この町は聖母マリアの出現と、奇蹟を起こすという「ルルドの泉」で知られている。嘘か誠か、一八五八年のこと、町の郊外にあるマッサビエルの洞窟の近くに聖母マリアが顕現し、洞窟からは聖母の言葉どおり泉が湧き出したと云う。
そしてその泉の水には、どんな難病も癒やす治癒効果があると信じられるようになった……。
無神論者のSF者としては如何なものかと思うのですが、信じる人は沢山いるようです。
そりゃもう今やカトリック教会の中でも指折りの巡礼地ですし、町に建てられた小さな聖堂は、やがて巡礼者で賑わう大聖堂へと変貌したそうな。
本作は、この世界的に有名になった聖地ルルドへ集う巡礼者達と、その中の一人の女性に起こった不思議な出来事を、さり気ないタッチで描き出すドラマです。殊更センセーショナルに「奇蹟だ!」と主張するようなことは一切せずに、その判断は観たものの判断に委ねられます。
奇蹟なのかどうかもビミョーなところですし。
本作はオーストリア、フランス、ドイツの合作映画で、監督および脚本はオーストリアのジェシカ・ハウスナー。二〇〇九年のヴェネチア国際映画祭国際批評家連盟賞、シグニス賞ほか五部門で受賞しております。
主演はフランスの実力派女優シルヴィー・テステュー。『サガン/悲しみよ こんにちは』(2008年)とかの文芸作品の方は未見でしたが、『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』(2009年)は観てますよ(ジョニー・アリディの娘さんの役でしたか)。
ルルドの泉については、カール・セーガン博士の著書『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』(新潮社)でも取り上げられ、「プラセボ(偽薬)である」とバッサリ斬り捨てられておりましたが、カトリック信者の皆さんにとってはそんな批判は何ほどのことも無い。
カール・セーガンや、マーティン・ガードナーや、テレンス・ハインズといった人達がどんなに疑似科学を批判しようが、それで信仰は揺るがないのデス。
まぁ、私としては奇蹟なのかプラセボなのかはさておき、本作で描かれるルルドの町の様子が非常に興味深かったです。本作は一応、フィクションではありますが、背景となるルルドの町の様子はドキュメンタリー映画さながらにリアルです。
聖地での映画撮影は二〇年ぶりだったそうな。
ルルドを訪れる何万人もの人々(年間六〇〇万人とな)。和気藹々とおしゃべりしたり、記念写真を撮ったりして、見物の行列に並んでいる。一見したところ、よくある観光地の風景のように見えないこともないのですが、車イスの観光客が妙に多そうなところが普通の観光地とは一線を画するところでしょうか。実は観光客では無くて、皆さん巡礼者なのですが、傍目に違いがよく判りませんです。
観光バスが何台も並んで駐まっている大きな駐車場があり、街中の土産物売場では大小様々な「聖母マリアの像」が売られている。聖母グッズか。
「奇蹟」で町興しをしているような感すらあります。
立派な大聖堂では、何人もの司教や聖歌隊がズラリと並んで、昼も夜も盛大にミサが執り行われている(夜のミサでは、皆が手に手に明かりを灯して集まる光景が実に幻想的で美しい)。
大聖堂と並んで人気の巡礼スポットであるマッサビエル洞窟は、訪れる人々が皆、壁に手を触れていくので、洞窟の壁が妙になめらかでスベスベしています。
車イスで訪れる巡礼者の為に、ボランティアのブラザー&シスターが何百人も(何千人も?)待機しており、必要とあればすぐに車イスを押してくれる。女性ボランティアの方は一見してすぐに判るナイチンゲール的看護婦スタイルですが、男性ボランティアは全員がきちんと制服を着用しているのが印象的です(最初、警官か警備員かと思ってしまいました)。
まぁ、劇中ではそれほど親身になってくれない人も登場したりしますが。
世界中でルルドほどバリアフリーに気を遣う観光地も無いのではないかと思われます(だから観光地じゃ無いってば)。
なんか観ていると神聖なのか俗っぽいのか、よく判らなくなってくる不思議な雰囲気です。
重篤な病を得て藁にもすがるような気持ちで巡礼に来る者もいれば、単に湿疹でかぶれただけの人もいるし、ここを巡礼するのが一生に一度の夢だった人もいれば、もう何回来ているのか判らないようなリピーターもいます。
巡礼者の中でも希望する者には、泉の水で沐浴することが出来ます。沐浴も巡礼ツアーのオプションになっていると云うのが何とも世俗的。
しかし泉での沐浴と云うから、何となく野外の秘湯的な場所での水浴なのかと思っていましたが、まるで違ったのが意表を突かれました。
大聖堂なのか、隣接する別の施設なのか、とにかく屋内で沐浴します。
なんか病院の診察室みたいなところに連れてこられ、カーテンで仕切られた区画で、散髪屋のケープみたいなものを巻かれる。
そしてシスターが蛇口からコップに水を注いで、その水を頭からパシャパシャとかけてくれる。
なんちゅーか、ソレはホントに有り難いことなんですかとツッコミ入れずにはおられぬほどにシステム化された沐浴でした。その蛇口から出てくるのが、ルルドの泉の水らしいのですが、見ただけでは判らないし、普通の水道水でも変わらないのでは……などと云うと、敬虔な信者の方から叱られそうですね。
いや、でも、あんな沐浴でいいのかしら。本人が納得していればいいのか。
これではプラセボと云われても仕方ないような……。
でもこれで首から下が完全に麻痺した女性クリスティーヌ(シルヴィー・テステュー)は立てるようになるのです(多発性硬化症の筈だったのに)。
劇的なところはまったくなく、しばらくしてから手が動いて洞窟ツアーの際には壁を触れるようになり、翌日ごく自然にベッドから起床する。本人には驚きの表情も何もありません。
むしろ夢遊病患者のような動きのように見受けられました。
実際、夢の中で「立ちなさい」と声を聞いたと云っておりますし。
これが奇蹟なのか、劇中では判断されません。
何せ、ルルド医療局の認定基準は大変厳しい(カトリック教会の医療局というのが興味深い)。診察した医師も「再発の可能性」に言及するし、一筋縄ではいきません。
一時的に症状が改善したように見えて、また元に戻ったケースも多いとか。やはりプラセボもあり得るわけですね。
公式には現在までの「説明不可能な治癒」二五〇〇件中、奇蹟と公式認定された症例は六七件しかない。いやいや六七件もあることの方が驚きですが、残りの二四三三件はプラセボで治ったと云うことなのでしょうか。
他にも認定には患者の信仰心の強さや、人格の査定までしないとイカンそうです。やはり滅多に奇蹟は起きないものなのか。
奇蹟は滅多に起きない。訪れた巡礼の大半は失望して帰るだけ。
なので、神父さんたちは最初から「ここは第一に魂を癒す場所なのです」なんて予防線を張ったりしているくらいです。しかし「魂を癒す」為だけに、こんなピレネーくんだりまで巡礼に来る人の方が珍しいと思うのですが。
巡礼ツアーでは集団セラピーのようなことも行われています。
「普通の生活が送りたい」と望む障害者に、「普通の生活とは何ですか」と神父さんが逆に訊き返す場面もありました。
「どの人生もそれぞれに異なるのに、そちらが幸せであると誰に判りますか」
まぁ、そうでしょうけど、重度の障害に比べれば、大抵の生活の方が幸せのように感じられるのですがねえ。私は凡俗ですからよく判りませんです。
治った本人としては、認定されることに関心は無く、ただ嬉しいだけ。熱心に感謝の祈りを捧げたりしないあたりが、あまり信心深い方では無かったようです。
しかし信心深く振る舞わないと周囲から反感を買うというのも如何なものか。
そして「何故、あの人だけに奇蹟は起きたのか?」と妬みにも似た疑問が沸いてくる。本人ですら「何故、自分なのか」という問いには答えようがない。
同じ巡礼ツアーにいる人たちから質問責めにあう神父さんがちょっと可哀想でした。
「どうすれば私にも奇蹟が起きますか」なんて質問に答えられるワケがない。
神は善良なのか。神は全能なのか。もし善良かつ全能なら何故、こんなことをするのか。
「神の力は偉大ですが、その力は人の心の中にあるのです。だからその力がどのように顕れるのか、推し量ることは出来ないのです」
かなり苦しい言い訳のようですが、一面の真理ではあるように思われました。プラセボもそういうことなんですかね。
結局、奇蹟認定は行われないまま、巡礼ツアー最終日のパーティが催され、クリスティーヌは「ベスト巡礼賞」も受賞し──だからそんなに世俗的でいいのデスか──、初めて男性とダンスを踊ったりもします。
そこで突然、クリスティーヌは立っていられなくなり、一度倒れ、そしてまた車イスに腰掛けてしまう。
このラストがどういう意味を持つのかは判然としません。
治癒は奇蹟では無かったのか、それとも単に疲れただけなのか。
そりゃ初日から動き回りすぎた所為だろう、と思うのですが……どうなんでしょうねえ。
奇蹟を描き出すよりも、それによって巻き起こる人間模様の美醜が印象的でした。
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