2012年2月17日金曜日

メランコリア

(MELANCHOLIA)

 放浪惑星が地球に衝突し、世界が滅亡する──という概要を耳にしたときには、ちょっと意外に感じました。デンマーク映画でも『ディープ・インパクト』(1998年)や『アルマゲドン』(同年)みたいな作品が──なんて、勘違いも甚だしい。
 そもそも予告編からしてエンタテインメントではなさそうだと、ある程度は予想していたつもりだったのですが……甘かった。
 SFと云うか、ファンタジーと云うか、寓話と云うか、予想以上に私的で観念的な作品でした。とても万人にお勧めできる類の作品ではありませんデス。本作を気に入って鑑賞する人はごく少数なのではないか。
 その意味では、紛う事なきカルト映画と申せましょう。

 監督は鬼才ラース・フォン・トリアー。名前の前に必ず「鬼才」と冠されるのも頷けます。前作『アンチクライスト』(2009年)も相当、癖のある映画だったそうで、何となく観に行く機会を逸してスルーしてしまいましたが、本作はSF(っぽい)映画だと云うので、釣られてしまいました。
 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000年)とかは評判になりましたし、『ドッグヴィル』(2003年)とか『マンダレイ』(2005年)とか、知らないワケではありませぬが、イマイチ馴染みがない。
 良くも悪くも監督個人の作家性が炸裂しております。

 予告編でもそうですが、映画の冒頭にクラシック音楽──ワーグナー作曲「トリスタンとイゾルデ」──がガンガン流されます。実に印象的です。
 クラシック音楽を映画のテーマ曲に使用する例は沢山ありますが、今後は「トリスタンとイゾルデ」を聴く度に『メランコリア』を思い起こすことでしょう。
 いやもう、この冒頭八分間にも及ぶ、壮大なオープニングは本当に見事です。音楽はワーグナーだし、映像的にも美しいし、スローモーションで印象的な(多少、ワケが判らなくても)カットの連続は、観た者の記憶に必ずや残ることでしょう。

 ただまぁ……。
 そこだけ観てしまえば、残りの二時間は無理してまで付き合う必要も無いのではないかとも思えるのデスが。オープニング映像にすべてが要約されているような。

 本編の方は二部構成になっており、登場する姉妹の名前をとって「第一部・ジャスティン」と「第二部・クレア」に分けられています。妹がジャスティンで、姉がクレア。
 一応、姉妹の物語であると云えなくもないか。
 ジャスティン役はキルステン・ダンスト。クレア役はシャルロット・ゲンズブール。

 第一部では、妹の結婚披露宴の様子が描かれます。盛大なパーティなので、非常に登場人物が多く、共演する俳優の顔触れも豪華です。
 姉妹の両親の役が、ジョン・ハートとシャーロット・ランプリング。姉の夫がキーファー・サザーランド。
 妹の職場の上司として、ステラン・スカルスガルドも登場します。つい先日も『ドラゴン・タトゥーの女』でお見かけしたばかりです。本作では更に、息子のアレクサンダー・スカルスガルドも一緒に出演しています。息子の方は、新郎役。
 他にも、イェスパー・クリステンセンや、ウド・キアといった方が見受けられます。ウド・キアはトリマー監督作品の常連ですね。

 ところが、配役は豪華でよろしいのに、ドラマの方がさっぱり面白くない。困った。
 わざとつまらなくしていると云うのが判るだけに、観続けているのがツラい。
 まず披露宴の主役である新郎新婦が、パーティ会場に大幅に(二時間も)遅刻して現れるというところからして躓いています。会場になっているのは、姉夫婦の屋敷。夫キーファーは相当なセレブであるらしく、ゴルフホールを十八も備えた大豪邸での披露宴なので、非常に豪華。
 披露宴の進行を任されている姉シャルロットとしては、イライラしっ放し。
 やっと始まった披露宴も、やたらと段取りが悪く、親族の仲もいまいち良くないようで──シャーロット・ランプリングの不機嫌そうな顔が怖い──、盛大な割に空虚で、虚飾に満ちた披露宴となってしまいます。
 新婦キルステンも疲れて次第に鬱になっていく。必死で進行を維持しようとする姉夫婦の苦労も空回り。

 前半はひたすらに、この退屈でシラけた披露宴を観続けねばなりません。SF的要素皆無。
 キルステンの精神もどんどん鬱に落ち込んでいき、態度はもはや奇行と呼べるくらいにおかしくなる。
 結局、ほぼ徹夜で行われたパーティは、空虚なだけで何の実りもなく、新郎新婦の仲も決裂し、最低な結末を迎えるワケですが、キルステンの鬱状態があまりにも異常に感じられ、何か外的な原因があるのではないかと思われるのですが、明確には示されません。
 昔からエキセントリックな性格で、躁鬱病の持病があったようにも受け取れます。

 そして第一部の終わりに、キルステンが夜明けの空を見上げて、特定の星が消えていることに気付く──。

 第二部は、ガラリと変わって静かに進行します。舞台は同じく、姉夫婦の屋敷。
 招待客も全員帰り、屋敷には使用人の他は、姉夫婦とその息子、そしてキルステンだけが残っている。
 前半の登場人物が多くて賑やかだったのに対して、後半の登場人物は非常に少ない。ほぼ四人に限定されています。
 ようやく謎の惑星メランコリアについて言及されるわけですが、詳しいことはさっぱり判りません。どうやらかなり以前から発見され、観測されていたらしいことが台詞の端々から伺えます。
 夜空の星を遮って接近中の放浪惑星は、次第に大きくなり、月が二つあるように見えてくる。物語はともかく、映像の描写は詩的なまでに美しいです。
 ついでにキルステンの全裸も拝めます。トリマー監督作品にヌードは不可欠なのか。
 地球衝突の可能性について、キーファーは一笑に付して取り合わない。

 このあたりで、物語はどうやらこの屋敷から一歩も外へ出るつもりがないらしいことに気が付きます。惑星の接近によって社会的にどんな騒ぎが発生しているのか、一切のニュースが伝えられないまま、静かな生活が進行していく。
 鬱状態だったキルステンが次第に回復し、落ち着いてくるのと対照的に、今度は姉シャルロットの方がそわそわし始める。本当にメランコリアは地球に衝突しないのか。
 夫は太鼓判を押すが、電話もTVもインターネットも止められており、夫の言葉しか信じるものが無いのに、夜空の惑星は日増しに明るく輝いて大きくなってくる。

 ある日を境に、屋敷の使用人がいなくなる。近在の村から誰一人出勤してこなくなり、忠実な執事までもが姿を消す。誰しも、世界が終わるときには家族と共にいたいものなのか。
 時を同じくして夫キーファーの姿も消える。厩舎の中で自殺していたのが発見されるに及び、姉は今まで自分が欺かれていたことを知る。
 にも関わらず、妹キルステンは落ち着いている。しかしそれは世界滅亡を達観しているからなのだった。精神的に不安定なキルステンは、それ故にか神がかり的な感応力を備えており、惑星の衝突により世界が滅亡することを感知していたのだった。
 終末を平気で口にするキルステン。

 「地球は邪悪なの。だから滅びるのよ」

 我慢の限界に達した姉は幼い息子を連れて脱出しようとするものの、車は動かず、脱出の方法はない(そもそも逃げ場もない)。
 絶望する姉、冷静な妹。やがてキルステンは、シャルロットと幼い息子を連れて、屋敷の広大な庭に出る。もはや天空の惑星は超巨大に迫っており……。

 実に神秘的で美しい地球の最期でした。そんな。それだけ?
 はい、それだけデス。一切の救済はありません。二時間我慢して観続けて、そんなオチか。

 もともとトリアー監督は散発的に鬱になる人らしく、鬱病による休業が報道されたりもした人ですが、惑星メランコリアも監督の鬱病を象徴しておるのでしょうか(絶対そうでしょ)。
 非常に美しい映像詩であることは否定しませぬが、どう考えても監督個人の願望充足に付き合わされた気がしてなりません。
 この映画を観て、メランコリアの軌道がヘンだとか、惑星衝突の描写に於いて「ロシュの限界」が無視されておるとか、そういうことは云っても仕方の無いことですね。
 SF者にはツラい映画でした(泣)。


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