フィロミナ・リーと云うのが主人公の名前。これは子供を預けた修道院の勝手な配慮によって幼い息子を養子に出されてしまった未婚の母の物語です。
このフィロミナ役を演じているのは、大女優ジュディ・デンチ。息子のことを忘れたことは片時もなく、五〇年後になって、息子を探し出す旅に出る老いた母を熱演しておりました。もう、ジュディ・デンチであるだけで感動も三割増し。
本作は今年(2014年・第86回)アカデミー賞に於いて、作品賞、主演女優賞、脚色賞、作曲賞の四部門にノミネートされておりました。いずれも受賞は逸してしまいましたが、ノミネートも納得の出来映えでありました。どれかひとつでも受賞できれば良かったのに。
まぁ、作品賞と脚色賞はスティーブ・マックイーン監督の『それでも夜は明ける』でしたし、主演女優賞は『ブルージャスミン』のケイト・ブランシェットで、作曲賞は『ゼロ・グラビティ』でしたからね。強敵揃いなのでやむを得ないところではあります。それでも他の映画祭では、色々と受賞されているようで。
でも私なら、作品賞には『それでも夜は明ける』よりも本作の方を選びたいところです。出来れば主演女優賞もジュディ・デンチにと云いたいところですが、俺的主演女優賞は『ゼロ・グラビティ』のサンドラ・ブロックなので……(汗)。
原作がノンフィクション小説なので、スティーヴ・クーガンが作者のマーティン・シックススミス氏を演じています。この方は最近も『メイジーの瞳』(2012年)で、仕事にかまけて娘のことを省みない駄目なパパを演じておりましたが、本作ではジュディ・デンチを助けて人捜しに奔走する頼りになる作家の役です。
また、スティーヴ・クーガンは本作の脚本も手掛けております(ジェフ・ポープとの共同脚本)。脚色賞でのアカデミー賞受賞も充分狙えた出来映えでしたのに、惜しい。
監督はスティーヴン・フリアーズ。個人的に一番馴染み深い監督作品はヘレン・ミレン主演の『クィーン』(2006年)でしょうか。『危険な関係』(1988年)も忘れ難い。そう云えば『ヘンダーソン夫人の贈り物』(2005年)でも、ジュディ・デンチを起用しておりましたね。
フリアーズ監督も、ぼちぼちアカデミー賞監督賞をもらっても良さげなものだと思うのに。
序盤はまず、スティーヴ・クーガンとジュディ・デンチの各々の人物紹介から。
スティーヴ・クーガンは政府の広報官でしたが、何やら首相とモメて辞任したと報じられております。台詞からブレア政権時代だと判ります。BBC出身のジャーナリストであり、広報官辞任後は元の記者に戻るよりも、作家として転身する道を選びたいと考えているようですが、書きたい本が「ロシアの歴史」では誰も興味を持ってくれないぞと揶揄されています。
一方、ジュディ・デンチは一人寂しく教会でロウソクを灯しております。誰かの為に祈りを捧げているところで、これが生き別れになった息子のことだと云うのは自明ですね。短い回想シーンの積み重ねで、若い日の男女の出会いから、未婚のまま妊娠したことを教会のシスターに咎められたり、難産だったことなどが語られていきます。
老いたジュディを娘が介護しておりますが、自分に兄がいたことは知らない様子です。その娘がスティーヴ・クーガンの辞任祝いのパーティにも出席しており、その際に彼が元ジャーナリストであることを聞き及んで、母の為の調査を依頼してくると云う流れです。
当初は、三面記事向けの事件の調査に気乗りせず、断っておりましたが、「ロシア史本」の企画が出版社にイマイチ受けなかったのか、後日ジョディの元を訪れて依頼を請けることを承諾します。
そして、スティーヴに詳細を語るジュディの回想として、本格的にドラマが動き始めます。
若い頃のフィロミナ役は、ソフィア・ケネディ・クラークと云う若い女優さん。全然馴染みありません。ジョニー・デップ主演の『ダーク・シャドウ』(2012年)で、吸血鬼デップに襲われるヒッピーの一人だった……って、もう思い出せないよ(汗)。
半世紀前の英国の道徳的にお堅い修道院でのドラマが何とも悲惨でやりきれません。当時はシングルマザーには肩身の狭い時代だったのですねえ。
修道院が、未婚の母を集めて労働に従事させ、母親達が働いている間は子供達の世話をシスター達が見ていると云うシステムですが、どう見ても「子供を人質にして母親達を低賃金でこき使っている」ようにしか見えません。
修道院側としては、住まわせて、働き口も与えて、子供の世話もしているのだから責められる謂われはないという言い分のようですが、若い母親達を監禁も同然の状態で重労働させるとは、まったくもって人権蹂躙も甚だしい。
子供に自由に会わせてもらえない上、厳格なシスターに逆らおうものなら、子供との面会時間も制限されてしまうとあっては、若い母親に抗う術もない。
女工哀史を思わせる光景です。イマドキならば、この修道院は完全に「ブラックである」と非難されることでしょう。
しかも、シスターが母親達に厳しいのは、多分に私情も交えているのではないかと推測される場面もあったりします。敬虔なカトリック教徒のシスターからすれば、姦淫の罪を犯した未婚の母親とは罪人も同然であり、罪を償わねばならない存在であるようですが、その量刑を勝手に決めているのは如何なものか。傲慢であるとの誹りは免れないのでは。
その上、「自分は禁欲生活を送っているのに、純潔を守らず男と関係を持つとは何事か」といった旨の発言もあったりして、実は羨ましくて妬んでいるのではとも思えます。
この修道院のブラック描写は、物議をかもしたそうですが、全くの虚構とも云い難いようで。
劇中では更に、子供達の養子縁組も修道院が勝手に進めていると描かれています。修道院に多額の寄付をした裕福な家庭に、母親の承諾も得ないまま子供を養子に出す。いや、それ、単なる人身売買ですよねッ。
似たような状況は、ジム・ローチ監督の『オレンジと太陽』(2011年)でも描かれておりましたね。養護施設の児童を強制的にオーストラリアに送っていたと云う「強制児童移民」とも、関係がありそうな気がします。いずれも英国の歴史の暗部ですねえ。
本作では、劇中で描かれるのはあくまでも養子縁組であり、移民ではありませんが。
また、修道院側の良心として、親切なシスターもいるとは描かれておりますが、焼け石に水的な印象は拭えませんです。
状況が飲み込めたところで調査の開始です。スティーヴはジュディを伴って、北アイルランドへ飛びます。まずは、件の「ロスクレア聖心修道会」へ。
実はジュディは今まで何度も修道院へ問合せの手紙を送っているのに、返答はなし。そう云う場合は突撃訪問に限ると、さすがは元ジャーナリストの行動力です。
しかし訪れた修道院では責任者の交代もあり、過去の資料も火事で焼失したと告げられる。
人の良いジュディは疑いなくそれを信じるが、スティーヴの目には実に怪しく映ります。養子縁組の記録は焼失したくせに、最初に子供を預けたときに強制的に書かされた「子供に対する権利を一切放棄する」旨の宣誓書だけが残っているとは、修道院に都合が良すぎる。
劇中ではジャーナリストらしく、シスターの説明に鋭いツッコミを入れようとするスティーヴを、何故かジュディの方が制止する場面が何度かあります。
ジュディは被害者である筈なのに、加害者である修道院を擁護しようとする発言が何度もあって、観ている側としても実にもどかしい。やはり昔、世話になったことは事実であるし、一方的に責めたくないという心理も働いているのだろうと察せられます。
傍で何か云いたそうに黙っているスティーヴ・クーガンの表情に共感します。
結局、確証は得られないまま修道院を辞するわけですが、近隣の街のパブで聞き込みをすると、「火事はウソ。あの修道院は子供を米国人に売っていたのさ」なんて証言も得られる。
ジュディと同じ境遇の人達は何人もいるらしく、「今でも子供を探す人がたまに来るね」とも云われております。どうにも怪しすぎる修道院ですが、教会本部に問い合わせてもタライ回しになるだけで、調査は行き詰まります。
かくなる上は「米国人に売っていた」と云う証言から、アメリカの移民局で調査することに。
元BBCのジャーナリストだったスティーヴは特派員としてアメリカにいたこともあり、ツテを頼ってワシントンDCへ。その前に出版社に話を持ちかけ、修道院の悪行を暴いた暁には、それを記事にして出版することを約束して、旅費を負担してもらうあたり、抜け目がありません。
長年、贅沢もせずにつましい暮らしをしていた老婦人には、ビジネスクラスのフライトも超豪華に映るようです。カルチャーショックを受けるジュディ・デンチの様子が微笑ましい。
しかし、アメリカ人として育ったのなら、ベトナムで戦死していたり、ホームレスになっていたり、肥満体型になっていたりする可能性もあると、調べもしないうちから考え過ぎなジュディです。やはり「アメリカ人=肥満」は国際的な共通認識なのか。
本作は、皮肉屋でツッコミ入れまくりの元ジャーナリストと温厚な心優しい老婦人によるバディ・ムービーの側面も見受けられます。
何事にも懐疑的で、時として他人にズケズケものを云うスティーヴをたしなめるジュディの台詞が印象的でした。
「人には親切に。何故なら、人生が下り坂になったときに、その人達ともう一度会うのだから」とは含蓄に富む格言のようです。情けは人のためならずですね。
紆余曲折の末、息子の消息を突き止めてみれば、既に亡くなっていたと判って泣き崩れるジュディが哀れですが、そこで終わらずに、調査行は息子の半生がどんなであったかを調べる方向にシフトしていきます。
生前の息子は、自分を捨てた母を怨んでいたのだろうかと怖れるジュディを励まし、調査を続けるスティーヴですが、ジャーナリストの鋭い観察眼とギネスビールが思わぬ手掛かりになるのが巧いです(パブの場面が伏線だったとは)。
本作には、ある種のミステリ映画のような趣が感じられます。
そして遂に息子の半生が明らかになり、どのような人物だったのかが判明したとき──ゲイだったと云うのは、特に問題ではないですね──、ロスクレア聖心修道会のあまりに惨い仕打ちが暴かれる。いや、これはブラックなんてものじゃないでしょう。告訴ものですよ。
赤の他人ですら義憤に駆られること間違い無し。
終盤、再び修道院に戻ってシスター達を糾弾するスティーヴですが、これを許そうとするジュディの態度が信じられません。まさに聖母。本当に信仰に篤いのは誰なのかが明らかになるわけですが、宗教心の薄い日本人には判りかねます。
「赦しには苦痛が伴う」と云う台詞が重いです。確かにそうね。他人を責める方が何倍も楽です。だからこそ「赦し」とは崇高な行いなのだと、頭では理解出来るものの実践は難しいデス。
再会することは叶いませんでしたが、親子の絆を感じさせる結末は悪くない後味です。決してお涙頂戴式のドラマではなかったところが素晴らしい。
ラストシーンでは、その後のことなどがさらりと字幕で語られます。
この調査の顛末を明らかにした本は二〇〇九年に出版されたこと。今なお多くの母が子供を探していること。そしてフィロナミは今でも息子の墓に参り続けていること。
エンドクレジットと共に、フィロミナ・リー御本人の写真が紹介されるのは、この手の実話を基にしたドラマには定番の演出ですね。ジュディ・デンチが割と良く似せた役作りをしていたことが判ります。
ところでシックススミス氏はその後、念願のロシア史本も書いたそうですが、売れたかどうかはまでは定かではありませんデス。
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