「身寄りの無い人の葬儀を行う」ことが仕事の、とある民政係を描いた作品で、静かで味わい深いドラマでありました。
「死」を扱いながら、人の尊厳やら優しさを描いた作品と云うと、日本にも滝田洋二郎監督の『おくりびと』(2008年)がありますね。
本作は、英国版『おくりびと』といった趣です。邦題があからさまに『おくりびと』を連想させるようになっているのは御愛敬でしょうか。巧い邦題であると思いますが、「作法」と呼べるほどの段取りがあるワケでは無いデス。主役の職業は納棺師ではなく、民政係ですから。
葬儀の手配はすれども遺体の処置までは行いません。まぁ、民政係としての仕事の手順が「作法」と云えなくも無いか。
ウンベルト・パゾリーニ監督作品を観るのは初めてです。実は本作がまだ二作目だそうですが、『ベラミ 愛を弄ぶ男』(2013年)とか、『フル・モンティ』(1997年)などの製作を務めていたそうな。
一方、主演のエディ・マーサンは見覚えのある人でした。エドガー・ライト監督の『ワールズ・エンド/酔っぱらいが世界を救う!』(2013年)ではサイモン・ペグに振り回されてパブ巡りにつき合わされる旧友の一人でしたし、ガイ・リッチー監督の『シャーロック・ホームズ』(2009年)のシリーズではレストレイド警部役でした(だからロバート・ダウニー・Jr.やジュード・ロウの陰に隠れて目立ちません)。
レイチェル・ポートマンの静かな劇伴もしみじみしております。この方の劇伴では、ラッセ・ハルストレム監督の『ショコラ』(2000年)のサントラが好きデス。
近年では『ワン・デイ/23年のラブストーリー』(2011年)や、『君への誓い』(2012年)の音楽も手掛けておられますね。
冒頭から「アメイジング・グレイス」が流れる葬儀の場面。しかし小さな教会の中では、葬儀を執り行う神父さんが一人と柩がぽつんと安置されているだけで、列席者はエディ・マーサンただ一人という寂しい状況。
お手軽な葬儀と云うか、人手が足りていないので「アメイジング・グレイス」も録音テープの再生というのが侘しい。葬儀が終わると遺体は埋葬されますが、墓地が荒れているのも切ない。
そして場面が変わると、また別の葬儀です。司祭一人と、参列はエディ・マーサンのみ。そしてまたまた別の葬儀。共通しているのは、常に葬儀にはエディ・マーサンしかいないこと。
宗派が違うと、葬儀でやることもビミョーに異なるのが、ちょっと興味深いです。
他人の葬儀に列席する趣味でもあるのかと思いきや、これは市の民政係の仕事であったと判ってくる。特に台詞で説明すること無く、エディ・マーサンを追いかけていくだけで判る演出が巧い。
静かに、淡々と進行していくドラマに相応しく、エディ・マーサンの職場も殺風景極まりない。しかも同僚のいない孤独な職場のようで、事務所の中には大きなキャビネットに、机がひとつだけ。
今し方終わった葬儀についての書類を整理し、調査終了と記載してファイルを閉じる。そして書類はキャビネットにしまわれる。このキャビネットには相当な数の書類が分類、整頓されており、全てエディが手掛けてきた葬儀の記録かと察せられますが、この見事に整理された書類が再び日の目を見ることはきっと無いのでしょう。
あまりにもキチンと整理され、机の上の文房具の配置にすら一ミリの妥協も許さないエディです。几帳面すぎるわ。
しかし機械的で冷淡な人というわけでは無い。それどころか、都会の片隅で孤独死を迎え、引き受け手のいない遺体の扱いには細心の注意を払って接しております。
遺体の扱いも、土葬、火葬と色々ですし、生前の希望が遺灰の散骨であったなら、わざわざそのように取り計らい、自分で近くの公園の花壇に散骨しに行ったりします(無許可でこっそりやっちゃっているようですが)。
逆に、かなり丁寧に仕事を進めているので、まだ処理していない遺灰のボトルが火葬場の事務所に溜まっていたりします。
日本人からすると、遺灰をプラスチックのボトル容器に入れて保管するのは如何なものかと思われますが、骨壺では嵩張るし、予算の都合もあるのでしょうか。
ドラマの進行と共に、エディの仕事の内容も明らかになります。孤独死が発見されたと報せが入ると、亡くなった人の住まいを調査し、生前の暮らしぶりの痕跡から、宗派や経歴が判るような遺留品を持ち帰る。出来れば遺族がいないか手紙の束を調べて、故人と交流のあった人が見つかれば連絡も付けます。
しかし、そもそも都会で誰にも知られずに孤独死を迎えるような人に、誰かと交流がある方が珍しい。遺体も腐乱してきて、隣近所から苦情があって初めて発見されるようなケースが多いので、連絡が付けられるのも稀であるようです。
それにしても、独り身で自分が死んだ後のことまで頓着しないでいると、市の民政係にズカズカと部屋に入り込まれ、色々と物色されたりするのですね。本作では数人の「孤独死を迎えた方の部屋」が映りますが、洗濯した下着が部屋の中に干されたままになっていたりするのは溜まらんデス。いや、死んでしまえば気にしないから、専ら嫌な気分になるのは見せられる方か。
高齢者の一人暮らしの侘しさが漂ってくる部屋が多いです。手紙のやり取りがないかと探し、クリスマスカードや誕生祝いのカードがあっても、全て故人の自作自演だったと判るのも切ない。
やっとのことで親族を見つけたとしても、既に縁を切ったとか、忙しいとか、言い訳されて葬儀に姿を見せることも無い。子供もとっくに成人した後なので、「もう関係ない」と云われてしまえばそれまでなのか。確かに「葬儀に出席しないと法に触れるのか」と問われると、そうではありませぬが。
何ともやりきれない仕事であります。
したがって葬儀に出席するのは、いつもエディ一人だけ。しかし可能な限り、故人の生前の経歴を調べ上げ、その生活を想像し、趣味や嗜好を理解してあげようという姿勢は崩さない。
その調査結果は、葬儀の際に神父さん(あるいは司祭か)が読み上げてくれます。決して亡くなったのは、どこの誰とも知れない馬の骨では無い。顔があり、名前があり、何を愛し、どんなことに情熱を傾けたのか、読み上げてもらえるだけでも、無味乾燥な葬儀が和らぎます。
例え、それを聞いているのが、書いたエディ本人だけで、書いた文章も想像の域を出ないものだとしても。尽くせるだけの礼は尽くして「おみおくり」する、実に誠実な人間です。
本作では、特にエディ・マーサンが己の死生観や、孤独死を迎えた故人に対してどのような考えを持っているのか、語られることはありません。ただ、黙々と仕事をこなす姿を追いかけていくのみ。そして勤務を終えて帰宅する。実に単調な生活です。
ただ、そうやって案件が処理されていく都度、調査の際に使用した故人の顔写真を捨てること無く、自分専用のアルバムに保管しております。エディ本人の自宅もまた殺風景で、簡素な部屋ですが、お一人様で食事を済ませると、ひまを見てはアルバムのページをめくっている。
そこに綴じられているのは、すべて顔写真だけ。名前も何もない。カラーあり、モノクロあり、証明書用のかしこまった写真や、ポートレイト、スナップショット、様々です。映っているのも老若男女様々で、亡くなった年齢に近いものから、生前の若い頃と察せられる写真もある。
すべてエディが処理してきた案件の人々ですが、そこにどんな事情があったのかまでは判りません。ただ、人種も年齢も様々な男女の写真が綴られているのみ。
そうやって孤独死を迎えた人と日々接している所為か、自分の死後についての準備も怠りないエディです。いずれ自分もまた身寄りの無い独身者として孤独死を迎えることを予感しているのか。
生前から自分が埋葬される墓地の手配も済ませている。見晴らしのいい場所に用意された墓地の区画はお気に入りのようです。
ところがある日、エディは解雇を云い渡される。市の予算縮減で部署が合併されることになり、自分の後任は、もっと若い女性職員になるのだと云う。
勤続二二年の果てにあっさり解雇とはあんまりですが、決して声を荒げて抗弁したりはしないエディです。ただ、その日受け付けた最後の案件だけは、処理させて欲しいと願いでる。そして三日間の猶予を得ますが……。
実は、その最後の案件は自分の住まうマンションの向かいの棟の住人だった。済んでいる階も同じで、自室の窓からその人の部屋の窓が真っ正面に見える。長年、住んできた部屋のこんな近くで、孤独の果てに亡くなった人がいたという事実に運命的なものを感じたようです(しかもそれが最後の仕事だし)。
そして、いつもならやらないことをやり始める。有給休暇を取得し、自費で故人の調査を開始するわけで、一介の民政係が素人探偵となって、故人の生前の経歴を辿っていきます。
調査の合間にも仕事の引継ぎが行われますが、後任者のぞんざいな仕事ぶりには唖然とするばかりです。
遺灰のボトルの処理が滞っているのは判りますが、十数人分の遺灰を、一つの穴の中に、まるで産廃物でもあるかのように廃棄していくのは酷いハナシです。それは絶対に「埋葬」とは云わんのじゃあッ。
それでも役所の上司は「処理が早くて助かる」なんて口にする。もはや失ってはいけないナニカが失われております。しかしエディにはどうすることも出来ない。
ただ、最後の案件だけは絶対に他人任せには出来ないと決意したらしいのが察せられます。
調査の結果、故人が決して善人では無かったこと、むしろロクデナシの前科者だったことも判明しますが、そんなことで調査を止めるエディではない。
かつての職場の同僚や、元恋人、ホームレスだった頃の仲間や、軍隊時代の戦友の居所まで突き止めていくエディ。もはや執念。しかし行く先々で葬儀への列席を求めても、色よい返事は返ってきません。そして遂に一人娘の存在まで突き止める。
「何故、そこまでするの」と訊かれても、「仕事ですから」としか答えないエディですが、調査の過程で故人に親近感を抱くようになったのか、自費で柩や墓石の調達、果ては自分用の墓地の区画まで譲って埋葬するよう手配しております。
最後の仕事だけは民政係の職務を相当に逸脱していますね。
しかし何とか一人娘を説得して葬儀への列席を取り付けたところで……。あまりにも唐突な交通事故が待ち受けている。いや、これは惨すぎる。
ただ、最後の葬儀には、一人娘だけではなく、故人の元同僚、元恋人、元戦友と、それまでエディが口説いてきた人達が全員出席してくれていたのには救われる思いがします。これこそ「葬儀」と云うべきものでしょう。
その一方で、エディ本人の方はと云うと……。身寄りの無い独身者として、簡潔極まりない扱いです。自分が「そうならないように」気をつけていた扱いを受ける身となってしまうとは哀しすぎる。
結局、エディが生きてきた証は何一つ残らず、埋葬された場所を誰かが気にすることも無い。
しかし生者は誰も気に掛けずとも、今まで礼を尽くして「おみおくり」されてきた死者は、決して忘れたりしないのだと云うラストシーン。
アルバムの写真が伏線だったとは(どおりで特徴的な人の写真が多かった筈だ)。年齢、人種も様々な男女がエディが埋葬された場所に無言で集うエンディングに、死後の世界など信じない私もちょっと感動いたしました。
正直で真面目な人には、これくらいの報いはあって然るべきですよね(むしろ少ないか)。
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