ページ

2011年12月9日金曜日

人生、ここにあり!

(Si Puo Fare!)

 一九七八年、イタリアでは「バザリア法」なる法律が制定され、精神病院が次々に閉鎖されてしまった。精神疾患の患者達を一般社会の中で生活させて治療すると云う試みだそうで、提唱者であるフランコ・バザリア医師の名を取ってそう呼ばれたのだとか。
 この映画は、それまで入院していた元患者達が社会に適合しようと悪戦苦闘した記録を、コメディ・タッチで描いた物語です。
 精神病患者達の物語をコメディで描こうとは。

 もう何と云うか、歯に衣着せぬ言動と云うか、罵詈雑言が日常的なイタリアのお国柄は日本から見ると信じられませんな。
 平気で精神病患者に、面と向かって「イカレた野郎共だ」と差別的言動が発せられる。
 しかし云われる方もイタリア人なので負けてはいないというのが凄いデス。
 「違う。俺たちはバカなんじゃない。クレージーなんだッ」と云い返す。
 えーと。それはどこがどう違うのデスか? とにかくタフな人達ですわ。
 このカラッと乾いた雰囲気があればこそ、コメディ的な演出が成立するワケですね。

 物語の時代は一九八三年──「バザリア法」制定から五年後か──のミラノ。主人公ネッロ(クラウディオ・ビジオ)は労組の過激な組合運営で問題を起こし、別の組合に担当替えになってしまった。その組合こそ「協同組合180」と呼ばれる精神病患者達の組合だった。
 元は同じ精神病院の患者達が、共同生活しながら「単調な補助業務」をこなして生活している。病院から退院し──と云うか、追い出された──ても、各自に家庭があるわけで無し、そもそも家族が介護が出来ないから入院させたのである。今更、家族の元に返っても生活は難しい。
 どこかに病院に代わる受け皿が必要だ、という趣旨は理解できますがね。

 組合員は一癖も二癖もあるような連中ばかり(そりゃそうだ)。
 ほぼ全員、統合失調症であり、暴力的性行が見受けられる者もいるという。
 コミュニケーションを取るのも一苦労という職場で、ネッロの孤軍奮闘が始まる。無口で人の話を聞いているのかいないのか判らない人もいれば(でもちゃんと聞いている)、やたらとテンションが高くてベラベラ喋っては脱線していく人もいる。
 恋人が百人いると云い張る電波な人。
 自分の年金はUFOが支給してくれると信じている更に電波な人。
 一般人がこの組合の中に放り込まれたら、まず途方に暮れてしまうでしょう。

 しかし組合の実態は、病院がなくなっただけで、やっていることは同じ。組合員達を薬漬けにして、沈静化させ、単調な仕事をやらせるばかり。
 「ダイレクトメールの切手貼りもロクに出来ない連中ですよ」と説明を受けるのだが……。
 よーく見ると切手の位置が少しずつ移動している。封筒を束にしてパラパラとめくっていくと、切手が踊り出すように見える。これは一種の才能ですな。
 かくしてネッロは、この人達には「単調な補助業務」よりも市場で普通の仕事をするべきだと確信する。組合総会を開き、議決をとって、積極的に世間に出ていこうとする。

 アパートを借り、集団生活を維持したまま、床張り専門の工務店を開店し、受注を受けようという計画を立てる。EUが自立する元患者達には助成金も交付してくれるので、経済面での心配は無い。
 でも医師の立場からするとネッロのやろうとしていることは、無謀極まりない。反対する医師(ジョルジョ・コランジェリ)と衝突した挙げ句、「組合の議決」を盾に、強引にことを進めていく。
 まぁ、ちょっと過激なようにも思えます。自分達の議案の内容をちゃんと理解しているのか心許ない人達ばかりですからねえ。
 観ていて非常に危うく感じてしまうのも事実です。
 ネッロの行動は怖いもの知らずというか、かなりムチャしてると云わざるを得ません。そこはやはり楽天的なイタリア人だからなのでしょうかねえ。

 案の定、当初は共同作業も上手くいかず、仕事も破綻し欠けるのですが、ここで一人の組合員が神業を披露する。在り合わせの廃材から、ただの床張りではなく、寄木細工の床を作り上げてしまう。
 この統合失調症の人達が作る寄木細工の美しいこと。単調な作業を飽きること無く繰り返しながら、全体的に目を瞠るような作品が誕生する過程は実に見事です。アートです。しかも廃材を利用するのでコストも安い。
 かくして組合事業は軌道に乗り、受注も増え始める。
 当然そうなると、一般人と接触する機会が増えていくワケですが、やはりトラブルも待ち受けている。様々な問題解決にネッロが奔走するのが中盤の見所でしょうか。
 EUからの助成金で娼婦を買いに行くという、お笑いの場面もあります(中には女に餓えた野郎共もいるのデスよ)。このあたりの展開もイタリアならではの陽気な演出で楽しい。日本じゃ、こんな展開はNGでしょう(笑)。

 あまりにもネッロが組合業務にのめり込み、恋人(アニータ・カブリオーリ)との仲も破綻しかける等、波乱な展開もあるにはあるのですが、組合運営そのものは順調。このままサクセス街道、まっしぐらかと思いきや……。
 やはり組合員と一般人の間には深刻な断絶も存在するのだという描写が重く、また哀しい。
 ひとりが一般人のガールフレンドと交際し始め、誘われるままホームパーティに出かけてしまう。アルコールの入った若者達のパーティで、何事も無く済むはず無かろうというものです。酔った席での軽いジョークも、精神的に不安定に人には深刻なダメージとなり得る。かなり悪質なジョークである場合は、更に酷い結果を招く。
 一般人の恋人とは付き合えないと絶望に駆られた組合員の若者はその夜、自殺してしまう。

 遺族に責められ、落ち込むネッロ。組合の業務も頓挫し、多大な損害も生じる。
 遂にネッロは辞任を決意するのですが……。
 そこで意外にも、今まで組合方針に批判的だった医師が逆にネッロを助けようとする。
 イヤな医者だと思っていた人が作成した報告書は、ネッロの方針変更を肯定し、多くの元患者達の症状を改善し、安定化をもたらしていると結論づける。
「自殺者一名を出したものの、それは組合の運営方針が直接の原因とは云えない」
 意見の食い違いはあれども、結果を客観的に評価し、己の非まで認める医師の態度にちょっと感動しました。いや、なかなか出来ないことですよ、これは。

 医師が最初から協力していれば悲劇は防げたのかも知れない。
 ホームパーティに招いた女性にもう少し分別があれば自殺は防げたのかも知れない。
 だからと云って、関係者全員が悲嘆に暮れればそれでいいのか。罪悪感は何も生まない。
 障がい者を相手にしていれば、必ず救えない者も出る。

 非常にシビアなお言葉です。この台詞は医者でなければ説得力ないでしょう。
 ドタバタなコメディ展開でありながら、ラストはかなり感動的に仕上がっています。勝利の鍵は、個性的な組合員達を演じる俳優の味わい深い演技でしょうか。芸達者な人が多いです。

 この映画は二〇〇八年にイタリアで公開されるや異例の大ヒットとなり、二〇〇九年にはイタリアの映画賞を幾つも受賞したそうですが、それも納得の出来映えです。
 監督のジュリオ・マンフレドニアは脚本も勤めています。
 原題の“SI PUO FARE!”は「やればできる!」と云う組合の合言葉。映画は最後に、これら協同組合の現状を紹介して終わります。
 イタリアには現在も、二千五百以上の協同組合が存在し、三万人に及ぶ「異なる能力を持つ組合員」に労働の場を提供している……。
 「異なる能力」という言い回しが、興味深い。
 他者との差異を認め、しかしそれを決して否定的に受け取らず、なおそれを乗り越えて行こうという、非常に明るく前向きな映画でした。ビョーキな人達を楽しく描写し、本当に病んでいるのは実は「こっち」なんじゃないかと、ちょっと考えてしまったりもします。
 でも日本じゃこんなことは、まず実現できないんでしょうねえ。


▲ PAGE TOP へ

ランキングに参加中です。お気に召されたならひとつ、応援クリックをお願いいたします。
にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村

ランキングに参加中です。お気に召されたなら、ひとつ応援クリックをお願いいたします(↓)。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村