ギリアム監督の近未来SFと云うと『未来世紀ブラジル』(1985年)とか、『12モンキーズ』(1995年)とか、とかくダークな未来世界が描かれるものだと云う印象がありましたが、本作はいつになくライトな未来世界が描かれております。
ちょっと明るい『1984』か『ブレードランナー』といった趣きで、監督の弁によると現代の東京のイメージをかなり反映させたのだそうな。日本人として光栄ではありますが、やっぱりナニカ勘違いされているような気がしないでも無いデス。
世界的なハイテク企業で働いてはいるが、人付き合いの悪い引きこもりなシステムエンジニアが、企業のトップから直々に、未だ解明されていない「ゼロの定理」の証明を命じられ、これに取り組むうちに人生の転機を迎えると云うストーリー。
主人公の引きこもりシステムエンジニアを演じているのは、名優クリストフ・ヴァルツですが、本作に於けるクリストフはかなり異様な風貌です。スキンヘッドで「線の細いジョン・マルコヴィッチ」を思わせます。
相手役はメラニー・ティエリーですが、フランスの女優さんなのでイマイチ馴染みが薄いです。ヴィン・ディーゼル主演のSF映画『バビロンA.D.』(2008年)に出演していたのは思い出せますが(護送される女性の役ね)。
実は出番の少ない脇役の皆さんが何気に豪華であります。何しろ、マット・デイモンに、ティルダ・スウィントンですよ。ベン・ウィショーや、デヴィッド・シューリスもいましたね。
マット・デイモンは世界的企業マンコムを動かす〈マネジメント〉と呼ばれる男の役。大富豪であり、世界を動かすほどの影響力を持つ、神も同然な男です。
クリストフ・ヴァルツの同僚になるのが、デヴィッド・シューリス。『ハリー・ポッター』シリーズではルーピン先生役だったのが一番有名でしょうか。
そして人工知能の精神科医と云うかセラピスト役がティルダ・スウィントンです。今回もまた奇抜な役で登場してくれます。あの『スノーピアサー』(2013年)とか、『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014年)ほどではないにしても、やっぱり濃いメイクで役を作っております。
ベン・ウィショーは……うーむ。どこに出ていたのか。
他にも、ほとんどカメオ出演並みに出番の少ない方もいます。『Dr.パルナサスの鏡』に出演していたリリー・コールが街頭CMにチラリと顔を出しておりました。
ギリアム監督作品らしい、レトロでアナクロな未来ガジェットが楽しいです。
しかも、コンピュータにはモニタはあれどもマウスやキーボードはない。ナニやらゲーム機のコントローラーのようなものを握りしめて操作しますが、どういう仕様なのかは不明です。おまけにエアロバイクのようにペダルを漕ぎながらそれを行う様子が、実に珍妙です。
最初は遊んでいるのかとも思いましたが、どうも真剣に仕事をしているらしい。クリストフが出社した職場では何人ものオペレータが同じようにペダルを漕ぎながら、ゲームのコントローラーを握りしめてモニタに見入りながら作業をしております。
SF者としては何となく、フリッツ・ラング監督の古典SF映画『メトロポリス』(1927年)を連想する光景でした。意味不明な作業を延々と繰り返しながら、へとへとに疲れるというあたりに似たような精神を感じます。いや、私も『メトロポリス』は、ジョルジオ・モロダーの再編集版(1984年)でしか観たこと無いのですが。
おまけに処理に使用するデータは試験管に入った蛍光色の液体の形で供されています。データを化学物質の形で入出力に使用するらしいですが、何故そんなことをしているのかよく判りません。分子の配列に情報を記録させているとは凄い技術です。
とりあえずシステムエンジニアは力仕事で体力勝負だと云うのは現代にも通じるイメージですね。
職場に於いてクリストフは盛んに在宅勤務させて欲しいと訴えているようですが、なかなか適わない。健康状態が悪いと偽っても、「馬のように健康だ」と診断されて要望は却下。
このとき、クリストフを健康診断する三人の医者の中にベン・ウィショーがいるらしいのですが、さっぱり判りませんでした(出番が短スギッ)。
在宅勤務の希望は〈マネジメント〉の許可さえあれば叶うとも云われていますが、そもそも〈マネジメント〉への面会が適わない(どこにいるのかも判らない)。
劇中では、ジョージ・オーウェルの『1984』に登場する〈ビッグ・ブラザー〉を思わせるスローガン──「マンコムが見ている」──が掲げられており、一種の監視社会の様相を呈しておりますが、特に市民を弾圧していたりする様子は無く、利益追求の商業主義が生み出した宣伝文句のようです。
大企業マンコムと、その背後にいる〈マネジメント〉が世界を統括しており、そのサービス向上の為に人々を監視しておりますが、登場人物達がこれに不満を抱いている様子は全く無いし、暗いイメージはありません。
逆に、常に自分を見守ってくれている存在だという認識のようでもあります。このあたりに、〈マネジメント〉が神のように振る舞っている理由にもなるのでしょう。
現代の日本も至るところ防犯カメラだらけですからね。防犯カメラと監視カメラは紙一重。
ついでに、街の公園ではありとあらゆる行為が禁止されていると云う、お笑いの注意看板が表示され、ユートピアなのかディストピアなのかよく判らない描写もあります。ディストピアぽいのに、そこをユートピアと感じて安住している人達ばかりと云うのが皮肉な演出でした。
ある日、同僚に誘われてパーティに渋々顔を出したクリストフは、偶然その会場で〈マネジメント〉その人に遭遇する。そして直々に「ゼロの定理」の証明を依頼され、承諾するなら在宅勤務も許可しようという流れで、これを承諾するクリストフ。
それにしても、このパーティの様子がサイケで世紀末で、頽廃しているのに妙に楽しそうな雰囲気であるのが実にギリアム監督らしい描写です。何故、出席者が奇天烈なコスプレをしているのかとか、意味不明な描写が随所に現れますが、きっと考えてはイカンのでしょう。
このパーティの会場でメラニー・ティエリーとも出会いますが、最初は袖振り合って別れるのみ。
しかし、この「ゼロの定理」とは何か。劇中では、今までもマンコム社の中で何人ものエンジニア達が証明に挑み、ことごとく敗れ去っていったと語られております。どうもこの仕事に携わると、最終的には皆、精神を病んでしまうらしい。
「この世界には意味など無い。全てはゼロである」ことを証明するのが目的なので、どうすればそんなことが出来るのか皆目見当がつきませぬが、これに挑戦するクリストフです。
何しろ、この仕事をしている限り出社の必要は無く、在宅であれば「掛かってくる電話を取り逃す」こともない。劇中では、やたらとクリストフが電話を気にしている様子が描かれます。
近未来なのに電話に留守録機能が無いのかとか、通話の転送機能が無いのかとか云うツッコミはスルーです。そもそも古式ゆかしい固定電話であるのが不自然ですが、ハイテク社会のくせに妙なところでローテクなのはギリアム監督作品にはいつものことですね。
劇中で描かれるクリストフの電話に対する強迫観念のようなコダワリには理由があり、やがて明らかになるのですが、とりあえずは「ゼロの定理」の証明に取り組み始めるクリストフです。
そして前任者たちと同様に壁に当たり、精神的に疲れていきます。この作業のビジュアルもギリアム監督的ですね(あまり科学的とは云い難い)。直感的な判りやすさ重視の奇妙な演出です。
なんかもう、マインクラフトを彷彿するようなCGブロックの積み上げでモニタ内に巨大構造物を作り上げる作業をしております。ひょっとして本当にマインクラフトなのかしら。
個々のブロックが数式を表し、正しい位置にブロックをはめ込むことが出来ると、作業として前進するらしい。この巨大構造物全体が「ゼロの定理」を表しているようです。
構築作業にはゲーム機のコントローラー状のパッドを使用し、エンジニアが自分で計算しているようには見えませぬが、クリストフの頭の中では正しい位置が判っているようです。そこが〈マネジメント〉に見込まれた才能なのか。
しかしブロックの積み上げはどこかに無理があるのか、ある程度構築が進むとブロックはそこかしこで崩れ始める。何度積み上げてもどこかが自壊すると云う、賽の河原ループに陥ります。
煮詰まったクリストフの元に、いつぞやのパーティで出会った女性(メラニー・ティエリー)が訪れたり、マンコム社の中でも特異な存在であるボブ少年(ルーカス・ヘッジズ)と交流を持ったりしながら、やがて孤独なシステムエンジニアの人生にも変化が現れてくる。
その過程で、クリストフの電話に対する強迫観念も明らかになります。
実は、かつて少年時代にクリストフは天啓を受けたことがある。ある日、掛かってきた電話に受話器を取り上げた瞬間、クリストフはその電話が人生の疑問全てに答えてくれるものであると直感した……と云う、よく判らない啓示です。
しかし人生の意味や目的を全て教えてくれるはずだったその電話は、些細なことで受話器を取り落としてしまい、通話が切れてしまう。それ以来、クリストフはいつかまた掛かってくるだろう天啓の電話を待ち続けているのだった。
「単なる勧誘の電話だったのでは」と云われても信じません。
この時点で、クリストフはかなりメンヘラな人であるわけですが、他人に害を及ぼすような性格ではないのでスルーされているのか。一人称が「我々」と云うのも奇妙ではありますが、草食系の穏やかな人物であります。
劇中でも「何がしたいのか自分でもよく判らない」と云う台詞もありますし、草食系なのでメラニー・ティエリーとも、リアルに触れあうとちょっと退いてしまう。
でも、バーチャルではかなり大胆に振る舞います。このあたりは現代でも非常に良く判りますね。サイバー空間での体験をリアルに感じ取るための全身タイツ的電脳スーツが笑えるデザインでした。
結局、メラニーは〈マネジメント〉が差し向けたコールガールであったことが発覚し、ボブ少年も〈マネジメント〉の息子であったりと、クリストフの私生活はほぼ〈マネジメント〉に筒抜けな上に、掌の上で踊らされていただけであると判明する。
クライマックスではマンコム社の巨大メインフレームを前に、マット・デイモンの映像と対決するクリストフですが、「ゼロの定理」の証明が〈マネジメント〉の目的では無かったのだと知ることになる。
マンコム社としては、商機の為には「この世は無為である」なんて事実は容認できない。故に「ゼロの定理」など証明されてはならないわけで、クリストフが仕事に煮詰まるのは必然であったのだ。
クリストフが証明に失敗し続けている限り、マンコム社は安泰であることが保証されると云う、残酷な真実が明らかになる。その理屈は正しいのかとも思うのですが、マット・デイモン神を安心させる為の道具になっていたと云う解釈なのでしょうか。会社の犠牲にされていたとも云えます。
マンコム社のメインフレームを破壊しようとして、発生した仮想空間に身を投じるクリストフ。そしてメラニーと愛し合った仮想の海岸で目が覚める。
誰かに人生の意味を教えてもらうことを待ち続けた男は、遂に自分の居場所とやりたいことを見つけ出したのであった──と云うハッピーエンド。え、そうなの?
確かに、いつの間にか一人称が「私」になっていて、個が確立したように思えますが、この結末はただ仮想空間に逃避しただけの、あまり前向きな解決では無いように思えます。
「閉じこもっていないで外に出ろ」と云うメッセージへの回答がこれですか。
『未来世紀ブラジル』並みの暗黒ハッピーエンドと云えなくも無いエンディングでありました。やはりテリー・ギリアム監督作品ですからね、そうでなくてはイカンと云うべきなのでしょうか。
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