最近のラノベ原作のアニメだと『パパのいうことを聞きなさい!』にも「小鳥遊」と云う苗字が登場しておりましたな。ラノベ好みの名前なんですかね。
同様に「五月七日」さんを「つゆり」さんと読めるヤツもアニメヲタでしょう(全国に実在する五月七日さん、ごめんなさい)。うーむ。「四月一日」さんが「わたぬき」さんであるとは存じておりましたが、「五月七日」さんまでは存じませんでした。
他にも日付関係の名前だと「六月一日(うりはり)」さんとか、「八月一日(ほずみ)」さんとかありますね。
ましてや「凸守」さんなんぞと云う、珍名が実在するというのも、この作品で知りました(ファンならばフツーに「でこもり」と読めますね?)。いや、勉強になります。
本作は他にも実在する珍名のオンパレードですが、「丹生谷(にぶたに)」さんとか、「九十九(つくも)」さんなんかは、可愛い方ですねえ。
かように奇妙な名前をキャラクターに名乗らせる時点で、既に中二病が炸裂しております(メタな構造だなぁ)。変わった名前はそれだけで他者と差を付ける一番手っ取り早い手段ですからね。
しかし「中二病」とは本来、「思春期にありがちな空想や背伸びした行動を指す言葉で、実際の病気のことでは無い」とNHKの某番組で解説されておりました。
別に、〈見えない敵〉と戦うばかりが中二病では無いのである。味も判らないのに珈琲をブラックで飲み出すとか、夜更かしして深夜のラジオ番組をチェックするとか、メジャーな流行を馬鹿にしてマイナーなサブカルを礼賛したりするのも、立派な中二病なのだ。
うわ、いちいち思い当たることばかり(汗)。
大事なのは、自らを省みて、そういった行動を自虐的に笑えるかどうかであるそうで、最近の「中二病」という言葉の使い方は、当初流行りだした頃と少し変わってきているような気がしますね。
自分が中二病であったか否かは、それを「卒業」してみないと判らない。今まさに真っ盛りな人は、自分が中二病であるとは決して認めないし、自覚できないのです。
自覚した時点で、傷は癒えた──卒業した──と云うことなんでしょうか。
本作の劇中でも、「中二病」と云う言葉を使うのは、富樫くん(福山潤)や丹生谷さん(赤崎千夏)であって、決して六花ちゃん(内田真礼)や凸守さん(上坂すみれ)ではありません。
「私は中二病です」と云う言葉の使い方は矛盾しているのだ。「~でした」ならいいのか。
でも最近では、自覚しながらソレを楽しむ人達のことも指しているような。
本作の劇中では、六花ちゃんのお祖母さんが端的に、ミもフタもない言葉で表現しておりましたね。「ごっこ遊び」と。
まぁ、傍から見ていると、真剣に〈見えない敵〉と戦う人の方が稀でありますので、やはり遊んでいるように見えるのでしょう。いや、真剣な人も楽しいからやっているのであるから、自覚していなくても遊んでいることになるのかしら。
六花ちゃんのお姉さん十花さん(仙台エリ)──別名、プリーステス──のような真面目な人からは、やはり巫山戯ているようにしか見えないか。
しかし立花ちゃんが中二病であるのは、ナニも楽しいからとか、遊んでいるからではなく、厳しい現実に立ち向かい、受け入れることが難しいからなのであって、そんな人から無下にファンタジーを取り上げようとするのは如何なものか。
これは、アン・リー監督の『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』(2012年)にも通じるところがありますね。人間、現実が過酷である場合にはファンタジーが必要になるのです(あ、ネタバレしてますか)。
この、「本人が切実な理由からファンタジーを欲して逃避していることを理解できない人との軋轢」を描くところが、本作の一番の見どころでありましょう。
どちらの言い分も判るだけに、実にイタいし、辛いです。
本作と同じく、中二病を扱ったアニメ──あるいは中二病な人物が登場するアニメ──と云うと『AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~』(2013年)とか、『Steins;Gate シュタインズ・ゲート/負荷領域のデジャヴ』(同年)なんて作品が思い浮かびます。特に前者はジャンルも学園ラブコメでありまして、内容的にも類似点が多いです。
原作のラノベの方は『AURA』の方が三年ばかり早いのですが、アニメ化は『中二病でも~』の方が早かったのですね。
しかし、劇中での中二病に対する姿勢が『AURA』と『中二病でも~』では正反対ですねえ。「辛い現実から逃避しようとしたガールが中二病をこじらせ、ファンタジーどっぷりな生活を送っておるところへ、かつて同様に中二病だったボーイと出遭う」と云う基本的なスタイルは共通しておりますが、同じところから出発して着地の仕方がまるで違う。
『AURA』では、主人公達は「現実」に帰還できるわけで、「──ふたりなら、潰されない」と云うキャッチコピーがまさにそのことを言い得ております。
リアルな世界を生きていくのは辛いけれど、それでも頑張っていきましょう的なラストでした。
『中二病でも~』と決定的に違うのは、「主人公が酷いイジメに遭う」と云う描写でした。
それに対して『中二病でも~』の方は、似たようなラストでありながら、主人公は中二病を卒業しない。一度はリアルな世界に帰還するものの、死んだようになって生きるくらいならファンタジーに生きる方がマシである、と云う正反対な結論であったと思います。
こちらでは『AURA』の良子ちゃんのように、立花ちゃんはイジメに遭ったりしません。周囲の理解があるから、「卒業」しなくてもやっていけるのでしょうか(富樫くんの苦労が続くことは御愁傷様ですが)。
しかも、それなりにストーリーは綺麗に終わったと思ったのに、実はまだ続きがあるらしい(原作小説も二巻ありますし)。
本作はほぼTVシリーズの総集編でありますが、更に続くTVシリーズ第二期へのプロローグ的な作りにもなっております。と云うか、第二期製作が決定したので、つなぎとして劇場版が製作されたと云うべきなのかしら。
本作の監督はTVシリーズと同じく石原立也です。京都アニメーションのアニメでは、『涼宮ハルヒの憂鬱』の監督ですし、『涼宮ハルヒの消失』(2010年)の総監督でもありましたね。
TVシリーズ第二期の監督も続投だそうで、期待しております。
総集編ではありますが、若干の新作部分も追加されております。
冒頭に、番外編である短編『中二病でも恋がしたい! Lite』の新作エピソードが付いてきます。富樫くんが「ちょっとヘンだった頃」のエピソードを妹の視点から描くという趣向で、福山潤のオーバーな演技が炸裂しております。
専用の主題歌まで付けています。「深淵に舞う戦慄謝肉祭」の歌詞は、どこかで聞いたようなキメ台詞が散りばめられた、実に賑やかなサンバ調の歌曲です。デフォルメされた立花ちゃんが可愛い。
それから改めて本編のストーリーが始まりますが、ここでも新作部分が追加されております。
あれから二年──という設定──で、富樫くんと立花ちゃんが華燭の典を挙げようとしたところへ、凸守さんが挙式を阻止せんと突入してくると云う、あからさまに妄想炸裂なドラマでした。
互いにドラゴンを召喚しあって、実にド派手で壮絶なファンタジー戦闘が描かれますが、すべては立花ちゃんの夢だった……。そんなアホな。
実は本作は、TVシリーズの最終回で立花ちゃんが一人暮らしを始める直前のエピソードという位置づけになっています。
最終回では、一件落着した後、立花ちゃんは富樫くんのマンションの上の階で以前と同じように暮らし始めるわけですが、実は問題が無かったわけでは無い。女の子が一人暮らしを続けるに当たって、実家の了解を得る為に富樫くんは裏で奔走していたのである、と云う事情が本作で補足説明されます。
その富樫くんの帰りを待つ間に、立花ちゃんが凸守さんに「二人の馴れ初め」を語り始めると云う趣向で、全体が「立花ちゃんの回想」になっています。
しかし語られるのは、主に凸守さんが知り得なかった部分になるので、TVシリーズ本編の真っ当な総集編にはなりません。そもそもそれだけの尺もありませんし。
もう、途中が大胆に省略されまくり。「それから色々あった気がするが」だけか。
まぁ、劇場に足を運んで本作を鑑賞する人は、そのあたりはとっくに承知している方ばかりである筈ですから、特に問題はありませんかね。
「深淵に舞う戦慄謝肉祭」の他にも、劇場版用に色々と歌曲が用意されており、オープニングテーマ「─ Across the line ─」と、エンディングテーマ「Secret Survivor」が流れますが、TVシリーズのオープニングテーマ「Sparkling Daydream」が好きだっただけに──特に「夢なら沢山見た/醒めたままでもまだ会いたい」と云うサビの部分が好き──、ちょっと残念ではあります。
ところで福山潤や内田真礼といった主演の声優さん達よりも、エンドクレジットでは主人公の母とか姉とかいった役に、天野由梨、岩男潤子、仙台エリといった声優さん達が配役されていることの方に目が行ってしまいました。個人的にはそちらの方々の方が馴染み深いので。
うーむ。今や天野由梨や岩男潤子が母親役かあ。
せめて同級生の友達とかにしてェ(泣)。
余談ばかりになって恐縮ですが、「自動ドアに手をかざす」人は、まだ中二病を引きずっておりますよね。劇中でも最初に立花ちゃんの登場シーンで描かれておりましたし、ラストシーンでも同様のことをする女の子が登場します(第二期から登場する新キャラらしい)。
中二病診断の質問事項にも出て来そうです(多分あるでしょ)。
私にも覚えがある……と云うか、今でも時々やっています。いや、ほら、最近は感圧式より赤外センサーか何かで開くドアの方が主流ですし、手を伸ばせばその分ドアが早く開き始めて立ち止まらずに済みますし(云い訳だ)。
最悪、見とがめられても「ジェダイの騎士の真似」と云えば、世間的な通りもいいのでお茶を濁すことも可能デス。『スターウォーズ』はメジャーですからね。フォースと共にあらんことを。
しかし本当は、『ミクロ決死隊』のミスター念力の真似であることは絶対の秘密です。若い人にはまず判らんネタか。
だが自動ドアの前に手をかざすとき、我が脳内には大塚周夫のボイスが流れているのである。
「むぅう。念力ィィィ」
●補足
『ミクロ決死隊』とは一九六八年にアメリカで製作されたTVアニメでありまして……なんて解説は必要無いですか。
今にしてみれば、これをNHKが吹替版を製作して放送していたという事実の方が驚きデス。
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