ところがその企画は着々と進行していたようで、〈エイリアン〉シリーズの最新作が製作されると噂になったのが数年前。しかも初代監督がシリーズ完結編の為に帰ってくる。これは期待するなと云う方が無理。
しかしビミョーに企画がズレてしまったようで、続編ではなく前日譚であるとか、設定は一部流用するが完全に同一世界での物語ではないとか、なんか色々と不安になるような話ばかり聞こえて甚だ心配でした。タイトルも『プロメテウス』だし。
とは云いながら、予告編を見る限りでは紛う事なき〈エイリアン〉の続編ぽい(いや前日譚か)。どこかで見た風景、どこかで見た宇宙船、どこかで見たタイトルの表示の仕方やら、各種デザイン等々。
加えて配役にガイ・ピアースだとか、ノオミ・ラパスだとか、シャーリーズ・セロンまでが起用され、マイケル・ファスベンダーがアンドロイドの役になると聞けばもう、もうもう……。
過度の期待は禁物であると、何回痛い目を見ても学習しないのな>俺。
何と申しますか、本作は〈エイリアン〉シリーズにそれほどコダワリを持たない門外漢とか若年層には、それなりに受けるのかも知れません。最新のCG特撮はそりゃあ見事です。
でも筋金入りのSF者にとってはどうなんでしょ。
宣伝では「人類の起源」にまで言及する壮大なスケールの物語であると云われておったのですが。どうにも説明不足で意味不明なところが多くて困りました。
ぶっちゃけ、本作は『2001年宇宙の旅』(1968年)になり損なったと云う印象です。まぁ、今まで幾多のSF映画が、かの金字塔に挑んでは敗れ去っていったものですが……。
そもそも『エイリアン』の前日譚で『2001年~』にタメを張ろうと云うのが無茶なのでは。
ただ、冒頭の空撮シーンは本当に見事です。美しくも異様な風景に叙情的なマルク・ストライテンフェルトの音楽が実にマッチしておりました。さすがは映像派監督として名を上げたリドリー・スコット監督です(ホントにここだけは鳥肌モノですわ)。
でもこのファーストシーンが『2001年~』を連想させるのは意図的なのでしょうか。また、3Dで観て意味がある場面はここだけと云うのが何とも残念です。
ワケが判らないのは次の場面からです。
いずことも知れぬ原野の中、壮大な滝壺の上に立つ人ならぬ人影。何やら修道僧のように見えるが、人類では無い。頭上には巨大な円盤が影を落としている。
やおら毒(のようなもの)を呷って滝壺に身を投げる異星人。身体は分解され、細胞が、遺伝子が、水中に溶け込んでいく……。
まったく説明の無いこの場面が「人類の起源」であるらしい。してみるとこれは生命誕生以前の地球だったのか。
そこから時代は一気に飛んで、西暦二〇八九年。地球各地で発見された相互に関係の無い古代文明の遺跡には、ある共通の星の配置と巨人の姿を描いた壁画が発見されていた。
人類に文明をもたらした者は異星人であったと云うネタは、古くからありますし──特にB級映画に多い(デニケンだし)──、それをギリシヤ神話になぞらえて「プロメテウス」とタイトルを付けたのも理解は出来ます。
判らないのは、生命発祥(数十億年前)と人類の古代文明(数千年前)は時代が離れすぎな点。どう考えてもタイムラグがありすぎでしょうに。そんなに長期にわたって地球は異星文明の干渉を受けていたのか。干渉されていた割には人類が誕生するまで、地球の生命進化には紆余曲折ありすぎだろというツッコミは勿論スルーですね。
「滝壺への身投げ」が無ければ、まだそれほど無理にならずに済んだだろうに……。
古代文明と関わりのあったと思わしい異星人の惑星に向かって、宇宙船プロメテウス号は旅立つ。しかし純粋に学術的探検かと云うと、どうやら違うようで、スポンサーとなった巨大企業ウェイランド社の総帥ピーター・ウェイランド(ガイ・ピアース)には別の思惑があるらしかった。
ガイ・ピアースの老けメイクが強烈すぎて、最初は誰かと思いました(笑)。
このガイ・ピアースの老けメイクも『2001年~』のボーマン船長のようにも見えますね。
宇宙船や船内の描写などに旧作の面影が見て取れます。特撮技術も進歩したものです。
でも「乗組員は冷凍睡眠カプセルに入り、目的地到着まではアンドロイドが船と乗員の面倒を見る」という描写が……やっぱり『2001年~』ですねえ。
意識的にマイケル・ファスベンダーは〈HAL9000〉の喋り方を役作りに取り入れていたと云うから尚更です。その後の行動も考えると、「親切そうに見えて外道な事をするアンドロイド」という描写にも〈HAL9000〉が投影されているのか。
ただ孤独なマイケルが船内で『アラビアのロレンス』を鑑賞し、髪型をピーター・オトゥールに似せようとしていた場面は微笑ましいのですが。
そして目的地である惑星に到着。
本筋よりも、背景や小道具に目が向きすぎてしまうのはやむを得ないですかねえ。探検隊の使う車両や、宇宙服、各種装備の描写は見事ですし(つまり脚本の方が負けているのか)。
何よりも物語に全部、どこかで見たと云う既視感がつきまとうのが困ったところでした。
どうにも本作は『エイリアン』のリメイクの域から抜け出せていない。前日譚でもなく、もう一度『エイリアン』の物語をなぞっているだけのように見受けられました。火炎放射器も出てくるし(外せないアイテムではありますが)。
ストーリーの展開も、到着して、探検して、異星生物に襲われる──だけ。人類創造の謎も中途半端に解かれず仕舞い。期待していたファースト・コンタクトも……あんなんだし(泣)。
しかも惑星に到着して発見するのが、宇宙船ではなく、どこか寺院を思わせる岩のドーム。
古参のSF者なら『エイリアン』の制作過程で、どのようなアイデアが検討され、デザインされ、ボツを食らって消えていったかという話は御承知でしょう。本作はそれら「かつてのボツネタを拾い集めて再利用しました」的なイメージに溢れており、おかげでますます『エイリアン』のリメイクを観ているようでした。
エンドクレジットには原案であるダン・オバノンの名前も出てきますが、オバノンも草葉の陰で泣いているのでは。
劇中では、「神を見つけたら何故、人間を創造したのか訊きたい」と云う科学者に対して、アンドロイドが「では何故、人間は私を作ったのですか」と問う。答えは「それが出来たから」。
暗に「創造なんてそんなもの」で、深い意味なんかないと斬り捨てているのは潔いデス。そこで止めておけば良かったのに。
別に異星人のDNAと人類のそれが一致するなんぞという描写は不要でしょう。第一、冒頭のシーンからすると異星人のDNAは人類のみならず、地球上の全ての生命の礎でもあるわけだし。「一致したから異星人は創造主だ」と云うのも飛躍しすぎでしょう。汎宇宙的に「生命とはそういうもの」という解釈も成り立つワケで、ノオミ・ラパスの態度はあまり科学者らしからぬと申せましょう。
いやもう、イジワルなツッコミが多々出来てしまう、ついイジメテしまいたくなるほどに、脚本は穴だらけ。しかもそれらは皆、SFを少しでも知っている人間がサポートできていたら予め回避できたのではと思える穴であるのが、尚のこと歯がゆい。
私が本作に否定的であるのはその所為です。明らかにSFをあまり御存知ない方がドヤ顔で「本格SFです」と銘打ち「人類創造の謎ですよ」なんぞと宣伝しているのが気に入らんのです。
それともツッコミ待ちなのか。リドリー・スコット監督作品なのに。
劇中に於いて〈エンジニア〉と名付けられた異星人は、人類を創造したが、消去もまた企んでいたとか、惑星は〈エンジニア〉の故郷では無く、単なる「生物兵器の試験場」に過ぎなかったとか、エイリアンは最初から「人類殲滅用の生物兵器」だったとか、色々と辻褄合わせな設定が出てはきますが、それで驚くかと云われましても……。
逆に何故、そんな回りくどいやり方をするのかとか、〈エンジニア〉が何をしたかったのかとか、答えを聞いた所為で、別の疑問がもっと増えてしまいます。無理のある辻褄合わせはやらない方がマシでしょう。
〈エイリアン〉シリーズとは独立していると云いつつも関連性のあるビジュアルであり、ファン・サービスなラストシーンも仕方ないのかと思いますが、別作品ならそこまでやらなくても……。
それから特筆しておきたいのは、シャーリーズ・セロンの扱い方がもったいなさ過ぎることデス。ナンデスカ、あの末路は。あんまりだ。
せっかくのミステリアスなキャラクターが台無しです(泣)。
最後に。これはリドリー・スコット監督の責任ではありませぬが、日本語吹替版の製作スタッフは配役をもう少し考えて戴きたいものです。
何故、ノオミ・ラパスの吹替が剛力彩芽なのか。一人だけビミョーに浮いております(上映時間の都合から日本語吹替版で鑑賞したのがマズかった)。
それ以外の配役は申し分無しデス。シャーリーズ・セロンが深見梨加、マイケル・ファスベンダーが宮本充、ガイ・ピアースが納谷六朗。更に楠大典、てらそままさき、藤原啓治……。
洋画吹替のベテラン揃いで固めている中に、何故に剛力彩芽(あまり云いたくないが演技的にもちょっと……)。
佐古真弓か東條加那子にしておけば、良かったものを。残念な上にも残念です。
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