤独な女性なのかと思いましたが、それなりに人付き合いもあり、恋人もいる。
 しかも当初、少年はあからさまにセシルを利用しているだけなのですが。

 この、あまりにもセシルが聖女で菩薩様なところがね……。不自然に思われました。
 一体、一般人にこんなことが出来るものでしょうか。我が子が非行に走り始めたら、これを全力で阻止して助けようとするのは当たり前でしょうが、まったくの赤の他人だとどうでしょう。

 見知らぬ孤児の自転車を探して買い戻してやる──これだけでも大した親切心ですよ。フツーはやらん。偶然、街中で見かけたとしても、身銭を切って買い戻しの交渉までするかしら。
 出来たとしても、次の段階──里親になる──はどうか。例え週末だけだとしても。
 きまぐれに引き受けたとしても、引き受けた以上は責任が生じるわけで、ケータイを買い与えて外出しても連絡がつけられるように手配し、食事の世話をし、面倒を見なければならん。一介の美容師なのに大したものです。
 そこまでは出来たとして、次はどうか。

 少年が非行に走り始める。不良とつき合いはじめ、忠告も聞かず、夜に無断で外出する。制止も聞かず、自分に刃物まで向けて飛び出していく。
 挙げ句の果てに、強盗と傷害で警察の世話になり、被害者から賠償金を請求される。
 どんなに慈悲の心があっても、もうこのあたりで見捨てるでしょう。二〇ヶ月のローンを組んでまで、助けようとするでしょうか。我が子でもないのに。

 ここまでするセシルには、何か強力な動機が必要だと思うのですが、劇中では一切、説明がありません。どんだけ親切なんだよ、セシル。
 そりゃまあ、可哀想な少年ではありますよ。特に、やっと探し当てた実の父親から面と向かって「重荷なんだ。面倒見切れない」と云われ、親子の縁を切られる場面を目の当たりにしているワケで、同情の余地は多分にありますがね。単なる同情心でここまで出来るものでしょうか。

 何かセシルにひとつでも理由があれば、納得もし易かったと思うのですが……。
 「少年が幼い頃に死別した弟に似ている」とか、「かつて一度、流産したことがある」とか、「自分も幼い頃には孤児だった」とか。クサいですか。
 ヨーロッパ映画らしく、淡々と静かに進行するドラマなので、感情移入し辛い点はあります。

 私が男だからか。理屈がないと感情移入できないとは、いつからそんな冷たい野郎になったのだ、俺(昔からだろ orz)。
 劇場内には結構、年輩の女性客が多くて、私よりのめり込んで観ている人が多々、見受けられました。隣の席のオバちゃんが、ハンカチで目頭を何度も拭っておりました。一度ならず、洟をすする音もどこからか聞こえてきた程ですよ(私も〈はやぶさ〉の映画でなら、ウルウル出来る自信はありますがね)。
 本作は、女性客の母性に問答無用に訴えかける力があるのでしょう。

 私は逆に、セシルとケンカ別れしてしまう恋人の方に同情しました。
 だってねえ。ある日突然、自分の恋人が見知らぬ子供の里親になって、暮らし始めるワケですよ。
 平日はお互いに仕事で忙しいだろうに、週末の時間も削られ、「土曜日は来ないで」とか云われたりする。夜に少年の帰宅時間が遅いと心配するセシルに付き合い、車で探し回る手伝いもする。
 それで少年が「ありがとう」の一言でも云ってくれれば、まだ可愛げがありますが、無口で無愛想で反抗的で、可愛くないッ! 客観的に見れば、ただのクソガキだ!
 おまけにセシルからのフォローもない。少年の方ばかり向いている。
 「俺とその子のどっちが大切なんだ」とキレて当然。

 カレシは悪くない。なのに新聞や雑誌の映画評を見ると「ケツの穴が小さい」だの「狭量だ」だのボロクソです(レビュアーは皆さん、女性らしいですが)。おかしい! 何故、誰もカレシを擁護しないのか。
 あれ? 感情移入の対象を間違えてますか、俺?
 ダルデンヌ監督も、彼についてはこれ以上は描写せず、破局しておしまい。以後、出番無し。
 そんな、あんまりだ……。

 紆余曲折を経て、本当の家族になっていく二人。自転車で並んで走る姿に不幸の影はない。
 そして更生した少年がラスト近くに、傷害事件を起こした被害者と再会し、その息子からひどい仕打ちを受けるも、少年は誰も責めない(逆に被害者一家の方に汚い一面がある)。自分の犯した罪を受け止め、黙って耐えると云う描写は、実にストイックです。

 ただ、まぁ……。一人の薄幸な少年が、人を信じて心を開き、善悪を学んで成長していく──のはイイことですが、どうにもその影で約一名、不幸になった男性がいるような気がしてなりませんです。
 いや、そもそも諸悪の根源は、あの無責任な父親ですがね。あの野郎には是非とも天誅喰らわしてやりたいデス。


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