人類の絶滅を画策したり、完全な管理下に置こうとしたりする巨大なコンピュータというのは、古いSF者にはお馴染みのイメージですね。昔はどこぞの地下施設にバカでかいメインフレームがドーンと鎮座して、ライトを点滅させながら重々しく御託宣を下していたりしたものです。
個人的には『地球爆破作戦』(1970年)に登場したコロサスが元祖デス。
でも、もはや巨大なメインフレームなんぞという概念自体が廃れてしまいましたね。今や広大なネットの海に情報生命体が発生する時代ですよ。
SFも、それが「敵か味方か」よりも「人類進化の進む道」であると捉える方向にシフトしてきた感があります。
「自我を持つコンピュータ(又はソフトウェア)は人類の後継者である」、あるいは「人類が精神をネット上にアップロードして進化の階梯を登るのである」というネタの方が主流でしょうか。ハードよりもソフト重視。
本作もまた、その時流に従いまして「精神のアップロード」によって「自我を得た人工知能」が登場し、人類進化のひとつの可能性を示唆するものになりました。加えて「未知なるものの恐怖」が描かれ、SF的なサスペンス映画となっております。ちょっと思弁的な描写があるのも、近年珍しいSF映画です。
SF者としては、劇中で「シンギュラリティ(特異点)」について語られていたのが印象的でした。でもジョニー・デップは「シンギュラリティと呼ぶよりも、トランセンデンス(超越)と呼ぶ方が好きだ」なんて云ってましたけどね。そうかな。好みの問題ですけど。
まぁ、どう呼ぶかよりも、それが「人工知能が自我を得ること」であると云う定義さえ押さえておけば良いでしょう(それがシンギュラリティの全てではありませぬが)。
細かいことを云えば、この「特異点」は社会学的な「技術的特異点」であって、数学や物理で扱われる「特異点」とは別物です(だからブラックホールとは無関係)。SF者にとっては、ヴァーナー・ヴィンジが提唱した馴染みある概念ですよね。
でも「シンギュラリティ」と云う言葉は、「サイバーパンク」ほどには流行りませんでしたねえ。
本作の監督は、これが初監督作品となるウォーリー・フィスター。『メメント』(2000年)以降は、クリストファー・ノーラン監督作品の撮影監督を務めていたそうで、本作ではクリストファー・ノーランは制作に回っております。
主演は前述のジョニー・デップに加えて、レベッカ・ホール、ポール・ベタニー、モーガン・フリーマン、キリアン・マーフィといった面々。好みの俳優さんが多くて嬉しいデス。
ジョニー・デップが主演でなければ、こんな小難しいSF映画はミニシアター行きだったことでしょう。
でもジョニーの出番はあまり多くないです。何せ、生身で登場するのは序盤と終盤のみですから。劇中では、ほぼ人工知能の役と云うか、アップロードされた人格としての登場ですので、静止画像と声だけの出演の方が多いデス。
なので、もっぱらコンピュータと対話しているレベッカ・ホールの方が出番が多い。二人は学者夫婦と云う設定で、レベッカは凶弾に倒れたジョニーの意識をコンピュータ内に保存しようと奔走します。
これに協力する同僚がポール・ベタニー。割と悪役の方が多い印象でしたが、本作では優秀な科学者として登場し、次第に「自我を得た人工知能」に懐疑的になっていく役どころ。
モーガン・フリーマンも科学者役で、キリアン・マーフィだけはFBI捜査官です。個人的には、ポール・ベタニーとキリアン・マーフィは役を入れ換えた方が似合っていたような気がします。
ジョニーとレベッカは仲睦まじい科学者夫婦であり、科学の発展が人類の幸福に繋がると信じて研究を進めています。
劇中では、人工知能の開発は人間の脳の研究に繋がるので、アルツハイマーのような疾病への治療方法開発にも寄与すると語られております。しかし同時に、自我を得た人工知能のネットワークは人類を容易く凌駕してしまうのではないか、とも語られます。
SF者には馴染み深い講釈ですね。そしてジョニーは質問を受ける。
「あなたは神を作りたいのですか」
「人類は常にそうしてきましたよ」
このちょっとシニカルな回答が、狂信者の逆鱗に触れてしまったようで、ジョニーは過激派に撃たれる羽目になる。しかも銃弾にはポロニウムが仕込まれていた。
こんなところでポロニウムなんぞと云う放射性物質が飛びだしてきたので意表を突かれました。リトビネンコ事件以来、暗殺方法として有名になりましたねえ。
銃弾は摘出したものの、既に体内で被曝しておりジョニーの余命は長くない。最後の延命手段としてレベッカが思いついたのが、精神のアップロード。
しかし首尾良く精神をコピーできたとしても、意識や記憶に欠落が生じたらどうするのか。それは果たして同一人物として扱えるのか。
ポール・ベタニーが疑問を呈しますが、愛する夫を助けるために藁にもすがる心境のレベッカ・ホールは聞く耳持たず。
記憶と人格についてのストーリーとしては、チャニング・テイタムとレイチェル・マクアダムスが主演した『君への誓い』(2012年)を思い出します。
本作でも、割と哲学的なテーマについて触れられたりしておりますが、サスペンスを盛り上げる為にはあまり立ち止まって考えている余裕も無く、軽くスルーされてしまったのが残念ではあります。他にも、人間の人格の扱いについて興味深い疑問があったのですが。
即ち、アップロードが成功した場合、それは「人間の精神が機械に宿っている」のか、それともそれは「自分のことを人間だと思い込んでいるコンピュータに過ぎない」のか。
劇中でも、ジョニー・デップが人工知能として甦ったのか、ジョニー・デップのフリをしている人工知能なのか、レベッカ・ホールに迷いが生じる場面があり、サスペンスから次第にスリラーの様相を呈してくる展開がありました。
でも、人間のままでも時期によっては考え方が異なることもありますし、ショッキングな経験を経て「人が変わってしまう」場合もありますので、見分けが付かないのは同じでしょうか。
チューリングテストに合格しちゃうコンピュータも現れる御時世ですし。
本作はアップロードされた人間について考察するような静かなストーリーにはならず、そこから更に派手な展開に雪崩れ込んでいきます。
過激派の手を逃れたレベッカは、二度とジョニーの存在を脅かされないように安全な拠点の建設に着手する。必要な資金はネットの中に解き放たれたジョニーが容易く調達してしまう。
意識がネットの中に存在するだけでスーパーハッカーと化すと云う描写がいささか安易に思われますが、やはり人知を越えた力を手にしたことを判り易く描くにはこれが手っ取り早いですかね。
人間の頭脳が超高速演算能力を身につけ、あらゆる機密情報にも意のままにアクセスし操作できるようになっていく。ある意味、超人が誕生したに等しい。
しかし人工知能だけでは見た目のインパクトに欠けると云う判断でしょうか、本作は人工知能ネタだけではなく、ナノテクノロジー・ネタも積極的に取り入れていきます。
シンギュラリティは何も「人工知能の自我獲得」に限った概念ではありませんし、ナノテクノロジーの実用化も「社会のあり方をガラリと変えてしまう」と云う点では同じでしょう。本作では超人的な人工知能が、瞬く間にナノマシンを開発してしまい、それを応用して世界を変えてしまおうとする方向に進展していきます。
したがって、もっぱら映像として凄いのは人工知能ではなくて、ナノマシンの方です。
しかしハリウッド──と云うか欧米人──がナノマシンをSF映画に登場させると、どうしても宗教的にならざるを得ないのでしょうか。基本的に「ナノマシンに不可能なことはない」わけですし、物質を自在に操る力は、もはや神の御技でありましょう。
だからどうしても、聖書由来の描写になってしまう。判りやすい演出ですが。
キアヌ・リーブス主演のリメイク版『地球が静止する日』(2008年)では、ナノマシンによる災厄が「すべての物質を喰らい尽くすイナゴの群れ」といったイメージで描かれておりましたし、本作に於いてもナノマシンは「盲目の人を治し、足の不自由な人を歩かせる」奇蹟の力を振るっております。
神になる、あるいは神と同等の力を得る、という演出としては手堅いです。でも日本人としては、そこに「畏怖の念を抱く」境地には至りませんです(便利だとは思いますが)。
ナノマシン描写は更にエスカレートしていき、人体の強化、驚異的な修復、意識の共有までが描かれます。人間が重い鉄骨も難なく持ち上げ、怪我をしてもすぐに治り、言葉を介さずとも連携した行動が可能になる。
さすがにここまで来ると、なかなかSF的で不気味ではあります。特にナノマシンがネットワークにアクセスし、人々がある種の群体生物のように動いているのが怖い。しかもジョニー・デップがそれを操れるとなると、もはや超人と云うよりも怪物です。
このあたりの、目的のためには他人を意のままに操ることも平気でしてしまうジョニーに非人間的なものを感じてしまうのですが、どこで人間性を喪失してしまったのかがよく判りません。それともやはりアレはジョニーのフリをしたマシンだったのか。
多少、駆け足的な展開ですので、人類側との攻防戦もあまり大々的には描かれないのが物足りなくはありました。もっと大都市が丸ごとナノマシンに分解されて飲み込まれるようなスペクタクルがあっても良いような気がしました。CG特撮も見事なので、もっとドーンとやっても。
その代わり、人工知能はナノマシンによる人体の完全再生も可能にする。遂にジョニー・デップが再び身体を得て甦るのですが、この「復活」にも宗教的な匂いを感じます。
日本人としてはそこまで聖書のイメージにこだわらなくてもいいのにと云いたいところデス。
遂に人類側は地域全体のエネルギー供給を遮断する強硬手段に訴え、同時にレベッカが戦闘に巻き込まれて重傷を負ってしまいます。ジョニーは助けようとするものの、エネルギー不足で妻のアップロードと施設の再生を同時に行えない。
加えて、ポールの開発した人工知能には致命的なウィルスが作用し、さしもの超人も活動を停止する。自分だけが助かるつもりなら手段はあったが、妻を救う為には我が身の危険も省みなかったジョニーは、やはり本物の人間だったのか。
夫妻の遺体は抱き合って眠るように横たわる。二人の精神は最後の瞬間にいずこかへアップロードされたのか、もはや確かめる術はない。
しかし人工知能は停止したが、解き放たれたナノマシンは世界中に拡散し、緑化の促進と汚染物質の浄化という単純作業を続けている。結局、地球を救うことに熱心だったのはレベッカの方であり、ジョニーは妻の願いを叶えるために全力を尽くしていたのだと明かされる。
意識や自我がなくとも、夫妻の愛と善意はナノマシンに宿り、ポール・ベタニーがそれを一滴の水の中に見て取る場面がラストです。
楳図かずおの『わたしは真悟』にある、「そしてあとにアイだけが残った」と云うラストシーンを想起してしまいました。人工知能が自我を得る、と云うネタでも共通しておりますね。
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